5-4


「それでは、十年前の一家惨殺事件で娘の遺体はまだ見つかってないということですか?」

 恭个の愕然とした声が車中を震わせた。

「え、ええ。そのはずだと記憶していますが……」

 運転中にも構わず掴み掛らん勢いの恭个に対して、やや面食らった調子の近衛。常に冷静で余裕ある振る舞いの彼女とて、走行中のハンドル操作を誤りかねない状況に表情を青くさせる。

 今回は客人という扱いではなく恭个は助手席に座らされていた。より近い距離で見る近衛のハンドル捌きには惚れ惚れするものがあった。恭个の視線は彼女の淀みない手の動きから離すことができなかった。

「……となると、伊折そのものの……」

「〝いおり〟?」

「あ、いえ……少し気になることがありまして」

 恭个の独り言を近衛がはっきりと聞き取ることはなかった。この電流のように駆け巡った思考は、恭个に新たな仮説を与えた。しかし、今更それがどう関係してくるというのか? 今ある現実で十分ではないか。あえて、過去をほじくり返して、痛みに身悶えるだなんて、実に馬鹿げているのでは……。

 既知の認識が大きく書き換わっていくかもしれない事実など、この期に及んで恭个が欲することではない。この関係性が彼女には心地よく、また、掛け替えのない日常を繰り返していく為には必要だった。

 だから、深く追究することを拒んだ。今はただ前だけを向いていればいい。無理にでも恭个は眼前を眩ます幻想にのみ集中する。その霞靄の中に身が溶けて消えていこうとも。

 ここで彼女が如何こうした処で、導き出される解答など見え透いたものに変わりないのだから。つまり、『安曇野伊折(あずみの いおり)』とて不変で在り続けるとは限らない、という刹那的な移ろいを〝是〟とする世の真理そのものから逃避することは、至極困難である、と。

 車はほどなくして簡素なコインパーキングに停車した。

 櫻見町の東端。いや、こう喩えた方が理解も早いか――脳みそでいう処の後頭葉の部位。そこに位置するテナントビルが目的の場所だった。

「臼君聖児は、この櫻見町の風景を描く画家でした。名と作品以外の素性は一切が不明。所謂、覆面作家というのですか」

「風景画と言いますけど、櫻見町にひどく拘りがあるんですよね? この町の桜に魅せられた人間の一人といいますが、正体を明かさないところに厭らしさを感じる」

「拘りといいますか、この櫻見町のみを写し取っているようです。写実的――臼君聖児の目を通した桜の風景を絵筆のみで表現する。その辺の写真家も舌を巻くような情景を売りにしているらしい……噂を耳にする限り、そう認知されているようです」

「写実的にね……」

 恭个が頼んでいた〝seji usugimi〟の署名の主。臼君聖児(うすぎみ せいじ)の所在の調査を伝えることが、『赫崎相談事務所』に足を運んだ近衛の用向きだった。結論から言うと臼君聖児本人に対面することは叶わなかったが、こうして今、定期的に開かれるという絵画展に赴くこととなった。それ故の近衛の私服姿だったのかと、恭个は合点したのだったが。

 それにしても、恭个に無用な劣情を抱かせる近衛の身体のラインには、終始、伊折の厳しい視線がつき纏った。近衛は首筋に違和感を感じる、と事務所の中から早く外に出ていきたそうであった。まあ、どのみち絵画展の閉館時刻が迫っていたから、手早く身支度を整えて出かけることにはなった。

「指摘しにくいのですが……」

 恭个は口を濁しながら、近衛の姿を改めて上から下まで眺めた。

「こういう時でもなければ、羽を伸ばすことも難しいですからね」

 それはいったいどういう意味だ? しばらく恭个は首を傾げていた。

「それは変じゃないですか。というより……」

「不謹慎ですか」

 浮かれ上がった少女のような声音とは裏腹に、伏し目がちにこちらを見上げる。怯え切った子犬の様でいて、少し痛々しくもある。

「不謹慎とは申しませんが、愉しむときとも違う。もちろん、適度な気分転換は必要だとは思います」

「ええ、私も承知はしております。でも、本当に今までこのように自由になれる瞬間というものが、本当になくって……」

 どう受け止めてやればいいのだろう。恭个には近衛の抱える感情に干渉する資格がない。宥めることも。共感することも。抱きとめてやることも。

「大丈夫です。繭子さんは必ず見つけ出して見せます」

 確証のないことを言っているが、特に罪悪感を覚えることはなかった。こんな心にもない言葉はいつも、いつだって、口に出してきた。様々な依頼人を通じて培ってきた処世術。確かに、そこに罪悪感はない。とはいえ、薄皮一枚内側に潜んでいる本心とでも呼ぶ領域を自覚すると反吐が出そうである。相反する自身の振る舞いには慣れたものだったが、嫌な気持ちは湧いてくる。それすらも慣れてしまった自分には、やはり近衛の抱える感情を理解することはできない。

