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 事は数日遡る――。

 もう間もなく日も暮れようという空には薄い雲がたなびく。地平線を鮮血に染めるような赤の支配を、雲間から零れ落ちそうな藍の空がその支配権を奪うべく呑み込もうとしている。

 窓外を清涼と流れる天人川(てんじんがわ)の対岸に聳える崖はのこぎり歯の如き岩肌を有し、一見なだらかな印象の岸壁をおそろしく剣呑な様相に仕立て上げている。間違いなく崖上から滑落すれば命はない。最後に、川辺に転がり落ちるのは、逆立つ岩肌に切り刻まれた四肢をばら撒いた惨たらしい姿になるのではないだろうか。

 そのローレライの岩山にも例えられそうな厳格な崖の際には古城を模したゴシック建築といった佇まいの邸宅が臨んでいた。月光でも背に拝せば瞬く間にここが日本の只中であることを忘れそうな静謐さは、恭个の美意識を錯覚させるに十分な異様に満ちていた。

 ほとんど揺れを感じさせない車中で微睡みを覚え始めていたことなど忘れて、一画を象徴的に抜き取った絵画のような光景に目を見張った。

「もう間もなく到着しますので辛抱ください」

 ミラーで常に監視されていたのか恭个のそんな様子に、依頼者の下で使用人を務める近衛静(このえ しずか)が耳触りの良い柔らかな声を発する。

「いえ、まったく。町の名士とは聞いていましたが、これほどのものとは……。正直驚きました」

 この、夕日に紛れて現れた近衛静という人間は『赫崎相談事務所』の戸を叩いた瞬間から一貫して物腰の柔らかな女中といった印象を裏切ることはなかった。

 車は緩やかな速度を保ったまま、天人川にかかる橋を渡っていく。ここからさらに、迂回しながら崖の先端に見える邸宅へと向かっていく。

「丁度岬のように突き出した丘の先端に私たちがお世話になっているお屋敷はございます。……立地上、町からは孤立していますから、車なしでは不便なのが困りものです」

 段々と樹木の濃くなっていく一本道を、あまり速度を感じさせない近衛の操る黒塗りの車は流れのように進んでいく。その心地よさが、再びの睡魔を招く。眠気を追いやる意味も込め、細くなる両目を見開き窓からの景色に集中した。

「この辺りの植物ってもしかして?」

「ええ、この辺りに植わっている高木は大方桜の木でございます」

 邸宅のある地形が前頭葉とするなら、私の事務所の位置は側頭葉か。またしても恭个は直観的に脳みそを連想する。

 風光明媚とはいえ、この徹底された櫻見町の桜への拘りはどこか薄気味悪さすら漂う。自身の内面を探られないよう注意し、思わずため息が漏れたように恭个は装った。どうもこの使用人には内面を悟られたくはなかった。

 どうせ、あなた好みの聡明さを兼ね備えた美形だからでは? 伊折の非難に満ち満ちた相貌が目に浮かぶ。正直否定はできないが、自分でも近衛に見つめられる事をどうして嫌うか理解しかねた。

 彼女の前で格好つけたいのか? そんな体面に拘りはない。やはり気のせいか……。

 やがて、車の正面に城壁を彷彿とさせる大きな門扉が姿を現した。脇には使用人用の潜り戸があり、敷地内にはこれまた古風な建物が目につく。

「あちらは守衛小屋になっております。そこで狩野(かりの)という夫妻が住み込みで敷地内を管理しています」

 守衛小屋から遠隔操作で門が開いていく。外の様子はカメラか何かで把握されているのだろう。車は煉瓦造りのアーチを潜り、さらに舗装された道を進む。

「あの小さな祠はなんです?」

「天女の伝説は御存じで?」

「ええ、まあ……。つまり、その天女を祀っているということですか」

「そうなります。渡会(わたらい)家の縁起に関係あるものですが、些か入り組んでおりまして一口には説明いたしかねます」

 あまり詮索してはいけないのか。やんわり、とした口調の中にもはっきりとした拒絶の色が垣間見える。管理は行き届いているようで、木造りの小さな社は丁寧に清められ、花立ての二輪の百合は、今朝活けられたばかりのようで花弁が瑞々しく肉厚だ。邸宅の奥ではなく、正門脇の、それも下手すると見落とし兼ねない位置に祠を建てることに違和感を覚えるが。縁起というならもっと手厚く祀り上げられるのではないか? まあ、詮索するなと言われればそれに従う他ない。所詮は探偵風情。あれもこれもと詳らかにする必要はないわけだ。

 車はその場から速やかに去っていく。その時ばかりはやや運転が荒かったように思えた。

 そうしてようやく、邸宅の正面玄関に辿り着く。車回しは噴水を囲っているが、今はその水は涸れている。

 慇懃な姿勢で近衛がポーチの扉を開く。邸内から、むわり、と古びた木材の香りが匂ってくる。不快感はない。その穏やかな空気が胸の内をぼんやりと満たす。

「ようこそいらっしゃいました、赫崎様。奥で、主がお待ちになっております」

 ここは渡会邸。櫻見町の大地主ともいえる渡会加澄子(わたらい かすみこ)の所有する大邸宅であり、恭个を不可解な事件へと誘う依頼主の住居である。


 邸宅に馴染みの甲冑の騎士といった装飾品は目につかない。限りなく装飾品を排したホールで、趣味を施した排他的な空間に陥るよりはよっぽどいい。知らず気を張っていたようで、恭个の肩からこわばりが消えていく。どうも、恭个の脳裏にあった勝手なビジョンが彼女に無意識のストレスを与えていたようだ。

