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 そもそも、こんな長話をしにここへ来たのではない。渡会家の墓が荒らされていたことがある、という話を近衛から聞いてこの天照寺までやってきたのである。

 本堂の火鉢で湯を温めて、その場で急須に注ぎ湯呑に移す。信楽焼の趣ある藍色の、上等そうな焼き物の色合いはこの浄徳和尚の心のようでありどこまでも落ちていきそうな空の広がりに似ている。振舞われるほうじ茶の香りは口を閉ざすに十分効果的だった。

 みたらし団子は少し硬くなっている。どれだけ断っても次から次へと出てくる茶と菓子に胸も焼けつく。あまり甘いものは好かないにも拘らず勧められるものに手が伸びるのは、豆大福なんかを食む恭个の反応を見て、その度、柔和な笑みを浮かべる和尚の顔見たさのようにも思える。

「ところで、赫崎殿はこの町の地獄観がどのようなものか知っていますかな?」

 赫崎〝殿〟だと? まるで小娘だからと茶化されているようではないか。女に対する照れ隠しか知らないが、どうにもこそばゆい。いや、照れ隠しならこうも易々と呼ぶものでもない。和尚の風体は、俗で遊びなれた感が拭えないところがある。だから、そういう性分なのだろう。話題が尽きないのも気を使ってのものというより、説教――話をすることが愉しくて仕方ないのではないか。寒さも忘れて、ほくほくした笑みを浮かべる和尚にいくらあてられようと、恭个の身体が温まることはなかったが。

「また藪から棒に……しかし、そうでもないのか……地獄っていうのは現世で罪を犯した者が堕ち、その罪を償うためにあるものでは?」

 正直宗教というものに疎い恭个では固定された地獄観というものをうまく説明できない。思案気に首を巡らせても、ないものは出せない。

「まあまあ、そのようなものですかな。大なり小なり人間は罪を犯すもので。でもそれでは誰も彼も地獄行きです。だから、仏様を敬う心、つまり信仰心が必要なんです。信仰する心が救いとなって地獄に堕ちないようにしてくれる。地獄とは罪に対する戒めだといえるでしょう。どう生きれば我々は恐ろしい地獄に堕ちなくて済むのか? その為に機能するのが宗教ですね」

「それでは宗教とは、地獄ありきとも聞こえますがね」

「どう捉えても構わないものです。人は恐ろしい、やましい、妬ましい、という心があるから宗教を求めるのです。(そういうシステムを構築している、と穿った見解を持たれると我々も困ってしまうのですが)そこでは現世で健やかに生きていく心の在り方を説いていくのです」

「だから地獄のイメージは恐ろしければ恐ろしいほど信仰に深くつながっていくわけだ」

「ええ、ええ」にこやかな和尚。恭个の皮肉にも笑顔を絶やさない。もう幾つシニカルな言葉をぶつけたことか。まるで手応えのない感触にすっかり気持ちは萎えていた。

「しかしですね、この櫻見という町の地獄はひどく歪なんです。神仏習合という言葉をご存じですか?」

「神も仏も同一視する、異なる文化の共存関係、のことでしょうか?」

「ざっくりしていてよろしい。かっかっ! だいたいそのような認識でいいと思いますよ」

 もはや、和尚の呵々大笑には驚くまい。櫻見町の地獄とは如何なものか? その疑問の方がよっぽど興味をそそる。恭个の至って淡白な返事。率直な方が話が進むと心得始めてきた。

「それが、どう関係してくると?」

「イメージの習合ですよ」

 和尚の声の質が変わる。凄味というか、その言葉の重要度の高さが声と態度から溢れている。

「?」そうとはいえ、言葉の意味は解らない。恭个が声を出せなかったのも、和尚の凄味に怯んでしばし放心していたか、胸の内にすんなりと侵入してきた言葉を咀嚼していたのか。突如として、無性に煙草が吸いたくなってきた。もの欲しそうな指使いの手を中空に置いて、こころの内側を見つめていた。

