6-2


 市街で合流した恭个と近衛は特に会話を交わすこともなく逆行する人々の流れをやり過ごしていく。ふうわりふらり、とした恭个の足取りは宙を泳いでいく魚のような非現実感を思わせる。迷い歩く夢遊病者のようでいて、芯は貫き通している。頬に張り付く薄い笑みが、その時の彼女の胸中を表していた。適度な緊張感とそれを緩衝する安心感、伊折との腹の探り合いにも似た話し合いが、心理的均衡を保つ要因と働き恭个から余裕ある空気を醸成させていた。

 その効果もあってか、狂騒の中を連れ添う近衛は取り乱すことなくだんまりと恭个の傍を付かず離れず付いていく。

 絶叫は谺して、店の軒先から顔を出す人々までがこぞって奇声を発する。死に物狂いで何かから逃げていく男が二人の脇を走り抜ける。一人や二人ではない。大して気にも留めない恭个を眉をひそめて見上げる近衛だったが、特に意見することはなかった。

 繁華街はそういった嬌声に満ちていた。櫻見町は狂気的に変化しつつある。そうと認めてしまえば、それに一々意見することもない。

 大英帝国然とした街燈の灯りが、目抜き通りを駆け抜けて暗がりを照らし出した。白くもやる視界は霧さながら、立ち込める町の臭気が目を眩ます。それは、ガス燈の灯りに照らし出される過去の幻影の如く、心象を別世界に運ぶ。

 刹那の瞬きの次の瞬間には、空は漆黒を纏い街路は陰る。いよいよ繁華街は猥雑の極みへと移りゆく。

 町を吹き抜ける風は素早く、通り過ぎざまに首筋を引き裂かんばかりの冷たさだった。鋭利で硬質な疾風は急速に身体の温度を奪い震えを奔らせる。恭个はコートの襟を合わせて身を縮めた。近衛は首に深紅のマフラーを巻いていた。彼女がこの寒さに怯む様子はない。しかし、その色と首に巻き付けるという組み合わせが、どことなく不吉な印象を恭个に抱かせた。

 近衛はライダースジャケットにスキニーのジーンズ、ミリタリーブーツというタイトで攻撃的な出で立ち。彼女曰く「ドレスコードを弁える、というと小賢しい言い方ですが、結局その場所で浮いてしまう事を恐れているのだと思います」と、寂しげに答えていた。

「私なんてこれしか持っていないから、服装を愉しむ当たり前の感覚が解らなくなってしまいました」

 一張羅でないものの恭个は普段着に似たようなデザインのスーツしか持ち合わせていない。もともと、その格好に強いあこがれのようなものを抱いていた気がするけど、今は記憶を探っても思い出せそうになかった。ネクタイを締めた時に一緒に身も引き締まると錯覚しているのか……。よくよく見てみるとワンポイント入りの緋色のネクタイを締めていることに気付いて、先に抱いた不吉な想像も相まって指一本分それを緩めた。

 水溜まりに立ち込める霧に煙る中から忽然と姿を現した大きな石塊。分厚い壁で覆っただけだと思わせる無骨な建物が、『煙の上の水』主催のイベントが行われるライブハウス〝emeth/エメス〟である。ヘブライ語で真理、生命を吹き込む。ぎらぎらと網膜に焼き付くショッキングな赤に青に黄の文字。アメリカのダイナーやモーテルを彷彿とさせるネオンに光る看板は〝emeth〟の〝e〟の文字の灯りだけ切れている。神秘の秘術で蘇ったゴーレムを倒す唯一の方法である〝e〟を消す、を暗示したまま放置していることに退廃的な悦びを恭个は覚えた。ゴーレムはヘブライ語で胎児だ。このサインが今後をどのように占うのか大変興味深い、と断線したのが原因か、暗い〝e〟の文字の輪郭は火花を散らした。

 地下へと続く階段。閉塞感を覚えるのは音が極端に遮断されるため。受付でゴスロリ少女のもぎりにチケットを差し出す。チケットを受け取る右手に〝404〟の刺青。本来、そこから存在を消された少女。0.5秒間隔――満開の桜の下に消えていった少女――のサブリミナル。幻視を叩き出す、頬を打つ。ぶれた眼球の焦点が元に戻る。視界に二枚の招待状。臼君聖児は何を思って二枚用意したのか? まさかこの場に伊折を同伴させるとでも考えていたのか。馬鹿馬鹿しい、恭个はゴスロリ少女に流し目を送る。ゴスロリ少女の顔がわずかに和らぐ。

