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 寒暖差の激しい季節とはいえ、その日の気温は一段と低いものだった。暖かさが兆す中に、突然やってくる寒さだ。それはひどく身体にこたえる。

 ところで、墓地という場所はいい。浄化された空気の漂う静かな香りが心を落ち着ける。安らかな眠りを妨げてはいけない、その心が独特の清々しさを育み静謐な空間を演出する。人によっては忌み嫌うかもしれない。土葬文化の名残などでそういった忌避感は生まれるのかもしれない。まだそこに腐りかけている死体が埋まっているというのは、どうしても不気味な想像を膨らませてしまう。恭个が墓地に抱く感覚は、火葬文化に移り変わったことによる意識の違いと考えている。そこには先祖代々の骨が埋まっているだけ、と。

 それでも、恭个にとっては悪くない場所だった。まずなにより、幽霊を見ることがない。その理由は解らない。限定的な空間と意識の隙が生じるとそれを見やすい、という自己分析はできているけどまだはっきりとした因果関係は説明できない。死に対する供養が正しく作用しているから、墓地に限って恭个が幽霊という存在を知覚しないでいられるのか。

 昨晩の経緯から、改めて幽霊という語を辞書で引いてみた。


 ゆう‐れい【幽霊】

① 死んだ人の魂。亡魂。

② 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。亡者。

③ 比喩的に、実際には無いのにあるように見せかけたもの。


 ①と②は兎も角として、③の意味は興味深かった。つまるところ、意識の問題とも取れるような定義だと思ったからだ。とは言え、字義以上の智慧を得たというわけではなく依然として靄とはっきりしない心理を引きずっていた。

 天照寺(てんしょうじ)のこじんまりとした本堂、寺の縁側――濡れ縁というらしい――で茶と菓子を振舞われ、和尚の長話に付き合っていた。引っ張り出してきたトレンチコートとマフラーが意味をなさないほどの寒さに辟易し始めてきた頃合いだ。

「本能的な恐怖……いや、あれは先天的な体験っていうのか……恐怖に恐怖していた……うまく言葉で言い表せないのだけど、その時の私は何に怯えていたのかさえ定かじゃなかった」

 恭个はそのとき、昨夜見た夢について話していた。夢から覚めた夢の恐怖をうまく言葉に表せないもどかしさ。絶対的な恐怖というのか。この感覚を伝えきれているかは解らない。はて? 私はなぜこんな話をすることになったのやら……。和尚の雰囲気に呑まれて要らぬ心情を語りだしてしまったのかもしれない。

 それに、和尚は呵々と笑って受け答えた。

「いえいえ、ほとんど言葉にできていると思いますよ。神霊に関わる人間には自ずと理解されているか、無意識に感じ取っている感覚のことではないでしょうか」

 どこか亀のようなのっぺりとした顔に禿げ頭という浄徳(じょうとく)和尚。飄々とした和尚は砕けて接するところがあり、いまいち掴みどころが解らない。本来相手にするなら恭个が最も苦手とする部類の人間である。

「恐怖という概念に宿る以前の、もっと根本的な何かに対する恐れ。そのような解釈は正しいと?」

 むつかしい表情の解けない恭个は差し出されたほうじ茶を啜る。少し冷めているのに、香りが豊かでコクがある。頂き物と言っていたが、こういった良質な物が贈られるということは和尚の人望は篤いのか。ただ袈裟を掛けただけの生草坊主というわけではないだろう。

 和尚は細い目をさらに細めて握った拳で、こつこつ、と禿げ頭を叩く。その動作は顔の印象も相まって愛嬌のある仕草になっていた。

「正しいかどうかは私には判断できませんが、そういうものは確かに在る、とは申せますかな。そも、我々の世界と神霊の世界は別だと考えた方がいい。この世で、恐ろしいと感じるものに人間が言葉を与えただけなのだから。あちらさんからしてみればとんとお門違い。私たちにあちら側へ渡る術があれば別ですけど、安易に恐怖だとは思ってはいけないのですよ」まあ、それでも科学的な解釈は可能でしょう、と和尚の話は続く。


 生理学的な作用で人間はしばしば悪夢にうなされる。この場合の『悪夢』とは以下に現れるような症状のことを言っている。

 それは至極リアルな感触だ。単なる夢と悪夢は別物であり、悪夢は『オールド・ハグ』、鬼婆という恐ろしい存在が胸にまたがり呼吸困難を引き起こす幻覚等を見せる。とても鮮明で複雑、五感を介して感じることもある絶望的な恐怖。金縛り、息苦しさ、胸への圧迫感を伴う。

 このような睡眠麻痺に視られる恐怖を、不吉なヌミノース――人知を超えた存在との遭遇で感じる圧倒的恐れ、戦慄――と呼ばれる。

 今回、恭个が見た幻覚は四肢の欠損した繭子だったわけだが。時代が下れば顕れる幻覚の種類も、ある普遍的なイメージに通じてくるものだ(鬼婆、悪魔、魔女等)。もっとも、発現下にある人間の環境に大きく作用されると考えた方が妥当とすれば(文化、信仰、思想等)が重要になってくるのではないだろうか。

 恭个の身に起こったことは悪夢による『オールド・ハグ』だったのではないか? 和尚はこのように説く。


「僧侶が騙るにはいささか科学的ではありませんか?」

 筋が通り、納得のいく、思わず頷いてしまうような話でも、素直に受け入れられないのはどうしてか。寺の僧侶が説くにはあまりに現実的過ぎるのだろうか。では、恭个にとって宗教家とは如何なイメージなのか? 古式ゆかしい僧侶像。幼少の頃見かけた道端の托鉢僧、その寡黙な立ち姿にどうやら端を発しているようだった。在りし日の郷愁……なんとしみったれたセンチメンタリズムが、露呈するのを嫌って自然、和尚に対する受け答えも皮肉なものになってしまう。

「私なんて立派なこうもり野郎ですさ。その都度、都合よく解釈するのです。人々を納得させ導く行為も、これまた徳ですからな!」

 ああ、でもそういうのとも少し違うようだ。

 うっかり丸め込まれるようで落ち着かないからだ。どこかで退廃的な人物像を思い描いて――三島由紀夫『金閣寺』に出てくる老師とか――その落差に勝手に失望して、でもそこまで嫌いになれない……。

 やはり、この手の人間と関わるのは苦手である。こわばった表情を解くには、すでに茶はぬる過ぎた。あまりにも露骨に顔に出ていたらしい、和尚は「気が利かんで」と禿げ頭をぽくぽく叩きながら引っ込んでいった。

 

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