5-5


「赫崎様。赫崎恭个様でよろしいでしょうか?」

 それまで彫像と化していた受付係は音も無く恭个たちの後ろに立っていた。絵に気を取られていたのもあるが、それ以上に荒れ狂う感情に翻弄されていた恭个はその接近に気が付かなかった。振り向けば眼前に能面のような無表情がある、虚を突かれて苛烈な情動も掻き消えた。

「あ、ああ。先ほど記帳したと思いますが……」

 受付係の抑揚と感情の排された姿は何だか人間を真似る人形のようでいて奇妙な感覚を呼び起こす。それはそれで、この絵画展にあってはよく馴染む振る舞い、役柄なのではないか。一つの装飾品としての役割。それと認識しないと人であることを忘れさせる、そんな不気味さもどこか人形めいている。

 ああ、と恭个は納得する。不気味の谷(人間を真似たロボットに抱く不安のこと)という言葉を直に感じたのは初めての経験だった。腑に落ちるとそこにいるのは未知の存在ではなく既知の存在。不気味な印象もやや和らぐ。

「臼君聖児から、赫崎様宛にこちらを預かっておりました」

 差し出されたのは、簡素だが気品のある封筒だった。桜をモチーフにしたエンボス加工が施されたもので、それだけで差出人が解る。

「これは?」

 表に『赫崎 恭个 様へ』とあり、裏面には『臼君 聖児』の名が入っている。この神経質そうな筆跡には見覚えがあった。

「あなたが臼君聖児さんに直接会われた?」

「いいえ。私は臼君の代理と名乗る方に頼まれて封筒を預かりました」

 もちろん、住所など記載されているわけもなく。受付係に封筒が渡ったときも、臼君本人に直接あったわけではないとすると。

「代理人と言った方は臼君聖児さんと直接かかわりがある方なのですか?」

「いいえ。私も臼君聖児という人間に興味がありましたので、訊ねてはみました。しかし、その方は代理の代理だから、とだけ言い残してすぐにいなくなってしまいました」

 どうやらこれを切っ掛けに臼君聖児に直接会うことは叶わなそうだ。意図的に姿を眩ませているのだろう。代理の代理、というのも怪しい。そこまでするからには周到な手段を以って然るべきだ。覆面作家なのだろう? 代理の代理も更なる代理からこの封筒を託されたのではないか? 極端な話、臼君聖児の名前で送られてきた封筒だからといって、臼君本人を示唆するものであるかすら疑わしい。

「まるで、不幸の手紙のようですね」

「不幸の手紙?」

 近衛が訊き返した。

「友達の友達は赤の他人。もちろん、はじまりは他愛のない悪戯だったのかもしれない。しかし、伝播する過程で実態が薄い靄の内に消えて行ってしまう。都市伝説みたいなものですよ。私が友達から聞いた話だけど、っていう枕詞があるじゃないですか。つまり、その手紙の差出人もすでに実体がないのでは、と思ってしまったわけです」

 と言い切ってから、あとの言葉が続かなくなった。全身から血の気が引いていく音を聞いた気がした。

 音楽における一つのモチーフを様々な技法によって繰り返す常套手段。

 見事に踊らされている、という感が否めない。顔面が引き攣って、歪な表情を浮かべているに違いない。それが奇妙にも笑っているように見えるのだから近衛の心情も穏やかではないだろう。

「あ、ありがとうございました」

 恭个は簡単に挨拶を済ませると、今度こそ会場を後にした。続く近衛の足取りも先ほどよりも明らかに速い。恭个と同じ感覚を共有したからか。相反する虚構と現実が逆転していく過程で自身の存在性が揺らぐ。いや、それは逆転現象などではなく、恭个にも想像できない形でうまく馴染もうとしているようではないか。あくまで、主観的経験が現実であることを否定しない恭个に掛かる影響は計り知れない。

 ぼんやり揺らめく火の輪郭。熱は不可視だがそのあわいの空間に存在している。

 深く吸い込んだ紫煙を気怠く吐き出せば、手にした紙片の輪郭をなぞって空気中に淡く消えていく。二枚のチケット。気がかりなのはその枚数。意図的なのか、偶然か。

 後日催されることになっている饗宴に、誰が随伴するのかを。臼君聖児はそこまでを見通しているか。思い描いているのか。

 灰皿に落とされるはずの灰は、恭个の腿を打って脆く崩れて消えた。


 繭子の失踪を確認してから数日が過ぎていた。調査の進捗ははかばかしくなく、依頼主である加澄子にどのように報告をしたものか恭个は考えあぐねていた。

 事象が固定化されることはなく、現実は常に終局へ向けて変遷していく。

 大きな翼を有した怪物の影を見た気がして恭个は顔を上げる。そこは、渡会邸の小さな祠があった正門からは死角に位置する場所だった。影の正体は当然存在せず、それ以前に狩野十文(かりの じゅうもん)が起こした強行の是非を問うべき瞬間にあった恭个は憔悴しきった近衛を慮ることもそこそこに守衛小屋の玄関口に引き返した。