 人一人が通れるほどの細い通路の脇にある防音壁を開く。ラウンジになっているオーディエンスの控え、その先に見えるもう一枚の防音壁の先が音を奏するステージの入り口なのだろう。スツール席になっているカウンターの斜め向かいを見上げる形で宙づりになっているモニターでは、無理な態勢でブリッジを組んだみすぼらしいルームワンピース姿の少女が階段を駆け下りていた。無音のループ再生を繰り返している『エクソシスト』のようだった。

 スツールに腰かける短髪で溌剌とした長身の女がショットグラスを軽快に傾けていた。かっ喰らうような勢いは見ていて清々しい。ともすると、軽薄な印象の拭えない厭らしさを発散する女に誘われて、恭个と近衛もその隣に並び座る。

 積み上がった齧ったライムの香りが、女の周囲を漂う。

「外の看板おもしろいでしょう。あれそのままにしてって言ったのあたし」

 女は、粘着質で生温い声をしていた。恭个を横目に捉えて二杯目(恭个たちの認識では)のショットグラスを掲げて見せた。果汁を含み、ウォッカを干す。下品にげっぷをすると、無臭だがアルコールに熱された息を発散する。欲情した獣の交わる姿が彼女の背後を徘徊する。

「あたしがここのオーナー『煙の上の水』さ――あんたのこと知ってるよ? 赫崎恭个。探偵だ。お前も知ってるよ? 近衛静。渡会の従者だ。さあ、あたしは見世物じゃない、あんたらが見世物だ。……なんか飲みな、それがマナーだ。解るだろ?」

 顔立ち。彫が深い。赤錆色の髪、右目の下に刺青〝666〟。悪魔の数字は音楽を飼いならす人間には妥当な数値か。ほとんど平らな胸。これには共感できる。ジーンズの綻びから覗く肌。少しそばかすが散っているけど、張りがあって瑞々しい。繭子と同年代か少し上と予想される。首の長さが際立つ。チョーカーで締め付けられた首。知らずそこに視線を向けていた。まばたきの回数分、締め付けがきつくなっていくような焦りと不安。

 なにがなんでもそこに結び付けたがる想像力を振り払って瓶に口をつけた。

 恭个はハイネケンを。近衛はソーダ水を注文した。カウンター内を指揮する猪首(いくび)の男は顔がほとんど身体に埋まっていて、歩く肉塊にしか見えなかった。

「こんなのじゃあ酔わない。北欧の血が混ざってるからね。酒には強いさ」

 空いたショットグラスを並べて悦に入ったような目が、恭个の身体を舐めるように上から下へと流れる。その好奇心が近衛に向かうことはない。

「今は、前座を遊ばせて場を温めている。あたしの音楽は最高だよ。あんたたちの理性もぶっ飛ばす代物さ!」

『煙の上の水』って長いじゃない。みんなは煙(けむり)って呼ぶからあんたたちもそう呼んで。言われた通りにするさ、と恭个は頷いた。

「その名前にはちょっとした思い出があって、私は水の上の煙っていうのを間違えて覚えていたことがあったんだ。煙が名乗ってる通り。あべこべに。それが何だか懐かしくって。最初はそういう興味本位からきみの音楽に惹かれたんだ」

 煙は「この名前に意味なんてないさ」と素っ気なく恭个に返して瞬く間にショットグラスを干して見せた。こんな荒れた飲み方には付き合えそうもないから恭个は静かにハイネケンの瓶の口を舐める。近衛は手付かずのソーダの弾ける泡を見つめていた。

「私はあなたの制作した音楽をよく聴く」

「どっちの?」

「催眠のほう」

「くっく、澄ました顔して厭らしいね。そういうのあたし大好き。この更に下にさ、プライベートルームあるからさ。あとで遊ぼうよ? あたし両方いけるよ? 強気なお姉さんを強引に屈服させるのって超興奮するじゃない」