 両翼に展開されたサーキュラー階段などは大邸宅にふさわしい構造なのだろう。足音を消す厚い絨毯の踏み心地に陶酔としながら一段一段上がっていく。それとは別に、栄華を極めた往年を惜しむような寂しさを、撫ぜる手摺から恭个は読み取っていた。

 ふと、先を歩む近衛に対し違和感を覚えた。応接間は一階にあるのではないか。それを無視して回廊を回り、おそらくプライベートな空間へと続く扉を潜っていく。どう考えても私なんかが簡単に立ち入っていい領域ではない。直観的に、それ相応の面倒ごとが待っていることを予感し暗澹となる。

 そもそも、突然町の資産家の下まで連れてこられることに何の疑問も抱かなかったわけではないのだ。恭个の嗅覚は明晰と厄介ごとを嗅ぎ取っていた。自然な流れを演出したのはこの近衛という女によるものだ。だから、彼女を警戒しているのか?

「赫崎さま、どうぞこちらへ――」

 はっきりとした違和感。瞬間まで、近衛に対する警戒心と誤解していた。はっきりとした嫌な予感。

「待ってください! その扉は開けないでもらえませんか? どこかべつの……そうだ! 隣の部屋ではどうでしょうか?」

 訳の分からないことを言っているのは承知の上で。この際の言動をどう思われようと構いはしない。そんなことはどうとでも繕える。ただし、この全身に駆け巡るひりついた痺れは、よくない。

 恭个を招き入れようとした部屋の中には何かがいる。当主の渡会加澄子か。そうではない、きっと人外……霊的な存在感を敏感に感じ取ったからだ。

「あ、あの……」

 すると、ふっ、と息を吐く近衛は僅かの躊躇いもなく隣の扉を指し示した。その顔には確信めいた微笑が張り付いていた。

「では、こちらへ」

 今度こそ扉は開かれ、書斎と思しき部屋へと案内された。


 加澄子は長椅子にしな垂れかかり憂鬱そうな双眸で恭个を捉えた。どこか白蛇を彷彿させるしなやかさと強靭さを兼ね備えた美貌の持ち主だった。

 肌が透けて見えそうなワンピースの上に黒いガウンを羽織っている。どうも来客用ではない装いに見える。とはいえ、そこにふしだらさを見て取ることはできなかった。むしろ、それが自然であることを否応なしに認識させる。要するに格というものが違うのだろう。

 面食らったのはそれだけではない。狼狽える恭个の前で咄嗟に案内された部屋を替えたにもかかわらず、そこに当主である加澄子が現れたことにしばし茫然としていた。近衛を窺い、再び加澄子へと向かう。

「突然の呼び出しに応じていただき感謝いたします」

 そして、自分が試されたことに気が付いた。

「頭も切れるようでなにより」

 不躾な物言いにもどこか品が感じられ不快感はない。声、だろうか――他者を納得させる力が宿っているように感じる。

「私を試したのですね? それも、私の性質をよく理解しているうえで」

「ええ、そうですね。半信半疑。あまり信じてはおりませんでしたが、多少は素質があるようですね」

「素質、ですか」

 苦々しい笑みが零れる。どうやら恭个の霊感を知っている。

「なるほど。ご依頼されたい案件は、そういう類の現象が伴うことになるのですね」

 恭个は注意深く訊ねた。呑み込みの早いことは美徳ですね、と加澄子は鷹揚に応える。間を見計らい一度、席を外していた近衛が再び入室すると、ほっ、と安堵をもたらす香りが室内を満たした。どうやら、お茶を淹れてきたようだ。

 薄く赤みを帯びる小麦色の液体の揺れるカップに口を付ける。酸味と苦み、ほんの僅かな香ばしさを堪能する。鼻を抜けていく温もりが心地よい。

「隣の部屋は曰くつきでしたか?」

「さあ。曰くつきと言えばそうですが。今回の件には関係ありません。ああ、あの部屋は少し前に主人が首を吊ったのです」

 その淡白な物言いからは、未練は感じられない。単なる記録として羅列される項目の一つを口ずさんだだけの事務的なやり取りと恭个は捉える。

 見る限り、気怠い様子で長椅子にもたれ掛かる婦人からは、その手の話を信じ切っているといった感情は読み取れない。半信半疑、と言っていた。だから、そういう立ち位置を守っているのだろう。

「たとえ、あの部屋に主人の怨念が宿っていようと、私があの部屋に立ち入ることはありませんから。もし、霊感というものを有する人間がいるのだとすれば、部屋に立ち入る前に察するのではないか? その程度の認識です」

