2‐3


 この建物は不確かに傾いている。根拠はなかった。しかし、体感的に恭个の身体はその差異を知覚していた。更に、照明と音の響き方の効果が絶妙に神経を狂わせるようでもあった。

 渡会繭子(わたらい まゆこ)の寝室を見ておく必要があると、近衛によって邸宅の離れに案内された。

 離れに到着するまでに、加澄子の母、いまは隠居の身となった清美子(きよみこ)と遭遇した。この老婦人は音も無く恭个の背後にすり寄り、彼女の肝を冷やした。

「あの子は、かわいそうだね」

 しゃなりとした艶めかしさの垣間見える挙動が、どこか幽霊画から抜け出てきたのではないかと想像させる。加澄子と相似形を成している相貌には深い皺が目立つ。それが、ぞっ、とするほどの美しさを誇張しているのは見ていて歪だ。美醜が共生している。まったく相容れない観念を一緒くたにして、均衡を保っていることで既存の認識に錯誤が生じてより深く、より強く、怖気によって下腹部に鉛のような重みを感じさせた。

「あの子は、かわいそうだね」

 言っている意味は解らない。何かを伝えようとする意図すら感じない。ただ、忘我状態で邸宅内を徘徊しているだけだ。

「救われるなら、そっとしておいておやり」

 現れた時と同じで、言葉の意味を計っている間に、清美子の姿は消えていた。まるで、初めからそこには誰もいなかったかのように。暗い照明に溶け込む廊下の中で足音だけが、規則正しい音を立てていた。かつ、かつ、という一定のテンポを保った音が上に下に反響しているうち、脳は蕩けて甘い痺れを生み出していた。

 アーケードになった外廊下を渡って六角形を成す離れに到着したときには完全に陽は沈み、月明かりの寂しげな光が暗い空にぽっかり穴をあけていた。

 もとはゲストハウスとして機能していたと聞く。外廊下から続く離れの扉を潜ると、建物中央へと導かれる。そこは六角形の吹き抜けになっており、見上げる高さにシャンデリアが吊るされている。直接灯りを取っているのは、ぐるりと壁に設置されているガス灯に似た照明で、ぼんやりと建物内が見渡せる。各部屋はそれぞれ内壁と外壁の六角形に収まる様に一階と二階で十部屋用意されている(一階の部屋数は出入り口と階段部分を引いて四部屋になっている)。丁度、丸いドーナツを均等に切り分けると離れと同じ構造になる。

 本館以上に見通しの悪い空間に、ぐにゃり、と恭个は脳みその震えを感覚する。目を凝らしても別の影が上から重なっているように見えて気持ちが悪い。近衛にとっては日常の様子で目も眩む淡い照明の中でも均衡を保っている。

 繭子の寝室は二階にある。

 どうにも気の乗らない恭个はさっさと済ませたくて二階を目指すが、その直前に、隠れるようにして地下へと続く階段を目にしてしまった。厳重に縛されているにも拘らずそう考えたのは、偶然にも首筋を風が流れていったからだった。わざと物を積み上げて見えにくくしているということは、離れの地下室とは渡会の家ではタブー視されているのか。

「赫崎様には隠す必要はないと考えますが、私たちにも可能であれば秘密にしておきたい事実というものはございます」

「……それも、敢えて警察を頼らない要因の一つですか」

 近衛はぴくりと眉根を吊り上げる。

「あ、あの、訊き方が悪かったですね」

 恭个は慌てて言い繕おうとする。僅かに顔を歪ませただけとはいえ、近衛にその様に見られると動揺が隠しきれない。時間が経っても苦手意識はなかなか薄れない。

「いえ……赫崎様の仰る通りなのです。渡会の家には色々と、明るみにされたくない事実というものがございます」

「ですが、関係のないものを嗅ぎ回るようなことは私には許されていない」

 少し間があったのち近衛は言った。

「赫崎様には知っていただいても構わないのではないか? そんな風に思ったのです」

 それが私の動揺なのです、と彼女は背筋を正した。

 そこは今は使われなくなった座敷牢なのだという。

「ゲストハウス内に座敷牢ですか……」

「奇妙なのは重々承知しております。ですので、便宜上そこは奥座敷と呼ばれておりました」

 ああ、なるほど。恭个にはその言葉で瞬時に答えに行きついた。それは確かに公けにはしにくい。というよりも、渡会の家の汚点になる。まさに、暴かなくてもいい事実。繭子の性質に通じる部分はあれど、わざわざ知る必要もないことだと思う。

