5-3

 伊折の異変は消えていた。それとも、最初から彼女の性質は変化など起こしていなかったのではないか。

 あのとき、少しでも彼女の存在に畏怖したことが悔やまれた。

 胸の内を悟られまいと、なるべく平静を装ってはみた。

「べつに、あなたが気に病むことではないわ。もともと、私がどんな存在かなんてわかり切ったことじゃない」

 先に、口を開いたのは伊折だった。彼女は軽口めいた皮肉を溢すけど、その目にはもの悲しい冷たい色が奥深くに隠されていた。

「そういうわけじゃない」

 もっと別のものを想像したなどと誰が口にするか。思わず口から吐き出しそうな感情を噛み殺した。強く噛みしめた唇の端から血が滲む。この程度は、痛みの内に入らない。

 その後、意気消沈する間もなく警察の事情聴取に付き合わされた。

 大した証言もできない事といい、再び事件(特殊な首吊り自殺)に遭遇した身としては警察署内の印象も変わる。しかし、恭个が危惧していたような面倒事(疑われること、執拗な追及、長すぎる拘束時間)に見舞われることもなかった。

 刑事という役柄のフィクションの類いによる刷り込みがあるのだろう。想像するよりも一つ一つの事務的なやり取りには無駄な遊びが多く、つまるところ、この世がいかにいい加減なものであるか身に染みるばかりだった。

 それは硬質で、流動的な掛け合いもなく、味気ない。

 恭个の状況説明など端から必要とされていないのでは? とすら考えられてしまうことに開き直って、喫煙休憩を申し出てあっさり許可までされた。

 そんな合間を過ごす中で、逆に面白い話を盗み聞くこともできた。別室に向かって聞き耳を立てていると、奇妙な単語が飛び込んできたのだ。

『幻聴、歌、怪物、異形、翼、女、耳、脳みそ、コルク栓抜き、マイナスドライバー、アイスピック、満開の桜の幻視……etc.』

 拾い集めたこれら単語から推測するに、どうやら似たような自傷事件が後を絶たないのだという。人身を責め苛む歌声に神経衰弱し切った人間に残された手段。

 こんな話で気が楽になったわけではないが、空蝉モカの自傷行為を恭个ひとりが重荷に感じる必要はないのだと、言われたようで心底救われた。

「あれは全く野暮ったい。警察による事情聴取? 私も何度か経験はあるけど、まるで張り合いがない。無駄な幻想を抱きすぎていたのかな……この町が少しばかり異質であるのかもしれないけど」

 盛大な溜息と共に愚痴愚痴溢して対話の糸口を探る。どのようなやり取りが警察署内であったかなど一々思い出したくもなかった、と。恭个は切っ掛けを探していた。まだ、伊折に対して後ろめたい想いが渦巻いていたから。

「この町がおかしいってのは〝少し〟で済むものでもないと思うけど。桜だらけで椚(くぬぎ)も躑躅(つつじ)も欅(けやき)も銀杏(いちょう)も楓(かえで)だってろくに植わっていない。都市景観の設計として理解できないって、あなた言ってたじゃない? 私もその意見には賛成よ」

「それは、あくまで景色の話だろ? いやまあ、それだって十分に異質とはいえるけど。桜に対する拘り方は異常な段階……。(時たま、的外れなことを言うのは伊折なりのユーモアなの?)。そうではなくて、私が言いたいのは実際的な側面で……まあ、なおざりな事情聴取の原因とでも言えばいいのか。この辺りは特に多いんだと。事件、事件、事件、一度、人身に関わる事件が起こると立て続けに何度もなんども。うんざりなんじゃない? 呪われた土地っていうの、一種のアンタッチャブルの扱い。あまり深くは関わりたくないっていう空気がぷんぷんする」

「そんな曖昧な理由で警察組織が二の足を踏むものかしら。理解できないわね。呪われた土地、確かに私みたいな存在が一つの屋敷にのさばってるわけだけど……」

 恭个の思い過ごし。考え過ぎることは、人間にとって負の側面を強める傾向にある。だから、始まってしまえば案外すんなりと伊折らしい性質の馴染みやすさに安堵する。

 地獄は脳にある、とか。誰の言葉だか知らないけど、それは正しい観念なのかもしれない。伊折と繭子を重ねて見ていたなんて……。そう考えさせたのは恭个の脳。彼女のイメージ、想像に過ぎない。勝手な人物像を捏造するから、現実の彼女は本来親しみやすい優しさを持っている、と相対的なイメージの乖離に心底安堵している自分がいるかもしれないと考えると、わが心の働きに怒りのようなものを喚起する。

 ときに、恭个はそんな自分自身が卑しい人間だと思い、嫌いになる。

「きみは一々、自分を蔑むような発言が多いよ。私はそういうのは好きじゃない。自分で自分を傷付ける行動は、私には悲しく感じるよ」

「承認欲求っていうのかしら。私にだって気持ちを満たしたいときはあるの。そんなとき自分の存在が解らなくなる。だって私は一度死んでいる。だけど今は恭个と二人、それなりに愉しくやらせてもらってる。自己分析すると頭がどうにかなってしまいそうよ。訳が分からないじゃない。私ってなに? この状況ってなに? 本当に恐ろしいことってそういう処にあるんじゃないのかしら、て……」

 それが自分を貶める理由になるのだろうか。

 なるのだろう。下手な慰めなんかより、敢えて自分を蔑むことで帳尻を合わせる。誰かに責められるよりよっぽど精神衛生上の強度は保てるはずだ。卑怯だな、と思う。恭个にはない感性に羨ましくもある。

