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 四、町の地獄


 そこは地獄の第七圏第二環か。ダンテが観念したそれとは似ても似つかない櫻見の町の一部分に過ぎないが、イメージは時を越えて潜在的な領域で今も生き続けている。

 一直線が永遠に続く桜の並木道である。ソメイヨシノの五指に分かれた幹は不自然にねじ曲がった魔女の腕を象る。それは地獄の深い階層から突き出たもの。自死と消費の罪を犯した人間の魂をより奥深くへと引きずり込もうという意思の顕れ……。目に映る、幾何学の性質を無視したどこまでも交わることのない完璧な並木の平行線は現実のものではない。現実との不自然な差異は、酷く心を不安にさせる。

 灰色の空に点々と群れているのは、鳥身女面(ちょうしんじょめん)の醜怪な生き物たち。樹からぶら下がっている肉の塊を前に、老婆のように皺くちゃの顔をさらに卑しく歪めて哄笑している。

 手前に見える木で首を吊っているのは狩野十文。反対の木には狩野カヨ。二人とも壮絶な叫びを上げたまま絶命したに違いない。十文の大きく開いた口腔内に光る金歯。カヨの目玉は半ばまで零れ落ち、充血した赤い網目がよく見えた。

 色を認識できる。冷静な分析が可能。これは異常なほど鮮明な意識で見ている夢、明晰夢なのだと理解する。

 こんなことは初めてである。何が要因で起こったことなのか? ここ数日、就寝時に聴くバイノーラルサウンドの影響か。所謂、催眠効果のある特殊な音声が流れる音楽作品の総称で、最近では〝ASMR(エーエスエムアール)〟とも呼ばれている。恭个はこの催眠音声を愛聴している。多少時間は要するが、受け身のエクスタシーを得られることから、伊折に袖にされた夜などは自らを心地の良い音楽で慰めているわけだ。

 しかし、今夜はそれを聴くことはなかった。伊折と二人重なり合って眠ったのだから……。

 まさか、こんな思考まで可能なのか⁉

 恭个は愕然とし、ここが夢の中であることに疑問を抱いた。広がる異界。見ようと思えばどこまでも見通せる。近かろうが遠かろうが関係なしに焦点を瞬時に切り替えられる。現実ではあり得ない超感覚。やはり、夢に違いなかろう。

 身体の感覚は現実世界よりも機能的であるようだった。握り込んだ指の喰い込む爪の痛みまで鮮明で、深い知覚を得ても目が覚めないことに慄然とした。

 これは進む他なかろう。恭个は深く考えることを放棄して、地獄と観念する櫻見町を歩き出した。

 使用人の三人が首を吊っている。空蝉モカは解るが、後の二名は……名前が浮かんでこない。事件にほぼ関係ないことは証明済みで、念のため自宅で待機していると近衛から聞いてはいた。少し写真を確認しただけで、ここまで細部まで記憶しているというからには、俄然、意識の深層、夢の中を自由に動いているという意識が強くなる。

 空蝉モカに取り付いた女面の怪鳥が、猛禽の鋭い趾(あしゆび)で柔らかい腹を裂いていた。ぼとりぼとり、と内臓が病的な色味とぬめりを帯びて零れ落ちる。顔を卑しい笑みに引き攣らせた鳥身女面が、腹の中に頭を潜り込ませて陶然と食んでいた。咀嚼音が生々しく、異様な臭気まで嗅ぎ取れる。鳥葬などという発想は生易しい残酷な光景が繰り広げられている。異形の鳥には選り好みする権利があり、どれも一様に腹の中に納まっている内臓を好んで食べていた。狩野夫妻も、使用人たちも、どこかですれ違ったはずの記憶にも残っていない見ず知らずの人間たちの。死体を貪る奇怪な鳥が内臓を食んで啜る音の悍ましさと汚らわしさ。地獄とはこういうものなのか……。

 込み上げてくる吐き気に気圧されながら、先を急ぐことにした。どこまでも続いている道のようだが、終わりはある。進む道の先から響く、麗らかな歌声が恭个を導いている。どこまでも連なる自殺者と醜悪な鳥の群れの中を黙って歩いた。夢にありがちな決して自分は危害を加えられないという根拠のない想念だけを頼りにして。


 近衛の顔は食い潰されていた。端正だった顔立ちを怪鳥の爪によって無残にも引き裂かれ、もはや正体が判然としない。それが近衛であることを直観できたのは、夢にありがちな根拠なき確信によるものが大きい。

