5-2

 赫崎相談事務所とは謳っているが、依頼人の話を聞くのにガラス張りになっているオフィスでは何かと都合が悪い。開放的な空間を好んだ恭个の趣味とはいえ、そのままではあまりに見晴らしが良過ぎた。相談内容によっては至極プライベートな部分に触れることもあるはずだ。

 恭个は玄関口で佇立する空蝉モカを談話用に区切ったパーティションの内側へ案内する。この場所なら例え何が起きようとも外からは死角になる。十全な設備とは言えないが、依頼者側の心理を慮ればこそ必要な措置だった。徹底的に様式に拘るならリフォームすればよいものの、生憎それほどの余裕は持ち合わせていない。酒と煙草と食事はまた別口である。

 白いテーブルを挟んで対面に座した恭个は早くも、その異質さに焦りを覚えた。

「あの、わたし……その、わたし……どうしたら、あの、あの……」

 終始要領の得ない空蝉モカのまごついた姿があまりにも痛々しい。本来なら愛嬌と愛らしさを与えるだろう大きな両目も、この時ばかりは仇となっていた。辺りに向けて、転々と動きまわる眼は飛び出し、まるで海から引き揚げた魚類さながらぎょろつくから気味が悪い。それを縁取る黒々とした隈といい、こけ果てた両頬といい、つい先日渡会の邸宅を辞したばかりというが、一体どれほどの経験をすればこうも成り果てるのか……。

 衰弱し切ったうわ言を聞き続けるのには耐えられない。面食らって声も出せずに席に着かせたまではよかったが、さて、どのようにして彼女の言葉をまとめればよいだろうか。

「まずは落ち着いて。私は……、(名刺を差し出しながら〝赫崎〟と名乗る)、ゆっくりでいいですから。お名前を伺ってもよろしいですか?」

 差し出した名刺には目もくれず、空蝉モカは前後に身体を揺らしながら、それでも、訥々と自己紹介していく。

「赫崎恭个さんですよね……。何か、普通でない話でもいいとか、聞いています。あ、あ、わたしは、空蝉モカ、と言いまして……」

 目は充血し切っている。ほとんど寝ていないのか。まったく眠れていないのか。モカの話を聞くことだけに徹して、こちらからは渡会邸でのことは何も訊かない方がよさそうだった。

「ええ、そうですね。私の素性はよくご理解いただけている、という認識でよろしいでしょうか。兎に角、一度落ち着いて。こちらでも飲んで、人心地ついてからでも構わないでしょう」

「え? これ、あれ? 赫崎さんが淹れられた?」

「はい。赫崎で構いません。単なる珈琲ですよ。それとも紅茶の方が好みでしたか」

 勿論、恭个が用意した珈琲ではない。伊折が密かに(特別隠れるようなことはなかった)用意したブラックコーヒーだ。どういうわけだか、伊折の行動は彼女の姿が見えない人間には意識の間隙を突いたかのように、結果だけがそこに残る。ほとんどの相談者に対して行われる通過儀礼というか、安曇野伊折を認識できる人間がいるのかを試す一種のパフォーマンス。恭个の戯れ。伊折は悪趣味だと罵る。

 モカには伊折が解らなかったようだ。妙な手品を見せられたような呆けた顔をしている。まだ、外部の刺激には反応することを確認して、恭个は少しだけ安堵する。

 ミルクと砂糖はこちらです。とは、勧めたがモカはもの言わず珈琲の湯気に鼻をひくつかせていた。

「わたし、あるお屋敷で今まで働いていたんです……」

 ひと口ふた口、珈琲を啜ったモカは現在に至るまでの経緯を、纏まりなく話し始めた。

 凡そ、察しはついていたことだが、モカは繭子の誘拐を知らずに今に至っているようだった。

「そのお屋敷っていうのが、あんまり気持ちのいいところではなくって……わたし数か月もしないうちに身体悪くしてしまったみたいで……」

「それでお辞めになった」

「はい、お屋敷の中には当主さまの娘さんがいる、と、聞いてはいました。わたしは最後まで目にすることも、会ったことはなかったんです。すこし、疑っていました……」

「居たのですか? その娘さんは」

 渡会邸のことを隠しているならそれで構わない。事情には通じている。とはいえ、繭子の実在に関わるようなことでは無視できない。あまりに剣呑だ。もしかして、という仮定が的中するのはこの場合都合が悪い。