「忌むべき習慣と嗤いになられますか?」

「嗤うだなんて、決して――」

 神憑りと奥座敷。この離れが客室として機能していたこと。五感を狂わす建物の造り。天女を祀っている祠。つまり、それらは渡会家を繁栄させたシステムに通じる原理なのだろう。……おそらく、俗世ではさぞ恨まれたに違いない。いや、その憎しみという感情すら喰い散らかしてきたのか。

「邪推して得をすることなんて、たかが知れています」

 己の知的好奇心を満たすだけの傲慢な考えは持ち合わせていない。必要な時必要な量の情報を開示すればいい。繭子失踪に関わりのあることなら致し方ないが、現状、その秘密を明るみにすることに何の意味もない。心にとどめておきます、とだけ伝えて恭个は繭子の寝室に通じる階段を上っていく。


 繭子の寝室を閉ざす扉には細工が施されていた。それは外側からのみ鍵が掛けられるというものだ。内側には閂を上げ下げする金具も無ければ、鍵穴すら存在しない。つまり、外から施錠されると再び鍵を開けるまで繭子は外に出ることが叶わないのである。

 しかし、それほど厳重に閉じ込めておく必要があるのか?

「奥様はある種の強迫観念に囚われ、必要以上に繭子様を恐れている節がございます……」

「そんなこと、私なんかにしゃべってしまっていいものですか?」

「現に、事実でございます。奥様のお許しも出ております」

「まあ、そう仰るなら。私も気にしませんが……」

 決して、邸内を一人好き勝手歩くことも叶わない身の娘であれ、その性質がもたらしてきた数々の忌むべき行為の反復。加澄子の記憶はそれを彼女に追体験させる。今だからこそ、世間から離れて生活する身となっても、その時の記憶を上書きすることができないで苦しんでいる。あの憂鬱に沈む姿はすでに生きる意味を失いつつある斜陽なのだと理解する。

 部屋自体はこれといって不審な点はない。室内に一周目を巡らせて気になったのは場に不釣り合いに感じられる一枚の絵画だった。

 如何にしてこの姿を幻視したのか。その奇怪極まる姿態には作者の思想が多分に含まれていると見えた。複雑混淆とする想念が形を得たものなら、あるいは天使と崇めることすら可能かもしれない異形。

「繭子様がとても気に入っておりました。繭子様はご自身を重ねて見ていたのかもしれません。……あれは確か、辻道の河津桜を庇(ひさし)に筆を執っていた絵描きから購入したものだったかと記憶しております」

 遠く、遥かな時間を遡っているのか、近衛の両眼には回顧的な色が滲んでいた。確かに、

美しい絵である。だから、思い出を介すことで、よりその絵に対する印象も異なるのだろう。しかし、事情の異なる恭个にしてみれば、その美しさは毒と作用し、薄気味の悪い予感に、ぞっ、とするのだった。

「この絵がどうかされましたか?」

 じっ、と黙り込む恭个は不審げに目配せする近衛に、「いえ、こちらのことですから……」と言葉を濁すのみにとどめた。この、なぜか恐ろしいのに目が離せない矛盾した感情を吐き出すことは困難だった。