 なぜ彼女は腸(はらわた)ではなく、顔を潰されたのか? 夢の中で、これだけ明確な疑問を呈してすら目覚めることはない。

 優しい眠気を誘う歌声が上空から降ってくる。もしかしたら、夢の中で更なる夢を見ることも可能かもしれない。抗う必要などなく、屈服した方が楽に決まっているはずだから。

 ぼろ屑と大差ない態でぶら下がっている清美子の前を、不貞腐れたような仏頂面の恭个が通過する。清美子の目は初めから、これから先も、なにかを映し出すことはない。

 加澄子の裸体は想像しただけに過ぎない。いまでは何の魅力も発しない。その姿態は両手両足を引き千切られており、セイレーンと化した娘の執拗な愛撫に為すがままとなっていた。

 歌声は気持ちを落ち着かせる子守歌。母の乳房から母乳を欲しがる初心な娘の懇願なのだろう。肌を切り裂きかねない鋭利な輪郭なす瞳を爛々と輝かせる様は無邪気さすらも、内包している。そこに見え隠れする感情に敢えて色を付けるなら肌を透かすネグリジェの明澄さ。卑猥と純真の狭間の、危うげな官能美はかえって心を清らかにするものだ。

 にわかに歌の性質が反転する。加澄子の胸をどれだけ揉みしだこうと、くすんだ乳首の先をきつく吸い上げようと、母乳の一滴も垂れないことに癇癪を起したのだろうか。その行為が無駄と知るとセイレーンは加澄子を躊躇なく手放した。手を離れた瞬間から関係性は無になる。ぞんざいに放り出された胴体は群がる怪鳥の中に消えていった。醜い老婆めいた顔の数々が気色の悪い声で鳴く。肉の潰れる音が、ねっとり、と耳のなか深くに侵入してきた。

 旋律に緩急が宿る。加澄子を満たしていた血液は甘い香りを発散した。視覚にも薄い靄めいた緋色がグラデーションするのが解る。降り注ぐ血液は一つの生命のような厭らしさをくねらせて不可視の楕円を描いていく。今まで映しだされていなかった物体の輪郭をなぞっているのだ。そいつが恭个の心音と重なり鼓動する。

 それはまっさらな白。成人大の大きさはあろうかというセイレーンの卵なのだと理解する。産み落とされたばかりの卵からはこれまで以上に禍々しい気配が醸し出される。

 あれは、このまま孵化してよいものではない。今なら間に合うはずと、恭个は我知らず駆けだした。

 直後に、その足は委縮して動きを止めた。足が止まったのは虚を突かれたから。全体像を把握する本来の地獄の管理者と認めた存在に怯んだ結果だった。

 卵を後ろから抱きかかえる手が、にゅっ、と滑り出てきた。顔のない何者か。見ようとすると複雑なモザイクで覆い隠される。この時点では、男女の性差も断定できない。直観的に、現象の舞台裏で手練手管を尽くしているに違いない、とは、なんとも心もとない推測だったと思う。

 セイレーンの鳴き声が変化する。媚びへつらうような甘い声で歌う。これまでの純真な印象とはかけ離れた俗に染まった喘ぎ。それと共に、白い卵の持つ硬質なイメージは、文字通り殻を破って変質する。後ろから抱きかかえる『何者か』の腕が白い輪郭を押し潰す。尚、卵膜に覆われた卵の中で身じろぎする気配と清らかな裸体とを想像させる。

 生まれる。生まれる。

 聖性の極致をゆく、穢れ無き邪気が、この櫻見という町を地獄に変えるために。

 醒めろ、醒めろ。醒めろ!

 つるりとした卵の内から溢れる骨。まだ受肉するには早すぎたのだ。と同時に、急速に安堵感が恭个の手足末端から脳みそに直撃する。

『何者か』は背を向けてこの場を去る。

 深い安堵に心底脱力した。

 ああ、やっぱり夢の中でも眠れるではないか……。

 セイレーンは恭个を俯瞰しながら旋回する。醜悪な怪鳥の群れが人肉を食む。ギャーギャーと喧しい。しかしそれも、次第に気にならなくなっていく。セイレーンの歌声は麗らかな旋律を取り戻し、恭个の意識を刈り取っていく。この世界が夢か、あの現実が夢か、眠りから目を覚ましたらそれもはっきりとするだろう。

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