「生憎、そういうのは間に合ってるよ。それに受け身は性に合わない」

 だからといって、とくべつ伊折を組み伏して悦に入るような真似はしないが。相思相愛、乙女チックに嘯いてみればそういう関係性に憧れる。

 煙は馬鹿馬鹿しいと大声を張り上げた。

「あたしの音楽でイッちゃうような女がなに言ってるのさ? あたしのこと笑かそうとしてるの? おかしい! 笑えるー」

「べつにどうとでも詰ってくれていいよ」

「あっはー、つまんないね。張り合いがない。でもそういうのいいね。詭弁垂れて歯向かってこられるより、よっぽど。ねえ、ほんとにしない?」

「いい加減にしてくれ。そういうのじゃないの理解してるでしょ? 本当は酔ってるんじゃないか? まさか、キマってんじゃないだろうね?(冷静さを欠いた人間をあいてにはできない……)」

「べつに。普通。ここはイカレタ連中多いけど、葉っぱもドラッグも許しちゃあいない。つーか、そんなもん必要ないし。あたしの音楽はどんな薬物よりも強力なの。解るでしょ?」

 確かに。必然、恭个もよく理解している。どんな劇薬よりも確実かつ効果的に煙の作り出す音は人間を堕落させる。そういった退廃的な部分にこそのめり込んで引き返すことのできない魅惑を隠し持っている、それが『煙の上の水』の本質。煙は渡会繭子の声をほぼ掌握しているからだ。

「繭子の声のことかな?」

「ああ、そういうこと。まあ、いいや。あんたの目的は『繭子』か?」

 まるで自分には興味がなかったのか? と言わんばかりの子犬のような目をする。存外、恭个が思っているよりかは若く、幼稚な性質なのかもしれない。煙は、ただ愉しいからという理由だけで、衝動でも抵抗でもなく純粋に音楽を愛しているようだった。

 煙の屈託のない笑みは、ここ数日の奇人変人たちの中では、案外と好感の持てる部類のものだった。

「臼君聖児との面識は?」

 避けては通れない質問。臼君聖児との関係性。とはいえ、はっきりとした答えを求めているわけではない。

「直接は、会ったことがない。顔も性別も背格好もさっぱり。定期的に口座に金が振り込まれる。それを種銭にしてイベントを主催する、そういうルールで繋がってるだけさ」

 これもあっさりとした質感の返答だった。ともあれ、恭个には半ば予想されていたことだった。こうも解りやすく現象として異質な現実を顕し始めた状況で臼君聖児が姿を現すはずがない。恭个は臼君聖児という人物を幽霊のようなものと断定していた。

 きっとどこかには存在しているのだろう。しかし、それはここではない。幽霊は微かな息も漏らすことなく秘密裏に櫻見町のどこかに潜んでいる。

 臼君聖児の思想を体現するために。あるいは理念、と。この櫻見町を舞台に大規模な魔術的儀式を経た先にある臼君聖児の描いた現実を我が物にするために。

 そのためにも、臼君聖児は隠れ潜み続ける必要がある。ミステリの語源を探るよりも、深く。深く。それは幽霊だから。幽霊が姿を現すときとは、すべてが終わってしまった後のことに思えるから。

「ひとつ忠告しておくと、」恭个は細心の注意を払って、限りなく善意による忠告として。「ライブは中止にした方がいい。繭子の声はあまりに危険すぎる」彼女が、煙がこの先も音楽を愛し続けるというならば、と。きっと受け入れてはくれないと解ってはいても、そう言わざるを得なかった。

「それはあたしらに息をするな、て言いたいの?」

 然り。笑ってはいけないのだろうけど、恭个は口の端を歪めずにはいられない。嘲りとは似て非なるシニカルな形だ。煙もそれを了解している。

「ちゃんと愉しんでいってね」

 ショットグラスを打ちつける小気味のいい響きが調和する。

『煙の上の水』を衝き動かす衝動を抑えることは叶うはずもない。誰かの介入など気にしない。煙の上を舞う水しずくの舞踏をその声に乗せて――耽美に戯れる幻の姿を想像すると、意識せずとも鼓動の高鳴りは彼女の音楽を求め始めていた。

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