 恭个は繭子という少女の存在を疑いもしないし否定もしない。あるがままを受け入れることは、美徳。と、信念があるわけじゃない。美徳ではない。生き方、それも極めて重要な、損なってはいけない根幹。認識者の領域で発生したあらゆる事象は受け入れられるべきで、それを否定することは、伊折をも否定することと変わりない。それだけは、絶対にあってはならない、犯してはいけない存在理由のひとつだ。

「居たのでしょうね。……よく、離れの一室から歌が、聴こえていました。離れにはあまり近付かないよう言われていました。疑いの気持ちがあったから、一度、その方の部屋の前まで、行ったことがあります。そこで、歌が止まって、……たしか、誰かいるの? と訊かれたんです。わたしは、驚いてすぐに逃げてしまいました。あとで、離れに入ったことがばれるんじゃないかって、怯えていたけど、それを繭子さまがお屋敷の方に漏らすことはなかったみたい。それ以降も、わたしが使用人を辞める日の夜まで歌は聴こえていました」

 歌、歌。四肢の欠損した繭子が邸内に姿を見せることはなかったから。それだけでは、疑わしかったというのは、当然か。それでも、モカは繭子の存在を確かめる為に、繭子に接触しようとしていた。扉越しでも会話? があったというのだから、もはや疑う必要はないのか。

「歌なんです……この歌が、わたし、わたしは、」

 モカは肩を震わせて訴える。歌が、歌が、と。この時、恭个の印象では空蝉モカの様子が激変したように錯覚された。いや、確かにここが、ポイントだったことは後々、思い出す度に印象付けられているようだった。なにをそこまでして、空蝉モカという人間を追い詰めることになったのかを。彼女の訴えは続く。訴え、そうこれは訴えているのだ。恭个は空蝉モカの背後で無表情にただ一点を見つめる伊折の姿を見た。そこに感情のようなものは存在せず、ただからっぽの形だけが置いてあるという不思議な感覚に囚われた。

 どうして私がこんな目に合わなくてはいけないのか! 静かな声で激しく訴えている。空蝉モカは空になったカップの縁をスプーンでなぞる。

 耳障りな音が恭个の神経を逆撫でる。伊折の輪郭が薄っすらとぼやけていた。幻視ではなく、実際に。

「家に帰って、きて。最初に変だなと思ったのは、カーテンを閉めたその後ろに、なにかが潜んでいるって、すごくリアルな感覚がしたんです」

 恭个は聞きに徹して、黙って先を促した。モカの目の焦点はどこかはずれていて、伊折同様、在りもしない形を虚空に定めている気配だった。自覚はできなかったが、恭个の視点もどこかずれていて、この場に居た者すべて、それぞれ勝手な方向を見ていたかもしれない。

「もちろん、なにも、いませんでした。でも、しばらくするとまた、そこに何か大きな翼を持った何かがいました。居るような気がしました……」

「翼を……持った……」

 あまり良い想像ではない。憑き纏われていることによって引き起こされる嫌悪感。増幅していく悪しき想像に蝕まれていく現実を考えて慄然とした。

 恭个同様、モカ、更にそれ以上に浸透していく、そんな予感を漠然と抱くことは避けられない。

「下手な想像は身を滅ぼすわよ」

 伊折の声が沈んでいる。人を突き放すほどの冷たさを見るのは、久しぶりのことだ。

「私に言っているのかな?」

「……誰に、というわけじゃない」

「まあ、想像するなという方が難しいとは思わない?」

「私は死んでしまっているから、あなた達の想像力ってものは理解できないわ」

 想像力か。勝手に思考する脳みその機能を自在に操れるのなら、人間はこれほど恐怖することはないだろう。それを容易くやってのける人種も存在しないわけではない。そうした一線を超越した自我のコントロールを得たいばかりに、あるいは、一縷の望みにかけて催眠なんていう本来ならば胡散臭い行為にも耽りたくなるのだ。