 渡会邸敷地内にある守衛小屋は一つの立派な家屋といって差し支えない。そのリビングに項垂れる老人、狩野十文は初見の印象とではまるで別人のように老け込んでいた。正確には〝老い〟たというべきではない。彼からは魂そのものが抜け落ちていた。朽ち果てた枯れ木。生命の流れを一切感じさせない狩野老父を見た恭个は、ああ、彼は死んでいるな、と決して言葉にすることのできない感想を抱いた。

 切迫した声が恭个をこの場に呼んだ。毅然とした態度の失せた近衛のこい願う言葉にあらがうことは難しかった。伊折に浮気性と罵られようと、それは恭个の信条を裏切るには至らなかった。

 粉々に粉砕された祠を形作っていた木片。天女を模した石像は頭部がつぶれて台座の後ろに転がっている。踏みにじられた百合の花がそのとき振るわれた暴力を幻視させる。いつまでも、無垢であることを許さなかった強い怒りを恭个に認めさせた。

 近衛はその惨状を一人で片付けたいといった。それが少しでも気休めになるのなら放っておいた方がいい。

 狩野カヨが首を吊った。邸宅内で起こった事とはいえ、何の前触れもなく前日まで当たり前に言葉を交わしていた人間が突然命を断てば、誰であろうと取り乱しても仕方ない。恭个が渡会邸に到着すると近衛も幾分和らいだ表情を見せたようだったが、次の瞬間、激しい破砕音を耳にすると一時とて油断のならない状況の渦中であることを知ることとなった。

 土木工事に用いられる石頭ハンマーを振るっている狩野十文に狂気じみた影は見られず、淡々と決められた日課をこなす庭師のような出で立ちだった。まあ、庭師とは喩えでしかなく恭个がそのような職種を理解しているかは定かではない。

 初め、この項垂れる老人にかけるべき言葉が見つからなかった。数瞬後、余計な駆け引きを考えることを放棄した。おそらく、いまの十文になら何を訊いても答えてくれるような気がした。

「この度はお気の毒でした」

「心にもないことを口にするもんじゃあない」

 ……確かかな。そう、恭个は狩野カヨが自殺したからといって憐れな気持ちで十文を見ていなかった。

「と、仰られても形式というものはあるじゃないですか」

 悪びれる様子もなく、思ったことを口にする恭个に動揺の色はない。こういったことには慣れている。決して図太い神経をしているわけではない。むしろ、それに関しては繊細な方だろう。こういう場合は、役割に徹することで自意識に迷彩を施す。まったく痛痒を感じない、とまでは言わないにしてもそれである程度の自衛は可能だった。

「まあ、それもそうだが……」

 思いもしなかったのだろう、面食らった様子の十文の纏う空気に変化が見えた。

「大して面識もない者にどうしてそんな言葉がかけられる? と、お思いになられるのも仕方がない。それでもやはり、人としてあるべき形を損なうべきではないかと、私には思えるのですが」

 十文が頭を上げ、そこで目が合う。空蝉モカの時のような衰弱はない。むしろ、真っ直ぐ。老齢の中にあって、実に綺麗な瞳をしている。恭个にはそれが意外なほど好ましいことのように思えた。

「変なねえちゃんだよ。ああ? お前さん探偵だってな? よく解んねえけど、訊きたいことがあるなら答えてやるさ。俺は別に狂って祠を壊したわけじゃあねえ。あれは仕舞だ。もう、終わりにするべきなんだ」

「と、仰いますと?」

「まあ、な……。お前さん煙草持ってるだろ?」

 匂いでわかる、と差し出された十文の手は瞳の印象に似た綺麗な肌をしている、と恭个は思い、そこまで匂っているだろうか、と首を傾げた。この場でジャケットの襟に鼻を突っ込んでは格好がつかない。恭个は懐から一本引き抜いて十文に差し出す。咥えた煙草の先に火を点ける。ぱちんっ、とハンドスナップ。一口目を深く吸い込む十文。対して恭个は煙草を吸わない。ここには灰皿がなかった。

「くっく、手品か? はあ、ふう、久しぶりだ。ああ、懐かしい」

 どれほどぶりか、と十文は顔を歪める。苦い煙にしかめ面を作ったかと見たが、そうではなかった。それは目を細めて笑っているのだ。カヨが生きている間は吸わなんだ。十文は吐き捨てるようにそう言うと、机の上で煙草を握りつぶした。

「カヨが自殺するとは思わなかった」

 十文は言う、常から歌が聴こえるとうるさかった。それが、繭子様が消えてからひどくなった。同じ幻聴か。歌なんて聴こえんだろうに……。

「あいつは名もない天女に対する信仰が篤くってな……なんだって名前もないものを信仰できる」

 恭个はある勘違いをしている、と考えていた。その勘違いを正す為に、十文の話が必要だった。仮説憶測は立っている。そこに、天女降臨の伝承に隠された寓意を決定づける裏付けが欲しかった。天女の物語は類推である程度その全貌が視えてくる。〝ある程度〟、と言うのは類推はつまるところ具体的ではないからに他ならない。