「その言葉だけで、十分です。それに、奥様だってすでに……」

 これ以上は耳を覆いたくなった。近衛が全てを吐き出してしまう前に、恭个は目的の会場へ急ぐことにした。請うように掲げられたその手を見なかったことにして。 


 会場はビルの二階。それと知っていなければ、うっかり見落としてしまいそうな薄暗い階段を上がった。入り口は踊り場の手前に、酷く窮屈な位置に面していた。アンティーク調の木製扉は趣ある焦げ茶に染まり、ハンドルに至っては真鍮の輪であった。手垢にくすんだリングを引き中へと入る。

 外から見た印象とは違い、会場内は明るい。想像するような薄明かりの中、一点一点の絵画が醸し出す陰惨な妖気に包まれた空間など何処にも存在しなかった。どうにも、あのセイレーンの絵に対する印象が強かった。むしろ、目を覆いたくなるほどの白さに、曇り切った頭の靄が払われたように感じた。

 臼君聖児の心にどのような作用が起きたのか?

 この櫻見町の風景を描き出した時期――近衛はここ数年のうちに名が売れ始めた作家だと言っていた――と、身籠る胎を慈しむセイレーンのあの妖艶な姿態を描き出させた時期とで、作家の心理に大きな隔たりを感じるのだ。単なる作家性の方向転換か。あるいは、なにか大きく心に作用する出来事がそうさせたのか。

 自身の姿形までを激変させるインスピレーションに打たれた結果……、とまで想像して所詮はくだらない妄想、と恭个はせせら笑った。

 受付で記帳を済ませる。姿を見せない臼君聖児にはこれで誰が訪れたかが解るということか。受付係の女は無機質な彫像のような顔。顔の輪郭、各パーツが作り出す陰影もはっきりとしているというのに、あらゆる感情を排した白々しさがまるで人形の様だった。

 受付に飾り付けられた百合と柊(ひいらぎ)が目を引いた。白い花弁と真っ赤な実は素朴で、孤独だった。場違いな存在感は結局のところ、館内を埋め尽くす桜の木々に埋もれて消える。花の風景を描く絵画展のなかでは異質さも意味をなさず、その役割を奪われるだけの惨めさが物悲しい。

 恭个は絢爛な世界に一歩踏み出すと、言葉と環境のあらゆる音を奪われた。無音の中に咲き乱れる桜の数々に圧倒される。通路に一陣の風がひらめいて胸に心地のいい安寧をもたらす。近衛も言葉を失ってこの桜の森を歩む。一時、幼い少女に戻り懐かしさと共に在りし日の憧憬を想起する。木目の床を踏む足も少しばかり軽やかだ。と、

「これは……」

 恭个は一枚の絵に目を奪われた。見覚えのある光景だったからだ。辻道に庇を作る河津桜。あそこに違いなかった。しかし、この角度は……。


「ええ、そこが地獄です。天使の魂は今もそこから離れられずに彷徨っている」


 突如、耳元で生々しい呼気と共に声が蘇ってきた。さっ、と背後を伺う。無表情に正面を向いたままの受付係が目に入った。誰かが背後ににじり寄っているわけではない。

 嫌な気分というより、妙な既視感に目覚めたようだった。聞き間違いでなければ、あのとき女は確かに『天使』と言ったはずだ。天女ではなく、はっきりと……。

 この辻道の絵のアングルはその瞬間を追体験させるものだ。それは、あの時恭个が見上げた河津桜と寸分違わぬ風景を描き出しているから。薄ら寒いものを感じた。人の目をレンズにされたような、そんな居心地の悪さが後を引いた。

 いくつか作品を見、奥へと進んでいく。近衛と恭个の間に無粋な会話はなかった。そして、それを画廊の最奥で見つける。最も大きな号数の一枚。恭个が両の腕を広げても抱えるには大き過ぎるサイズ。この展示会の目玉とされる作品であることは間違いない。

 今までの小品には目を奪われるような心持だった。わざわざ、窓枠に見立てた額縁の中に納められた風景には、処を忘れさせる魔力が秘められているように思えた。単純にその美しさに魅了されていただけではない。