「それは、歌うんです。あの声によく似た……、いえ、それそのもの、声真似でなく、はっきりと……」

 モカ越しに交わされる二人の会話は省略される。空蝉モカは何処とも知れないそこここに目玉を転がし、乾いたうめき声に似た咽を震わせる。

「また恐る恐る、窓越しに見える翼の影に向かうと、言うんです。突然歌うのをやめて、あれ? そこに誰かいるの? って……」

 それは妄想か。現実か。

 少なくとも、モカの経験した主観的現実のなかでは、紛れもなく本物だったことは間違いない。恭个はそれを承知している。心の内側の作用を否定はしない。どれほどの恐怖を伴うものであれ、客観的な視点で物語るそれら体験に確たる証明を与えることはできない。そこはひどく繊細な領域だ。他人が土足で踏み入ることを拒む、聖域とでも嘯いてみるか。

 ぞくぞく、とした鳥肌に全身覆われて柄にもなく高笑いを上げかねない。理性だって簡単に捻じ曲げる力が作用する。空蝉モカの経験を眼前に幻視して、その恐れを共有して、頭も心も彼女同然に……。

 つまるところ、感受性が強すぎるのだ。自身では掌握し切れぬ、意識の一端。恭个にはそういった一面もある。

「カーテンを開くと、やっぱり居ないんです、何も。……そんなことが一晩に、何度も、何度も。何度も何度も、何度も何度も……なんどもなんども……なんども、何度も、なんども、何度も、なんども何度もなんども何度もなんどもなんども、なんども、なんども……」

 ヒステリックにカップの縁をかき回すスプーンの上げる音。ちりちり、ちりちり、と、病的な金切り声と混ざって場が混淆と化す。モカの疲弊した神経を顕すに十分なノイズは、酷くざらついた不快感を催し耳が痛む。

 耳を引き千切ってしまいたい、と衝動する。凍てついた空気に、ひび割れる痛みに嫌気がさして、そんな時にふと感じる心理に似た、馬鹿げた衝動だ。

「その手を止めては、いただけませんか。少し神経に障る」

 相談者相手にするような心遣いなど忘れて、険のある声を発する。そうだと気付いて、頭を下げる暇も許されず、モカの独白めいたうわ言は続いた。彼女を止めることはできなかった。

「もう、家にはいられないと思いました。家を飛び出して、どこにいくのか。行く場所なんてわたしにはない。ただひたすら、声の、歌の届かないところならどこでもかまわない。なりふり構っている隙にあいつがまた歌い出す。逃げろ逃げろと、自分に言い聞かせて、声の届かないどこかへ……」

 この町を去る、という選択肢はなかったのか。恭个が思うに、この桜木の旺盛な町中から逃走すれば、その幻影から解放されることができたかもしれないじゃないか。

「逃げても無駄でした。どこへ行っても、あれは上空から、歌うんです。心安らぐような……でも、それを、決して許さない。責めるんです。惨めな私を蔑ろにして、なぜ貴様らのような連中がのさばっていられるのか、って。わたしに解ることなんてありません。あれがそう歌うだけです。どこへ行っても、建物の隙間に隠れても、桜はどこにでもあるから、どこからだって自由にわたしを俯瞰して、見つけ出す。歌う。なぜ生きるのかと、訴えるように」

