3-4

「一々大仰な言い方。どうせくだらないミステリ小説にでもかぶれているのでしょ」

 まず、繭子誘拐を困難にしている大きな障害が二つ存在する。

 一つ、地形的な理由による障害。

 二つ、寝室に取り付けられた鍵の存在。

 これに繭子の肉体それ自体を大きな枷と視れば、犯人は三重の密室を突破しないことには誘拐が成立しない。

「三つ目の密室云々は置いておいて……一つ目は立地条件。渡会邸は陸上にできた岬状の丘の上に建てられた建物だ」

「正門を迂回して樹林を抜けていく道は取れないのかしら?」

「それは無理だね」

 岬状を成している丘は正門の置かれている位置だけが、地形的に窄まている。その為、邸宅に近づくにはどうしても門を潜る必要がある。

「渡会家の他を寄せ付けたくない意思に適った地形だよ。犯人を割り出す上で最も問題になるポイントでもあるかな」

 少なくとも、家人たちが調べた結果では、正門の監視カメラに不審人物が映っていたという事実はない。映像の確認を取った狩野夫妻が嘘を伝えていない限り。

「……なんだか、そういうのばかりね。渡会邸の人間の証言を全面的に信用する前提で話が進んでいる」

 むつかしい顔で伊折がため息を吐く。伸ばした手の先の杯の中は空。恭个が気を利かせてボトルの中身を注いでやる。

「うん。そうなんだけど……。敢えてそこは考えないようにしよう。私たちは依頼されている身だ。依頼人の証言は真実だと思ってかかればいいんだろ?」

「あ……、うん、そうね」

 恭个は首をこくりこくりと頷かせて不服そうな伊折を宥めた。彼女が言いたいことも解る、私もその可能性を否定したいと考えている。解っている情報からでは霞も掴めない。そんなものどうやって追えばいいのか?

「繭子が消えるまでの間、この正門を通ったのは使用人の送迎車と翌早朝のゴミの回収業者、そして、私の下に依頼に来た近衛の車だけだ」

「それだけ? だとすると、外部犯の可能性は難しいわね。ほら、崖側をよじ登るって……あまり現実的ではないでしょ」

「ああ、確かに正門の真逆の崖側は開けている。上から覗き見てみたんだけど、絶壁というわけでもなく、多少の傾斜が存在した。そこをクライミングしてくる。繭子を背負って下りる。私も考えたけど、そんな恐ろしいことできないよ……たぶん」

 崖の岩角は恐ろしく剣呑だった。逆立ったのこぎりの歯だ。その一本一本の刃に手足を引っ掛けることは可能だ。だが、少しでも踏み外しでもしたら? 思いのほか脆くて体重を預けた瞬間に崩れたら? 滑落は必至だ。

「敢えてリスクを犯してみるのも有りだけどね。家人の目を盗み繭子の部屋へ侵入。薬で眠らせた後、ロープで吊るして崖から先に下ろす。その後、犯人は建物ないし木のような物にロープを結んで崖を下りる。十分可能な気がする」

「クライミングなんて素人に出来るもの? 崖をよじ登っているところは天人川の対岸から丸見えでしょ? 全然現実的じゃない」

「物的証拠も見つからなかったからね。私もそう思うよ」

 そう即答すると伊折の白々とした目が恭个を訴える。冷めきった視線というものを浴び続けるのは非常に居心地が悪く、次第に申し訳ない気持ちになってくるものだ。伊折の目力もさることながら……。

「――って言ったって、あり得そうな可能性を列挙していかないと真実は視えてこないだろうが?」

「消去法は理に適っているわ。だけど、そうは言ってもね。限度というものはある。バルコニーから空に飛んでいった、とかわざわざ考える必要はある? 現実的にあり得ないでしょう」

 いや、んー……有り無しで言うなら、無しだろうが。伊折がそう主張しても説得力に乏しい。込み上げてくる炭酸の胸苦しさにゲップするわけにもいかず、吐く息に混ぜて細く長く呼吸する。伊折は目の前で下品な行動をとると怒髪天する性質だけに、恭个にも上品さを求めてくる。この息苦しさは、ある制限下で発動する類の緊張感に相当する。

 気前よく自由にふるまえるのならどれほど楽か! 好んで選択した関係性なのだから今更、彼女の言に対する否は唱えることはできない。

 規定された枠組み内で、どう工夫して愉しむか? そういう気質を愉しむこと自体は恭个の好みではある。

「とまあ、ほぼ外部犯の可能性は薄いから、渡会邸の関係者に目が行くわけだけど、個人的に最も怪しい……というか、まず目につくのが、空蝉モカの存在かね」

「彼女はその日に退職しているのよね?」

「そーだね。なんでも、自律神経を患って辞めていったらしいよ」

 特に渡会邸では外部の人間に委託する使用人の出入りが激しいのだという。これは、恭个自身邸宅内を探索することで実感として理解できるものだった。つまり、建物それに脳の機能を狂わせる暗示めいた設計思想が隠されているのでは、と直観に囁くものがあったからだ。荒唐無稽な考え、と否定するには恭个も数時間滞在しただけで、精神的に追い詰められるような気持ち悪さを感じていた。