「櫻見町には仏教的観念でいう地獄という概念が存在しません。そこにはイメージによって膨らんだ歪な、ともするとある一点を認識することでは同一ながら、その一点は、認知的には全く異なる世界を見ているのです」

 それでもお寺をやっていけるのは、広い意味での習合的文化のおかげかもしれません。

 本来、櫻見町に仏様を信仰する仏教のような宗教は必要ないはずだと言い退ける。ここではどういうわけだか、人は地獄に攫われる、引きずり込まれる。そこに堕ちる基準のようなものが曖昧で、よく解らない。地獄そのものを認めないコミュニティーもあるとか。

「つまり、近代以前の神仏習合という文化形態の名残として、この町の人々は自身にとってふさわしい形の地獄を見ている。そしてそれは、矛盾することなく共生している。それが和尚の言うイメージの習合ってわけだ」

 お互いしかつめらしく語らう光景ほど滑稽な姿形はないだろうと、頭の片隅で考える。それは恭个の表面に歪な笑みとして現れている。

「信仰の形態が一つの文化として独立する仕組みは、それぞれ違った解釈や見方を構築していった結果でしかない。宗教とはまこと主観的な問題なのではないか。だから、そこには共通する項が必ず存在している。習合が現象として現れるのは部分的な領域で重複する項が架け橋した結果なんだと、私なんかは考えているんですよ」

 年老いた風習を重んじる人々の間では、堕ちていく地獄にあまり恐れを抱いてはいないように感じられる。本来、それは根源的に強い感情のはず。しかしながら、人によってはそこが楽園に近しいイメージを持っていたりする。おそらく、櫻見町に伝わる天女伝承に深い関係があるとは考えられるものの。

「この地獄を形作ったのは天女の存在を中心にして、ということですね」

「その天女というのが厄介だ。どうにもこうにも幻想性に侵されていて、私なんかはすんなりとこの町の地獄を受け入れてよいものなのか判断に難しい。そも、これを天女と断じて良いものか……。イメージにイメージを重ね、じわじわと町を侵食するエニグマ。そんな想像が視えなくもない……」

「それはぞっとしない考え方ですね。つまり、そのイメージはいまも成長し続けているわけでしょ」

「いえね、私自身よくは理解できていないというわけですよ。ただ固有のモチーフとしてこの地獄に天女在り、と考えられているようです」

「地獄の亡者に引きずり込まれた天女……たしか伝承には短いながらも続きがありましたよね」

「はい。首を括った青年は桜の森の中で目が覚める。そこで、聞き覚えのある歌に誘われて天女の下に辿り着く。(本来この時の心情なんかは語られるべきだと思うのですが、この続きの話にはそれがない)。再び天女と一緒になれる、そう思う間もなく天女が告げる。あなたはこのような地に居てはなりません。私の示す道を進み地上へ帰りなさい。やがて、地上に帰り着いた青年は、それでも天女のことを思い続けた。願いが通じたのか……青年は桜の木に化身しこの町に根を張ったという」

「こうも簡潔に語られているだけに、言い知れない恐怖がありますね」

「この続きの物語については私もそう感じます。言ってしまえば、あの世とこの世の往還をテーマにした類話であると解釈できる。しかし、地上に帰ってきた青年がその後、桜の木に化身するというのは……一体どういうことなのか詳しく視えてこない。これはどうにも納得がいかない。しかし、この伝説に端を発しているのか……この町の桜の壮大さ。どこまでも広がっていく幻想絢爛な風景を想像させるにたるイメージが醸成されているように考えられる」

 櫻見町の桜が増え続けているという都市伝説の起源もここにあるのだろう。天女と地獄と桜。これら固有の観念は様々なモチーフとしてこの町の中で語られているようである。そこから、想像された地獄となると、なるほど、櫻見町の地獄観が些か特殊であることにも納得できそうなものだ。