 ああ、繭子は何処へ消えてしまったのか。早く見つけ出さなくては……いずれ取り返しのつかない現象が顕れる。いや、それはもうすでに始まっているのかもしれない。

 超常の力を身に宿した四肢欠損の憐れな娘。およそ不可能な状況で失踪した繭子を探し出すことの困難。それは、幽霊を追うことと何ら変わりない。

「いまだって、ずっとわたしを見ている。あっちから? そっちから? いいえ、わたしの後ろ。怖い、振り向くことが、歌っている。ずっと、ずっと、ずっと……」

「私は、」

 後に続く言葉が見つからなかった。モカを安心させる言葉を持ち合わせていない。

 どうすればいいのかを、冷静に考える時間が欲しかった。

 それもこの場に限り、実現することは不可能だった。

 考える事よりも優先させるべきことを怠ったことへの、これは罰だ。

 だから、空蝉モカを責めることはできない。似たような戯れを彼女の前で恭个たちは行っていた。

 一瞬の隙。瞬きした後、一定であるはずの時計の秒針が遅く感じる、あの不思議な感覚と同じ現象が起こった。

 そんな間隙を突かれた。

 モカは逆手に持ったスプーンの柄の部分を右耳深くに押し込んでいた。

 心底満足げな微笑みを浮かべて。

 何もできなかった。呆気に取られている恭个の眼前で、うっ、と短く呻いたかと思った次の瞬間には、激情した叫び声を上げていた。

「あ、あ、あはははははははははは――! 痛い。最初から、こうしていればよかった! ああ、痛い、痛い。あはははははははは、痛いよう。痛い。でも、これしか方法がなかった。歌を消す為に! ああ、痛い。痛い。痛いじゃないか!」

 狂っている。同時に様々な思いが巡る。ああ、すでに空蝉モカという人間は正気を失っていたのだ。ここに訪れるよりずっと以前から。私の目の前で、早まったことをさせてしまった。探偵失格。幻想に責め苛まれる恐怖の痛み。私だって幻視した、あれ。責めるべきは私自身だ。理解してあげる事ができたはずだ。ずっと訴えていたじゃないか。一方的に身に起こった禍事(まがごと)を。

 モカは右耳から引き抜いたスプーンに艶然と笑み、赤い粘液を啜った。今度は、左手で逆手に持ち替えて、左耳まで潰そうとしていた。

 その後ろで、まっさらな無表情で佇む伊折が見えた。感情らしきものの一切感じ取れない能面のような顔に言い知れない虚無を、恭个は悟った。

 伊折は語らない。黙って成り行きを見届ける。その、ほんの僅かな歪みに恭个は震えていた。後には静寂が残される。その時を迎える前に、恭个は椅子から飛び上がった。


 冷静さを取り戻した恭个は素早い動きでモカを取り押さえた。およそ、華奢な女性では考えられないような異常な力で反抗してきた。

「あははははははははははっはははははあ――ざまあみろ、ざまあみろ、おまえのうた、なんてこうすれば……聴くこともできない、痛い、痛い――」

 モカのけたたましい笑い声を至近距離で喰らいながら、両腕を押さえつけ、圧し掛かった胴と両腿で動きを封じる。恭个の鼓膜が激しく揺さぶられ、天地がひっくり返ったように脳みそがかき乱される。

「くっそ! 伊折、警察……いや、救急。あー! 兎に角、どっちでもいい電話を繋げてくれ!」

 痛みにのたうち回るモカを押さえておくことは容易なことではなく、押さえる腕を何度か床にたたきつけた。左手に握られた血濡れの珈琲スプーンは小型のナイフにしか見えない。隙あらば耳の奥深くに突き刺す、飛び出した眼球の黒目は左右に離れてしまっている。とっくに、現実は見えていない。耳穴に異物を突っ込んで、脳みそをかき回すのか……。ぞっとしない考えが瞬間、駆け巡って、そのイメージを掻き消すごとくモカは恭个の下でさらに笑い狂っていた。

 やがて、連絡した救急と警察が暴れ乱れるモカを連れて行った。モカの過ぎ去った後の事務所には疲弊しきった恭个が項垂れていた。煙草をくわえたまま、火を点けることもなく。

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