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「ここまでで何か質問はあるかな?」

 火照り始めた頭を冷やす冷水は思いのほか美味しかった。嫌な話であることを自覚していたから、酔いの勢いで話尽くしてしまおうと考えていたけど、こういう時に限って上手い具合に酒が回らない。冷めた料理の味気ないこと。クルミの殻を割ると覗き出る脳みそみたいな深い皺。目に入る総てが色彩を失い灰色に仄めく。

「別にこれと言って感想はないわ。いいから話を続けて」

 言ってから伊折は冷えてしまったアヒージョを温め直すとパスタと絡めて主食を作って持ってくる。再び広がるニンニクとオリーブオイルの香りに胃袋が唸り声を上げる。実は、それなりに腹の空いていた恭个にはこれが有難かった。固めにゆでられたパスタの重みは、酒を飲むより神経が弛緩するようだった。

「まあ、今までの話は前提条件であって、繭子失踪当時を説明するものではないか。するとここからが、本来私たちが考えなくてはいけない肝心な部分になるね」

 口元を拭い炭酸水で口中を洗い流す。うん。今夜はもう、アルコールはいらないな。心の内ではそう誓いながらも、休む間もなく杯を干していく伊折の手前、格好がつかない。ここで流されてはいけない。彼女に続けば翌朝は悲惨なことになる……。黙って、炭酸の弾ける感触を愉しもう。

「事件当夜の邸宅内の人間。彼女らの行動は順を追って説明することはできる。だけど、それは彼女らのアリバイを厳密には証明できない。起こってしまったことを恣意的にしか考察できない、事件が起きた渡会邸の在所は、ある種、陸の孤島だからね」

「そういう意味で言うなら、誰でもが容疑者たり得るし、誰でもが共犯者になれる、と?」

「というより、外部の人間はその空間内での可能性をいくらでも愉しめるっていうのかな……。うん。まずは時系列順に追っていこうか」

 日時は金曜日、夕食を繭子の寝室に配膳したとき。この時、近衛静は繭子の所在を確認している。時刻にすると……正確ではないが、十八時から十八時半の間頃か。そもそも、繭子の寝室には母である加澄子と常時邸宅内で使用人を務める近衛静だけが立ち入りを許されている。

「わざわざ因習に倣う必要もないけど、繭子の寝室とは一種の神域だね。ああ、近衛嬢はほとんど身内みたいなものだ。幼少期の頃の繭子の面倒も見ていたようだし」

「ああ。綺麗な方だったわね。近衛嬢だなんて。実際、そんな年齢でもないでしょうに」

「そこ、突っつくところかな?」

 これは、伊折なりのやきもちと受け取っておこう。役得というわけだ。

 時刻が二十時を回ると、邸宅本邸に存した使用人三名が、狩野十文の運転するワゴンで帰宅。内一名はその日が最後の務めだったと近衛は語った。名前は空蝉モカ(うつせみ もか)。彼女は邸宅を後にする都合で大きめのトランクケースを持参していたそうだ。

「普段勤めの使用人には部屋が割り当てられているのよね? 月曜から金曜、実質四日間は寝食を邸宅で取るのだから、荷物の片づけが必要だった、てことね」

「まあ、そうなる。私が重要だと感じたのはこのトランクケースなんだけどね」

「? ああ、そういうこと」

「察しがいい。でもその前に、時系列を一通り上げてから議論しよう」

「ええ」

 使用人の帰宅する二十時までの間に繭子は二度ほど所在を確認されている。入浴と寝支度だろう。これも、近衛ただ一人による確認になる。二十時以降になると近衛は祖母の清美子の寝支度を整える。この日はラウンジで加澄子と清美子が揃ってお茶を飲んでいたらしい。あくまで当人たちの言ゆえに〝らしい〟としか言いようがない。

「この時点で、考えられる容疑者は五名+xだ」

「使用人三名と狩野夫婦、それと外部からの侵入者」

「そうだ」

 しかし、加澄子のルーティンとして繭子の寝室の施錠がある。彼女は毎夜毎朝、決まった時間に部屋を施錠する。夜の二十一時から翌朝の七時。この時間は必ず守られている。繭子の寝室の鍵を所有しているのは当主である加澄子のみ。どのような事情があろうと、貸与することはない。たとえ、ごく身近な近衛や清美子であっても。

 つまるところ、二十一時の時点で繭子は寝室に存在したのである。

「これは、加澄子の強迫観念だが、彼女は繭子の歌を兎角恐れている。畏れ、に近い感情かもしれない。この繭子の歌が聴こえると、加澄子は部屋の中を検めないらしい。その場を速やかに退去するために施錠を確認すると耳を塞いで離れを後にするそうだ」

「ということは、何かしらの細工が施されていない限りは、まだこの時は、繭子は邸宅内に居た、てことになる」

「まあね。これだけ視ると、そこかしこに繭子をさらう綻びが存在するのだけど……」

 そして、翌土曜日の七時に繭子の寝室の扉は開錠される。加澄子はこの時、室内をほんの少し伺った。ベッドのそこにシーツの盛り上がりを確かに見たという。

「また、随分と弱い根拠ね」

「それだけ、娘の気質に怯えているのかもしれない」

「実の娘に対してそこまで恐れるだなんて……」

「憐れだって感じる? 困ったことに、私はどうもそうは思えない……それはともかく、その後、朝食を配膳する近衛嬢が繭子の寝室に入室すると、そこに繭子の姿はなかったのさ」

 丸一日を費やして、邸宅内を捜索するも空しく繭子が見つかることはなかった。事の重大性に即気付いた加澄子が求めたのは探偵、それも女性に限る。櫻見町の情報を把握している彼女は、恭个の事務所の取り扱う仕事の性質を伝え聞いていたという。よって、時刻は夕刻十六時弱、土曜日のことである。近衛静が使いに訪れたという次第。

「驚くほど手際がいいのね。判断力というか。対応が早すぎて不気味」

「あらかじめこういったケースを考慮してたか……やはり、娘の、繭子の気質というものの危うさをよく理解してるんだろ」

 とまあ、繭子失踪の経緯を時系列で追っていくと以上のことが視える。

 しかつめらしい表情を浮かべた恭个は煙草を片手に嘯く。

「伊折に質問したい。この状況から果たして犯人はどのような方法を弄して渡会邸から繭子を連れ去ったのか? この悩める私にご教示願いたい」

 霞んだ煙が吐き出されて食卓の上をしばし漂った。

 

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