 所詮は詮無い己の思考の補強。あるいは、知的好奇心。その裏に隠した限りなく真実に近い現象を観測すること。そこまでたどり着いて初めて、渡会家の憑き物は落ちるはずだ、とも考えられる。

「そもそも、うちは防人だ。狩野家は遥か昔から渡会家の門番を務めてきた」

「渡会家にはその性質上、逆恨みなどが多かったから?」

「あんた少しは理解してるみたいだ。そう、渡会家のやり方は敵を多く作る。作っていたというべきか……結果は御覧の通り。この土地は渡会の庭になったさ」

 恭个の仮説が一つ証明される。座敷牢、あの繭子の閉じ込められていた離れの地下に存在する通称、奥座敷の正体。男を篭絡する神憑りを顕現する渡会の女たちによって、国の権力、財力をこの土地から得た。それは正常な理性の働く者から見れば、略奪行為だと反発する輩も出たことだろう。それを抑えるための力。この暴力の行使を許されたのが渡会家の門番足る狩野家という図式が視えてくる。

 ただし、それは表面的な形でしかない。伝承内ですり替えて表された醜さ、より本質的な姿……。

「まるであの祠は天女を崇め奉っているようじゃあないか」

「事実はそうではなく、厄災を恐れた渡会家が天女の魂を鎮める為に建てた祠ですか」

 うむ、とばかりに十文は首肯する。これは天女伝承から恭个が視た寓意の検証だった。あるいは、『セイレーン』などと恭个が夢で観念した怪物の化けの皮を剥ぐための通過儀礼だろうか。

 そもそも神憑りの解釈は逆転していたのだ。天女の神気が憑依するのではない。渡会のそれは神憑りなどではなく憑き物であり、あるいは、より呪いに近い性質の類であると考えるべきだった。神霊に対する聖性をはき違えていた。そうでもないとどうにも納得がいかない。

 天女の羽衣は何か権力のメタファー。天女は高貴なる存在。青年は雀にたぶらかされた。雀が男を誘惑した。羽なし雀とは、即ち渡会の血を引く祖先たちを言ったのだろう。名もない天女。ああ、なぜ彼女だったのか。なぜ、彼女だけが地獄に堕ちなくてはならなかったのか。名前もないことには計り知ることは叶わない。究極的には櫻見町の地底に囚われているものの正体を知るすべはない。

「雀さ。渡会は羽なし雀。もとより青年と喩えられている存在は傀儡。天女が青年を唆したか? 誘惑したか? 何度か読めば理解できる。青年を惑わせたのは雀。この羽なし雀さ」

 不完全な解釈ではある。流石にこれと決め打ちできる裏付けはない。そも、天女という聖性を帯びた高貴なる存在なんて在りはしなかった可能性すらある。存在のないものを崇拝する。信仰する、その想いは天女という仮初の器から零れて地獄と呼ばれる原野に広がっていったのではないか。その為の桜。地獄と櫻見町を結びつける木の根。溢れる信仰は何かを満たすことなく満開の花びらとなって空(から)と散っていく。

 その幻想性は、やはり、毒だった。

「何者が利益を得たか? という視点で天女伝承を俯瞰すればこの雀以上に利益を得た存在はなかった。羽衣とは何か大きな力。この土地に根差す根源的なにか、と考えられなくもない。御覧の通り、天女は地獄に堕ち――これは悲惨な儀式があったことを連想させる――青年は地獄から戻ると桜の木に化身している。これは青年がどこまでも羽なし雀の傀儡に過ぎなかったように視える。桜の木に変えられたなんてことは人身御供が、かつてこの土地でまかり通っていたことを暗に伝えているようだ」

 恭个の解釈は穿ち過ぎているだろうか。十文がそれに答えることはなかった。天女の伝承は、ある側面では真実を語っているものの神聖を顕す天女を扱っている点で虚構も十分に混ぜ込まれている可能性は否定できない。

 おそらく、と恭个の視線は四方を巡る。思考する脳をスパークする輝きはエーテル的な性質の聖性を帯びていたかもしれない。

 主観的観測。それ以上の現実など……。

 しばらくすると、十文が媚びるように指先で催促する。恭个は懐から煙草を一本引き抜くと彼に差し出し、ぱちんっ、と火を灯す。

 現実と幻想が習合する。

 この町には人知の計り知れない力が宿っていることに変わりはなかった。

 繭子と瓜二つの。伊折に近しい。卑しい相貌を掲げた妖鳥の羽ばたきだけが、この恭个と十文の間にわだかまる静寂に木霊する。桜の木に化身した村人たちの叫び声とも鳴き声とも捉えきれない響きを恭个は幻聴した。

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