 燃え盛る炎のような桜の木々たちは。この整然と漂白された館内は。すべて計算されているもの。おそらく、いや十中八九、この場は臼君聖児の心の内側を表現した世界なのだと、無意識に恭个の脳裏に焼き付けていた。

 しかし、これは……、

 恭个の顔は険しさを増し、その相貌には赤く燃え滾るような危うい色が宿っていた。

 作品/『鳥籠』/臼君聖児

 極めてシンプルな金の額縁(レリーフなどが施されていない)。大きさは120号ほど(というのも、大雑把にキャンバスを切ったように思える)。写実主義。ライトの光源を他の作品に比べて絞ることで陰を生み出している。暗く、重い印象を抱く色使い。

 画面向かって左端から右端にかけて奥行きを持たせている。画面から婀娜めく花びらが零れ落ちそうな桜の木々。ぐーっ、と奥の建物に目が吸い寄せられていく。建物は、西洋的でファサードがガラス張りになっていることが特徴的。二階の張り出し窓。華美な彫刻は生命力に溢れた植物をモチーフ。流動的、屋敷自体を大きく見せている。その西洋屋敷から桜林を見つめる少女。黒い少女。顔かたちがはっきりと認められる。極々身近な存在だ。そこには恭个のよく知る憂いを帯びた少女が佇んでいた。

 言い知れぬ怒りを覚えた。写実的な作品、現実を忠実に切り取った画風の中にあってこの『鳥籠』という作品だけは異質だった。描かれている風景は写真と見紛うほど精緻な現実を描いている。しかし、そこにある屋敷――現、赫崎相談事務所――のガラス張りのファサードからこちらを見ている少女。それは紛れもなく伊折だった。彼女は幽霊だ、と恭个は認識している。これほどまで透徹して櫻見町の風景を写実的に描いておきながら、一つだけ、現実と虚構が同居している。

 簡単なプロファイルで導かれる作家性はこの人物にとって絵を描くということは現実を抜き取ることと同義であると、恭个に推測させていた。ならば、作者たる臼君聖児の目には現実と虚構が入り混じる瞬間が、このときにあったという証拠なのではないか。穿ち過ぎた見解か? ふつふつと湧き上がる熱い感情に突き動かされる寸前で、恭个はかろうじて自我を律していた。あるいは、本能的な忌避感を表に顕さんとするために近衛の眼前で無様な本性を曝け出さない、というちっぽけな矜持がそうさせたか。

 臼君聖児は幽霊だ。

 これを突き詰めていったところでそこには誰もいない。ないものは見つけようがない。臼君聖児は描き出そうとしている。現実と虚構の境界線の存在しない、ありのままのリアルを。屋敷で殺された少女。失踪した繭子。そして、安曇野伊折。天女か天使か。

 近衛は一家惨殺について少女は行方不明のままだと言った。

 これまでのスタンスを恭个は変えることはない。あくまで彼女は彼女の信じるものだけを見つめる。その先にあるはずの、微かだが価値ある真実と呼べる光を信じて。

 奥歯を砕きかねない力で、苦笑する。馬鹿馬鹿しいロマンチシズムに陥るのは悪い癖だ。また相反する感情が込み上げてくる、この熱を冷まさねばならない。恭个は直観していた。臼君聖児という存在が恭个と同じ気質の持ち主である可能性を。

 臼君聖児の心の内を占める赤々と燃え盛る炎。

 現実を受け入れることは美徳だと思う。しかし、だからといって、恭个は同類などという気色の悪い括りに収まりたくはなかった。同族嫌悪。唾棄すべき悪。臼君聖児に抱いた感情を端的に述べれば嫌悪。自分自身を映し出す鏡の前に晒された裸体の実像。

 気持ちが悪かった。許し難かった。彼女を捉えて離したくはないという醜い独占欲を共有しているのではないかと……。

 己の醜い願望を見せつけられることには耐えられそうもない。恭个の面は蒼白に、極端に浅い呼吸を繰り返していた。

 気付けば、少女のようなあどけない憧憬の念は消え失せていた。それに代わって、沸々と静かに滾る怒りが身内を巡る血に混ざり恭个を熱していくようだった。

 目的は果たした。早くこの場を離れよう。依然、目前の『鳥籠』に目を奪われている近衛の腕を取って、恭个は駆けだそうとした。

 その時だった。背後から声を掛けられたのは。

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