「こう……僅かに建物全体が歪んでるんだよね。照明の加減も的確というべきか。催眠暗示に掛かる精神状態に落とし込む技法が仕掛けられているようで落ち着かなかった。伊折も知ってるだろ? 私が経験として催眠暗示に掛かるってこと。渡会邸ではあの、臓物が取っ払われて〝ずん〟と脳みそが沈んでいく感覚をにわかに感じた……要するに、空蝉モカを含めた過去の使用人たちは常に空間的に歪んだ状態を経験することで自律神経を狂わされていたんじゃないかな? と……」

「催眠下らないオカルト、て一刀両断できればいいのだけど。そうね、あなたが無様に〝アヘ〟っている瞬間を見てしまった事があるだけに否定しにくいわ。まあ、べつに空蝉モカの退職理由なんて実はどうでもいいのだけど」

 その節は無様晒していてごめんなさいでした、と恭个は口を開きかけてやめた。そうは言っても伊折が催眠に関して肯定的な態度ではないからで。脳の機能と自律神経を安易に結びつけるのも素人として憚られる。この件は一々引っ張る必要もなかろう。

「伊折はこう言いたい。空蝉モカが所持していたトランクケースに繭子を入れて邸宅内から連れ去ったと?」

「そうね。そして、本来処分するはずだった邸宅内の荷物は翌日のゴミで回収させる。あとは、繭子の寝室に音楽プレイヤーを仕掛けて、規定の時間に歌が流れるよう細工しておく」

「前提として、その晩加澄子が繭子の歌を聴いている必要があるけど、そこは問題ない。確かに加澄子は寝室の施錠に向かった先で繭子の歌を聴いた、と証言している。しかし、残念なことに音楽プレイヤー等の小細工は見つからなかった……」

 ではその晩、加澄子が聴いたという歌はなんだったのか? 歌を忌避するあまり幻聴を聴いてしまったのか? いや、ここは素直にこの時点では繭子はまだ在室していたということでよいのではないか……。

 繭子の寝室の鍵の存在は第二の障害だ。これ一枚の開閉を封印されるだけで、絞り出される容疑者が極端に少なくなる。自然と疑いの目は家人らによる犯行が濃厚となってくる。しかし、そう仮設すると、問題が浮上する。

「渡会邸の人間の中には、嘘をついている奴が隠れている、か……犯行動機がなんであるのかをよく考えた方がいいのかもしれない。トリック云々を解こうとするよりは……」

「トリックね。そんなものあるのかしら?」

「随分と意味深長に聞こえるけど?」

「シンプルに考えなさいよ。渡会邸の動向を窺いながら、あなたはあなたが本来果たすべき役割を演じればいいのよ」

「それは、」――つまるところ、赫崎恭个のやるべきことに変わりはない。繭子が誘拐された状況を考察する暇があるなら、あるいは、そこから犯人を見出そうとするよりかは、探偵本来の形を全うすればいいだけのこと。伊折の僅かに含みのある言い方は気になるけれども、恭个の基本方針を示すことで、煩雑さを除外しようという魂胆は理解できる。

「レトリックを弄してまでトリックを説く必要もなければ、渡会邸の人間関係に潜む影を暴いてまで犯人を特定する必要もない。言ったじゃない? 渡会の女当主はあなたの霊感的気質を最も必要とした」

 もとより相手を見誤ってはいけない、という警句。魅了の力という神聖を相手に常人的な思考回路は不要。

「なるほどね。きみに指摘してもらわないと、迷走してしまうようだ」

 不甲斐ないと思い込む時期はとっくに越えている。この一年間ほどで伊折との絆はそれなりに深まっている。だから、相棒であり同居人なわけで。

「男を魅了する巫女というならば、必然町のどこかでそれと目立つ事象が発生する可能性の方が期待できるってものでしょ?」

「きみの言うことは――」

 正しい。と咽喉の奥に押し込むようにして言葉を呑み込んだ。霊的気質とやらはどうであれ、恭个自身幽霊を見れば気絶をする。忽然と火を発生させることができる。立派な超常の存在だろう。ならば相手にとっても同じように言える。ただその超常現象の発生に注意を向けていれば必然的に渡会繭子はそこに存在するだろう、と。

 眠りの気怠さが濃厚になってきた頃合い。流石に、この場はお開きになる。果たして心地よい眠りに入れるか解らない。

「今夜は一緒に寝ない?」

 あ、ちょっと子供っぽい言い方になってしまった。

「まあ、今日ぐらいならいいわよ」

 気まぐれな伊折の思いがけない答えに、かっ、と血流が活性化する。いやいや、これから眠ろうって人間の生理反応ではないだろ。くっくっ、と皮肉に唇を歪めながら。それでも、自意識の及ばない脳の領域では繭子のことが離れなくなっていた。

 夜はまだまだ明ける気配を帯びていない。より濃密な澱みのうねりが脳みそを揺さ振っていく。

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