「私には、とても恐ろしい絵に見えて仕方がない」消え入りそうな声は近衛には届かなかったはずだ。

 それは、キャンバス地に写実的に描かれた暗い色調の妖鳥だった。姿態はしなやか。透き通る肌は艶めかしい。妖鳥は臨月を迎えている。その膨れた胎を抱えて麗らかな旋律を歌うに違いない。慈愛とか包容力とかいった類の女性性を、柔軟な微笑みによって表現している。とはいえ、その笑みにはどうにもいやらしい感情を喚起する何かが秘められているようだった。

 何が不安か? それは妖鳥の顔立ちにあった。とてもよく似ていたのである。まるで正反対の優し気な眼差しでありながらも、あの屋敷から外に出ることの叶わない辛辣な同居人に……。

 その時、恭个の耳には確かな旋律が鳴り響いていた。細く、儚いにもかかわらず脳髄に深く突き刺さる音色。気のせいだと考えた。だが、気のせいでは済ませられない。

 解放された両開きの窓からバルコニーに出る。

 月は驚くほど大きく、狂気的な光が暗闇を制していた。風が吹き込む。柔らかい、前面から抱擁するような愛おしい風。光にひらめくものがあった。それが高く、なお高く、闇夜を舞い上がる。重力を無視して上昇するほの白い影。

 歌を聴いた。聴き覚えのある麗らかな旋律。月明かりを背後に、異形の幻影が、その姿に似つかわしくない子守歌を唄う。

 とろとろに、蕩けきった脳みそは沸騰せんばかりの熱で幻惑する。歓喜の熱は脊髄を下って四肢を循環し、女たる証を官能の底に沈める。ねっとり、と滴る汁液はしどけなく腿の内側を濡らしていった。本能的な原初の悦びに全身は甘美な痺れに包まれる。悦びに笑みする。吊り上がった唇の端からすべてが解放されていく。身体は不要。五感を統べる精神に身を委ねよう。意識ごと、落下しよう――

「あぶない!」

 恭个の意識が、再び認識したのは切り立った岸壁の無慈悲で剣呑な岩肌だった。バルコニーから落下する寸前で、近衛に助けられたのだ。その近衛の整った相貌は真っ青に染まっていた。遅れて、恭个は腰を抜かしてその場に崩れ落ちる。

 高い。怖ろしい。月の光が気を狂わせる。死に近づいた心細さが震えとなって返ってきた。

 異形に魅入られた。あるはずのない幻影に誘い出された。渡会邸に張り巡らされた暗示に意識を乗っ取られたのか? 決定的だったのは背後で微笑んでいるだろう妖鳥の絵画。あの絵はよくない。理性ではなく本能がそれを訴えていた。

 しばらくは立ち上がれないかもしれない。こんな遅くに家に帰るなんて伊折に迷惑だよな。どんな顔されてもいいから早く戻って伊折に抱き着きたいな。そんな愛おしさが込み上げてくると、こんな処からはさっさと出ていきたい衝動に襲われた。ホームシックに陥った幼い子供のように、腕を抱いて丸く蹲った。落ちたら死ぬよな。こんな、牙を剥いた怪物の顎みたいな崖から転げ落ちたら、絶対に助からないだろうな。もっと近づいたら、この程度の警告では済ませられないだろうな。

 死ぬのは怖い。しかし、その死の汀(みぎわ)まで近づかなければ、どうにも捕まえられないような気がした。

 月が大きいと感じたのは錯覚だった。歌を聴いた気がしたのは記憶が引きずり出した過去の蓄積だった。異形の姿なんて影も形も存在しなかった。

 ぜんぶ気のせいのはずなのに。気持ちの悪い話を聞きすぎたからだ。この時ほど、自ら発する炎に縋りつきたいと思った瞬間はなかった。

 恭个の予感は不穏なものの軌跡を辿ろうとした。

 自分は、なにか決定的によくないものをこの邸宅内から解き放ってしまったのではないか。

 月の裏側まで見通せるように、じっ、と異形の飛び去った後の夜闇(やあん)を見つめていた。そこに不審なものはなにもない。

 暗い空だとばかり思っていたが、月の光に慣れた目は、次々に星を映し出し始めていた。

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