「そんなことを理由に、酒ばかり飲まれても困ってしまうがね……」

 伊折は伊折。幽霊だろうと化け物だろうと、そんなことは関係ない。すべては、私が決めればいい。恭个の中で何かが吹っ切れたような気がした。


 あまり来客の多い方ではない赫崎相談事務所にとって、日に数名の来客は久しくなかったものだから、恭个は妙に気疲れを感じていた。

 空蝉モカの神経衰弱及びそれによって引き起こされた自傷行為、一連の経緯を渡会邸に報告すると、息を呑んで黙り込む近衛だった。その彼女は今現在、相談所のオフィス席で持参した紅茶の香りに心身を浸している。カップに仄揺れる香り豊かな赤色差す紅茶に、ほっ、と一息ついていた。現れた時の沈痛な面持ちは多少和らいだように見える。

 差し迫った状況下ゆえ、早急にお伝えすることがある、と近衛は凛と澄ました装いで事務所の扉を潜った。

 普段働きの給仕服とは一種趣が違った。おそらくは私服姿なのだろう。ハイネックの黒ニットに膝下丈のタイトスカートと、僅かに覗く脛はストッキングに覆われつま先までを焦げ茶のパンプスという装い。シックではあるがよく似合っている。全体的に身体のラインが見えやすい、ともすれば、恭个が放ってはおけない類の装いだった。観察しているようで、実はうっかり見惚れていた恭个を余所に、伊折はだんまりを決め込んでいた。いつもより、険のこもった色味の兆すその目を恭个が見ていたら、一体どのような反応を取っただろうか……。

「この清々しい味、香り。飲むと落ち着きます。普段は珈琲を好みますが、これは時々飲みたくなるなあ」

 恭个は気に入った茶葉の香りに胸が満たされて、緊張に固まっていた筋肉の一筋一筋が解けていくような感触を愉しんだ。思いのほか、疲れがたまっていたのだと、自覚された。

 近衛は表情こそ硬いものだったが、恭个が考えていたよりは余裕があるように見える。詳しい用向きはさておき、手土産にと持参した茶葉は以前邸宅内で振舞われたものと同じ種類だという。

 どこで覚えたのか、紅茶の香りを最も引き立たせる淹れ方を伊折は心得ていた。

「それにしても赫崎様はよくこのような環境で平然としていられますね」

「と、いいますと?」

「やはりこう言ってはなんですが、かつて殺人事件の現場となった住まいに身を置くというのは、背筋の凍るようなものだと思いまして……」

 ねめつける様な伊折の視線を直感で感じ取ったのか? 恭个には理解できなかったが、恐らくそういうことではないだろう。

「住めば都。いえ、つまらない喩えですが、慣れてしまえば気にもなりませんよ」

「そういうものですか……」

 簡単には納得しかねる事なのだろうか。伊折の存在がそうさせる、というには近衛の視線は窓の外を向く。丁度、四人の首吊り体を発見した辺りを頻りに気にしているようだった。

「警察にも言われたんですけどね。なんでもここら一帯は〝呪われた土地〟なのだとか……」

 近衛の仕草につられて要らぬことを口にしてしまったかと、語尾は曖昧に消える。デリカシーの無さを指摘されれば限りのない恭个といえど、失言によって引き起こされる妙な雰囲気には敏感だった。

「怯える人間に追い打ちとか。恭个は鬼畜ね」

 伊折の皮肉には一々反応しない。恭个はかぶりを振って、気遣う言葉を探す。とどのつまり、そういう思考回路をも含めて〝優雅〟ではない、と伊折は詰るわけだが。

「それはまた、警察組織ともあろうものが愚鈍な喩え方をしましたね」

 存外、近衛の嘲るような声音に驚いた。場の雰囲気が異質だからといって、それに屈するほど心は柔ではないのだろう。突然飛び出した口の悪さに、どきり、とした。口の悪い女は好きだった。美女に罵られることに悦びを得られる性質の恭个にはたまらない。

「相変わらず、気持ちの悪い趣味ね」

 伊折のそれも、ある種の快楽だ。恭个の含み笑いが意味深長に彼女の厭らしい部分を曝け出していた。

 さておき、恭个はほっと胸を撫で下ろす傍ら、含みのある物言いに惹かれて先を促した。

 尋常ではない様相を呈してきた繭子の失踪事件を概観するヒントとなるか、直観を信じた。

 呪われた土地、とは大げさではある。そういう謂れと関係があるかは解らない、と前置きして近衛は話した。

「桜の木に化身した青年。その樹木がこの辺りを中心にする桜林の中のどこかに紛れていると聞いたことはあります」

 また、それはそれで天女に縁があるというか。憑き纏われているというか。しかし違うな、と恭个は考えを改める。それはつまり、町そのものから遠ざからない事にはどう足掻いても関係してしまうもの(因子)なのだと。あの空蝉モカのようにいつまでも囚われて、精神を侵されるように。

 自分たちは目には見えない大きな力に囚われ、繰り返されるモチーフをただなぞることしかかなわない、と。

「また剣呑な要素が加わった……」

 ため息交じりに恭个はカップの中身を飲み干した。言い切った近衛が足を組み替える。そのスリットの隙間から覗く足はマネキン人形のような精巧さを有していた。

 少し、間があった。カップの底を見つめる恭个は伊折に追加をと催促する。深く追及はしない。近衛の戯言と聞き流すことにした。それはそうと、

「そろそろ用向きの方を伺ってもよろしいですか? 近衛静さん」

 足踏みしていては事件の全容が視えては来ない。浄徳和尚の忠告も無視して恭个は更なる深みに嵌っていこうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る