5-1


 五、誘いまどい鳴き声


 室内を満たす暖気は頭を朦朧と蕩かし、飴色の蜜みたような粘りと弾力のある甘い官能的な睡魔が襲いくる。その甘みに身を浸す感覚は心地よく、身体の輪郭は解け、底の知れない暗闇に没するか否かの葛藤は、実に悩ましい。

 甘味と暗闇の狭間を漂う行為で得られる快楽はなかなか手放し難く、塵ほどの意識の抵抗でなんとか目覚めてるに過ぎない。

 恭个は浄徳和尚から得た思考材料を反芻するでもなく、午後の気だるげな眠気に抵抗し続けていた。モダンにくすんだ革張りのソファにだらしなく横たわる。脱ぎ散らかしたトレンチコートとジャケットは抜け殻のように床に張り付いている。緩めたネクタイに縋り付く鉛銀のタイピンが西に傾き始めた日の光を吸い取り輝いていた。

 先ほどから握っては離してを繰り返している白い欠片は、首を吊った若者たちの一人から勝手に持ち出した証拠品だ。

 象牙か、磨かれた石だと思っていた。しかし、そのざらついた手触りには妙な既視感があった。軽く舌を這わせたら……その味と共に自殺した少女の苦痛を共有することができるだろうか。温かさで少し、思考が鈍くなっているらしかった。ちろりちろり、と乾いた舌を出し入れして、白い欠片の先端に触れるか触れないかの距離を愉しんだ。もどかしくもありこの上ない快楽にも思える行為に浸る。

 意識と無意識の中間点。何事にも注意力が必要な危険な領域であり、催眠の暗示に掛かりやすい状態。それを恭个は体感的に心得ている。とはいえ、脳髄の奥の方から搾り取られるように落下する浮遊感を味わうと抗うことが難しい。

 その白い欠片は骨だ。それも鳥や牛といった類のものではなく、正真正銘人間の骨である。指先の第一から第三関節辺りに相当する部分。少女の口から引き出した時から意識しないよう気を付けていたが、どうあってもそれは骨でしかない。奇妙な形の自殺だった。死の際に見せるような姿形を放棄した厭らしさがあった。

 心の底から自ら命を摘む行為を愉しんでいる風だったではないか。

 呪術めいたものを直観して、恭个のような人間だったから手を出し盗み取った。イミテーションであるか無しかはこの際の問題ではない。なぜ、あのような形を取ったのかが問題だった。こと、奇怪な現象の只中にある身としては、場合によっては危険を冒すことも厭わない覚悟は必要だった。

「何をしているのかしら?」

 伊折の訝しげな目とかち合って慌てて骨をソファの隙間に隠した。

「ずっと見てたの?」

「そうね。そんな物騒なものにうっとりした顔見せちゃって……変態と大差ないわね」

 昼間だというのに、伊折の片手にはワインのボトルが握られている。

 今伊折が手にするドイツワイン――眠り姫を意味するドルンレースヒェンのラベルを見てもドイツ語を解さない伊折には単なる酒と変りないのかもしれない。その時を愉しむ潤滑油。事細かに知識を披露するなんて低俗、と伊折ならば嗤うはずだから、恭个も鼻につくような蘊蓄の披露は控える。

「決して、きみの肝臓を満足させる為に用意したものじゃないんだけど」

「なら一緒にどう?」

 伊折の手にはグラスが二つ握られていた。指の隙間に逆さに吊るした二つのグラスを揺らして見せる手の動きはしゃなりとし、それはいい女の仕草だと恭个は思った。酒精に酔う妖精の淫蕩な一面を見せつけられているようで、とても魅力的な誘い方だった。

 しかし、気恥ずかしさの方が勝って伊折の誘いに乗ることはできなかった。まさか伊折の前で、指骨に陶酔するような痴態を目撃されるとは……だいぶ油断していた。

「まだ昼間だぜ。私は遠慮しておくよ」

「あら、そう」

 別に気を悪くした風でもない。伊折はソファを独占する恭个を雑に退けて、その隣に小さく収まった。肩に羽織った黒のケープの印象のせいか、普段よりも蠱惑的に感じる。

「何か考え事してた?」

 恭个は煙草に火を点ける。指先からぼんやりと揺らめく炎が、一瞬、目に焼き付く。

「この火に意味はあるのかってね。少し考えてた……」

 深く吸い込んだ紫煙を吐き出し、ため込んだ鬱積をも吐露する。

 何かの象徴として視るのは構わないにしろ、現象としての辻褄のようなものは恭个自身把握しないことには心底落ち着かないわけだ。

「人体の構造が他人とは少し違っている、とかだと解りやすくていいんだけどね」

 こちらの方が発火現象を科学しているようで、取っつきやすかったりする。なんでもかんでもオカルトとのたまい現象としての理解を放棄するのはある種の怠慢なのだと、恭个は嘯いてみる。

「難しい話はわからないわよ」

 伊折の、とろり、とした眼差しがあなたも一緒に酔いましょうと誘っているようだった。

「先の見えない暗闇に、火を灯す。進むべき道を示す光とは考えられない?」

「シンプルでいいね。でも、ロマンチックな考え方は嫌いじゃなかった?」

「時と場所の問題ね」

 酔ってしまえば現世のことなど構いはしない。それも一種の怠慢だろうか。悪くはない誘い文句だ。鬱っぽい午後のやるせなさを呑み込む手段として有効だろう。

 室内を満たす暖気によるものとは質の違う重さが、頭の中を占めているようだった。不純物を洗い流すエーテルか。万能の薬とはよく言ったものだ。

 ではと、恭个もグラスに手を伸ばそうとした矢先に、乾いた鈴の音が来客を知らせた。

 果たしてそこに現れたのは、行方の解らなくなっていた空蝉モカだった。大きく見開かれた両眼は血走り、辺りを忙しなく見渡す彼女の姿は、過敏な神経に病んでしまった者特有の危うさを思わせた。

第五話から

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る