6-1
六、饗宴
パートナーが存在するという事実はうっかりすると普段から服用している精神安定剤の残量を忘れさせるほどには温かい。そう、と気づいたときには遅く、よく考えてみると数日間アナフラニールなどの向精神薬の服用を怠っていた。だからといって、とくべつ心を病んでいる自覚のない恭个に要、不要かの判断はできない。
よく効果を発揮している、と思い込めばそうであるだろうし、あまり効果を感じられない、と思えばそんなような気もする。どちらにしたところで、まやかしめいた失踪事件のさなかで心に異常をきたしていないのであるなら彼女に内科的治療など無意味だろうとは想像される。
「……このまま行ってしまうと、どこか取り返しのつかないことになりはしないか。っていうのは、べつに弱みを見せているわけじゃあないんだけど、そういうのって私一人で抱え込むには寂しいじゃない……」
「言っている意味がよく解からない」
透き通るような青い瞳は恭个の視線を誘う。そのガラス玉のような濁りない眼差しは澄んでいるというには、あまりに透明で、実のところ何も映し出していないようにも感じられる。
その感触はある側面では真理であっても、だからといって、必ずしも伊折の内面の真実とは限らないはずだった。
「きみが消えてなくなってしまうのは、どうにも許せそうにないってこと」
すると、それまで見たこともない鋭さを持って伊折の目の色が変わる。より青々と深みを増し、どろり、と背筋から解け落ちてしまいそうなほどの怖気を抱かせる、冷酷な双眸が恭个の身を射抜く。侮蔑も露わに睥睨する伊折の顔は、しかし、笑みを浮かべているようだった。
あまり、ぞっとしない、酷薄な部類の……。
すでに遅いものだったが、こんな顔を作らせてしまった自身に、恭个はなにも言葉が出せなかった。
「それは随分と勝手な物言いね。消えるのが怖い⁉ はっ! 笑わせるな。あなたそれをなんていうか知っている? 傲慢って言うの! 理解できるかしら? 好き勝手生きてるくせして、そんなことも理解できない? ふざけるな」
極論、恭个のもつ主観的現実とやらに照らし合わせれば、伊折の存在ひいては現実になど頓着する義理はないのである。だから、身勝手な役割を与えておきながら今さらどの面下げて「きみが消えてしまうのは耐えられそうにない」などとほざけるのか? その精神性にこそ怒りと悲しみを覚えたに相違ない。
「私の現実は私が決める。だけど、それは恭个の認める現実の中ではない。気に病む必要? いい迷惑だ。好き勝手始めたのならその代償は背負うべきなのが、現実ってものでしょう。あなたはそういうところに限って女らしくて鬱陶しいのよ」
言いたいことを言ったのか、幾分やわらいだ青い目に、身を竦ませるほどの冷たさは消えていた。
意識の片隅では常に言い聞かせているつもりでいた。だが、結果的にそれは振りでしかなく、恭个一人では気付くことすら出来ない人間の本質だった。だから、不甲斐ない。いっそのこと矜持とまで言い切ってしまっても差し支えないほど大切な生き方だったような気もするのだ。人は簡単に本質を見誤るものだ。それを幽霊のような存在ですら容易に見破れるというのに、心底、恭个は自分自身を愛せそうにはなかった。
だからだろうか。その愛の拠り所を伊折に着せて恭个は櫻見町での日々をやり過ごしていたのではないか。色々な積み重ねが、地の部分を覆い隠してしまった。そのように解釈すれば、己の不甲斐なさも……。
否。だからこういった思考の流れを伊折は女々しいと詰ったのだ。
伊折の激しさも相まって、面食らいそこなった恭个は、寧ろ、愉悦に近しい感情を喚起する。
いとも容易く気分が切り替わる隙だらけの精神をこの時ばかりは幾ばくか感謝する。意外な言葉で救われることもある。幽霊にしておくにはあまりにも惜しいと再確認した。
「私が消える、ってことは。あなたはなにかを掴んだのかしら?」
「そうなのかもしれない」
はっきりしないのね。と言われるが、ままその通りで恭个は事をはっきりさせたくなかったのかもしれない。
「私は、この町そのものを相手にしているような気分を感じるんだ」
「……面白い推理だと思うわよ。敵を想定することは重要。〝メタ〟っていうのかしら?」
「茶化さないでくれ。別に大言壮語、大見得切ってるわけじゃないよ。事実、この考え方が一番しっくりくるってだけだ」
冗談を抜きにして、辿り着いた答えとはいえない想念は、恭个が強く信じる直観と呼ぶ切り札だった。臼君聖児なんていう幽霊みたいに姿を現さない相手と戦うより、出揃っている現象と相対した方が話はシンプルに片が付くように思える、と。
「証拠をならべて、それらしい推理をそれらしく提示する。それが本当のことなんて誰にも解りはしないから。人間って安心のためならどんな話でも信じるものだと思うわよ」
それも一つの真実。幽霊の正体見たり枯れ尾花。在り得ない現象に、縋ってでも信じたい嘘を与えることもまた一つの優しさ、解答だと言える。
「それを人は詐欺師というのだと思うよ」
「あら? その自覚はなかったの?」
とぼけた顔を浮かべたって、簡単に承認できる役柄ではないだろう。とはいえ、道化を演じているうちに誰かを救っていた、なんていう結末は喜劇的で恭个好みの落としどころだった。
好き勝手生きることはそんなに悪いことではない。恭个はこれをよく解っていたはずだった。誰かと交わることの煩わしさ。この感覚は少しばかり懐かしい感情だった。長らく孤独を良しとしてきたわけだが、ここへきて思わぬ罠に嵌ったのだと悟った。
甘んじて受けるべき事柄。それが伊折に出会えた最大限の恩返しになり得ると信じてみるべきだった。その後に何が残るかは、その時まで考える必要はない。
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