 確かにあの扉の向こうには何かがいた。加澄子が言う夫が自殺した部屋というならば、首を括ったその人を恭个は目撃していただろう。そして、間髪入れることなく無様に気を失ったに違いない。

 まったく、さらりと嫌なことを言う。恭个が加澄子に抱いた印象は好ましいものではあった。ありのままの現実を受け入れる姿勢。それは嫌いではなかった。とはいえ、だからと言って恭个と同じような感性でものを語っているわけではない。加澄子には彼女なりの真理があり、それに沿っているに過ぎない。そして、それを理解することは難しい。

「赫崎……ええと、恭个さん。あなた、神憑りってご存じかしら?」

「神憑りですか」

 唐突、というわけでもないのか。可能性として十分にあり得る。大きな繁栄を築いた旧家ならではの曰くつきと言ったら、想像するに憑き物筋や神憑りといった怪現象が憑き纏いそうなものだ。古臭い考えというほどのものでもない。ただ、そういう時代を生きてきたという、真に理にかなった筋ととらえることのほうが遥かに考えられやすい。

 財を成すのに堅気な方法が取られることなどほとんどないのも事実。法に触れないレベルにしろ……そこには歴然と喰い殺される人間が存在する。そういう後ろ暗さが、人々の間を伝播し拡散していく。その過程で、あまりに理解しがたい認識が混ざり込むと、噂に違わぬ民俗が絡みつき心身を縛するシステムが構築される。

 より、この世ならざるものを信じていた時代から続く家柄ともなれば尚更。憑き物、神憑りとはその家の持つ長い歴史そのものであり、代えがたい真実というわけだ。

 民衆の間で交わされる伝承が、現実を喰い破ることは、ままあり得ることの証左と言えよう。

「まあ、認識として把握はしています」

 現実を知っていると! 思いのほか加澄子には面白く感じられたのだろう。恭个の実体験のみに語られる神憑りという現象に興味があるのかもしれない。

「神憑り然り、憑き物然り。それらはとても特殊な状況下で顕現する現象。まあ所謂、トランス状態、瞑想状態、催眠状態、それら普段時と異なる脳の状態――変性意識状態である、という現実的な捉え方もあるでしょう。凡その怪異現象などはこの不可知の領域たる潜在意識に光を当てることで解けるものだと捉えています。私自身、実践として催眠などは既知の概念です。しかし、渡会様が仰りたいのはそういう事ではないのでしょう?」

「本当、話が早くて助かります」

 渡会様だなんて、堅苦しい。加澄子とお呼びください、と気怠い印象だった声質に変化が見えた。いきなり本題に切り出すのだろう。身構えるより、ここは軽くあしらえる程度の心持の方が加澄子相手には丁度いいのかもしれない。

「娘が、私の一人娘が何者かによって誘拐されました」

 直截的かつ実際的。とはいえ、今までの話の流れを汲むならば、あまりに現実的な問題だった。しかし、ならばなぜ恭个は召喚されたのか。

「それは、警察に頼った方がよろしいのでは?」

 加澄子は、ちろり、と舌先で艶然と笑むと否と唱える。

「確かにその通りです。しかし、警察では都合が悪い」

「ええ、まあ、そうなるのでしょう」

 だから、恭个のような人種に声が掛かった。道理だろう。理解は可能だ。ならば、先ほどまでのやり取りはどう意味するのか? 勿論、それに対する答えもすでに見えている。

「この邸宅、人が少ないでしょう? 大きい割に気配が薄い。案外、人の作り出す物音は、敏感に感じ取れるものです」

 邸宅内の人員は最小限に。男は決して近づけさせない。使用人含め邸宅内に居住しているものは女のみであり、守衛小屋を任されている狩野老父は邸宅に近づくことを許されていない。徹底した規律が加澄子の娘を中心に形成されているのだと、気焔めいた呼気を吐き出す加澄子に、特にその忙しく蠢く舌先に見惚れる恭个の意識が、とろり、と溶け落ちてしまいそうになる。

「……それが神憑りに関係がある、と?」

 妖しく蠕動する粘膜は瑞々しくも熱い。恭个が適任者であったという確信がそうさせるのか、加澄子自身ある種の霊感を宿しているのか。どちらとも。どうとも。それらが解らなくとも恭个の認識が揺らぐことがなかったのは、まだ、加澄子が人の域を脱していないから。 

「娘の気質は異常です。娘と申しましても、すでに私の認識ではその範疇を逸脱しています。だから、警察は無力。ゆえに、あなたのような特別な存在でないと対処のしようがない。そのように考えておりました」

 にんまり微笑む加澄子から発散した熱は幻だったに違いない。現に、目の前には気怠く憂鬱な双眸を認めるに過ぎなかったから。

「まったく、一筋縄ではいかないようですね」

 きっと、複雑な表情を作っていたはずだ。目尻から頬にかけて強張っていたことを自覚していた。虚勢を張る必要もないだろうが、この場で恭个が選択する言葉は一つしかなかった。

「私なんかでよろしければ、この調査を引き受けましょう」

 主観的な知覚。それだけが、恭个の信じる唯一絶対の現実だった。

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