4-2


――夢。

 目が覚めたことに気が付き、その内容を思い出して、ぞっ、とした。初めは自分が見ている夢だと思った。明晰夢で我が事のように自由の利く、恐ろしく鮮明な世界だった。そのあまりに観念的な世界が、実は自分のものでないとしたら? 私はいったい何を見せられたのだ……。どこに迷い込んだというのか……。

 ゆえに、目覚めて安堵するよりも先に、悍ましい想念の残滓に戦慄したのだった。

 この事件、『何者か』の介入が想像される。

 今はまだ、輪郭のはっきりしない構図をそいつは描き出そうとしている、と。単なる予感と笑うには、恭个は尋常ではない現実を知りすぎていた。ある種の霊感は働いている。感覚的に感じ取る、といった具体的なものでないにしろ、恭个はこの霊感というものを強く信じていた。

 直観は馬鹿にしてはならない。

 それに足下をすくわれたことは数知れない。瞬間的に思い起こされる出来事というのは往々にして過去の集積からくる。人間の脳みそを侮ってはいけない、という意味で恭个は直観を信じている。

 いまだ、夢の残滓に――記憶に深く突き刺さっているのだ――恐れる自身の心細さを解消するために伊折の繊細な手を求めた。そこで気付いた。自分の身体が思うように動かないことに。声で訴えようとしても、ううう、と空しい呻きしか出てこなかった。

 もはや、安心感を得るとか以前の問題だった。只々、純粋な恐怖に身体が慄いている。抑えがたい〝怖い〟という衝動に。夜の暗さから這い出てくるだろう恭个を脅かす魔の手。それらが際限なく想像されて半ばパニック状態である。

 やっとの思いで微かに首だけが上がった。が、そこからうまく動かない。まったく動かない。金縛り……。見たくもない一点に視線が固定されてしまった。瞼が閉じない。叫びたい。伊折は何処にいるのだ! こんなのは嫌だ!

 すべて内なる衝動で、そのはけ口はどこにもない。自己の中でしか完結しない恐ろしいほどの孤立感。孤独である、と強く訴えかけてくる暗闇。

 眼球が血走っているのが解る。涙に覆われていく視界が、ぱっと晴れる。

 晴れなくていい。今は何も見えない方がどれほど救いになるだろうか。

 扉の傍から這いずってくる肉塊があった。よく解らないがその一点だけ鮮明で目に焼き付く。脳を焦がす……。

 赤子のような覚束ない動きだ。四つん這いになって這ってくる。それにしては、無様な輪郭をなしている。いっそお粗末な造形の人形か。違う。違う違う、あれには四肢が存在しない。関節辺りから不揃いに欠損した手足で動いている。仄暗い闇の中からこちらにやってくる。恭个の下に近付こうと、浅ましくも健気な歩行でこちらを目指している。

 嫌だ、嫌だ。来るな! 近づくな! ここから消え去ってくれ!

 それはもう、恭个の眼前まで迫り。顔が、見えるくらいの近さで、にたり、と笑った。

 繭子の顔で、伊折が笑っている。

 視界が覆われる。脳みそが震える。噛み合わない歯と歯が、稚拙な精神を嘲るように音を立てる。恐れは最高潮に達して……。

 白濁した意識の中で、恭个の理性は果てた。


「――ふざけるな!」

 暗闇が反転、室内にか細い月明かりが戻ってくる。尋常ではない大声が室内に反響した。

 そこに四肢欠損の化け物はいない。夢だ。今のが夢だったのだ。

 急速に安堵の心が全神経を緩ませていく。張り詰めた精神は肉体をも呪縛し、耐え難いほどに汗に塗れていた。

「畜生、気持ち悪い……」

 恐怖心はいつのまにか怒りに変わっていた。あれほど恐怖していたことに呆れさえする。

 手足を巡る血の流れを感じ始めた頃には、すっかりどうしてあそこまで恐れを抱いていたのか解らなくなっていた。

 夢だと思っていたものが、夢でなく。目覚めた先が夢だった。現実に帰ってきたことを自覚し、すでに心の在り方も分析しだしている。至って冷静。あんな馬鹿馬鹿しいこと、と今なら笑える。

 隣では伊折が柔らかい寝息を立てている。そっと頬に触れる。

「伊折、大丈夫?」

 少し間が空いてからかすれ声が聞こえてきた。

「……なにが? あなたのせいで、だいじょうぶじゃないんだから」

 伊折はそう言うと再び浅い寝息を立て始めた。言下に艶めいたニュアンスが隠れているようで、ぞくり、と思わず下腹を焦がす熱を帯びるが、今はそういう気分になれない。これはただの生理反応にすぎない。伊折も寝てしまった。

 はたして、幽霊である存在に睡眠が必要なのか……。それを言い出したら、彼女には体温もあるし、複雑な心理も持ち合わせたシニカルな性格の持ち主である。ほとんど人間と変らない。ただ一点、この家から外に出ることだけができない。

 恭个はベッドを抜け出して、シャワーへと向かった。体が冷える。このまま、寝ようにも一度切り替えが必要だった。伊折には申し訳ないが、布団の半分は汗で湿っている。まあ、それ以前に二人の体液を存分に吸い取った後なのだから、気にもしないだろう。

 熱いシャワーに浸っていると、にわかに渡会邸でのことが脳裏を過る。とくに印象的なのが、あのセイレーンを模した思われる一枚の絵。臨月を迎えた胎を慈しみの心で抱える妖鳥の姿だ。暗い色調とは裏腹に、清浄で神聖な絵画群に類似する〝畏れ〟を抱かせる作品だったと思う。

 恭个にもたらされた複雑な夢は、ある一つの啓示を呼び覚ました。

 絵の中に残された『〝seji usugimi〟』の署名。事件に見える欠落を埋める要因たりえるか……。今後の方針に付け加えても差し障りはないだろうか。

 熱く濡れた髪を絞って、タオルだけを纏った姿で恭个は煙草に火を点けた。重たげな煙が肺胞全体に行き届いて軽い酩酊感が心身を落ち着かせる。暖房だけ入れて、ソファーに仰向けになって煙を吹かす。あと何本、消費すれば夜は明けるだろうが。

 結局、その後は一向に眠気に襲われずまんじりとしない夜を過ごした。伊折が起き出してくるころには恭个の目は真っ赤に充血していた。

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