「櫻見町の地獄は天女が座する桜の森の中……か……」


「こりゃあ、とんと長話に付き合ってもらってしまったねぇ。いやいや、すまなかった」

「そのようなことは。とても有意義なものだったかと思います」

 しばしの間を置いて、恭个の用件を承知しているはずの和尚の詫びが入る。別に無為に時間を浪費したわけではない。抽象的な議論の末にまま引き起こる余韻を引きずった静寂は恭个の胸の内をいつだって心地の良いものの様に感じさせてくれる。

 そんな和尚は大変申し訳なさそうな素振りを見せる。低姿勢でぺこぺこ頭を下げる姿は、先ほどまでの熱弁が一種の興奮状態であったことを物語っている。和尚はひとしきり謝り倒しそれに満足すると「お墓の状態が気になっていらしたんですね」と、咳払いと一緒に吐き出した。一つ一つの態度にきっちりと区切りをつける辺り、それが一種の様式として身に沁みついているのかもしれない。感情が読み取りやすくて恭个としても言葉の選択に苦労しないのは手っ取り早くて好感触だ。

「渡会家の墓が荒らされていた、と私は伺ってきたのですが。どのような状態だったのでしょう?」

 加澄子は警察組織を嫌って訴えは出していないようだが、はたして理由はそれだけなのか……。とはいえ、あえて強引に繭子失踪と関係付けるのは無理筋のようにも感じられる。単に、些末な問題として視るのが妥当なのか。

 すべての判断は和尚の見立て次第ともいえた。

「とくに変わった所はなかったはずだが……墓石がほんの少し動かされていた跡があって――」

 どうやら渡会家先祖代々の墓でも比較的新しく建てられた墓の様子が少しおかしかったと言う。最初和尚の目に留まったのは活けたばかりだったと記憶する仏花が酷い枯れ方をしていた。近づいて様子を確認すると墓石を少しばかり動かしたような跡が窺えた。納骨室(家名の刻まれている石の下、供物台の辺りだろうか。その石材を動かすとハッチの様に開く遺骨を納めておくスペースがある)の辺りを動かしたのではと考えられた。

「念のため確認しましたけどね、特に荒らされた風もなくってね」

 もともと、渡会家の墓全体の管理を任されていた和尚からすれば、異常な速度で枯れ果てた白ユリからは不吉な予感を覚えるものだったのだと……。

「本家さんの方で何か良くない事でも起こったのでしょうか?」

 意外な鋭さを見せるのは住職ならではの霊感か、あるいは経験によるものかもしれない。

「まあ、詳しいことは……私の口からは」

 恭个は適当に口を濁して、他に気付いたことはなかったかと訊く。

「そうさね。ああ、変な書置きが石で止めてあった」

 和尚は一度庫裏(くり)に引き返して、数分もせずに戻ってきた。手には何やら紙片のようなものを握っている。

「ほれ、これを」

 そこで恭个の前に差し出された紙片には、薄気味の悪い符丁めいた文言が綴ってあった。


『天使は解き放たれた』


 普通の紙に比べてやや厚みのある手触り。これはスケッチブックのようなものだろうか。手書きの筆致は異常にバランスが取れている。ともすれば、書き手の心理は相当に神経質なものではないか、などと恭个は分析する。

「天使とは?」

「はて、天女さんと違うんですかね?」

 呆けた和尚の顔をじっと見つめてもそれ以上の答えは得られない。和尚にしても理解の出来る事ではないのだろう。

 ふっ、と恭个はうすら寒い気配に怯えていた。とても重要な〝ヒント〟を得たような気がするのは、夢に見た顔のない存在に近付いた感覚がリアルに感じ取れたからだ。

 やはり『何者か』は存在する。

 紙片を片手に、茫然と空を仰ぐ。白ユリはどうして枯れてしまったのだろう。それが凋落する渡会家の象徴とならなければいいのだが……。

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