2-1

 二、はじまりの邸へ


 ……、……、……。


「あかい、天女の、桜。首を吊る男……地獄……か」

 恭个の口からこぼれ落ちた言葉。いまだ、霞のように実像を結ぶことのない譫言に意味はない。やがて、軽い譫妄状態から現実へと恢復した恭个は、後頭部に心地よく冷たい弾力を感じ始めた。

 自身が気絶していたことを自覚し、瞼の裏に地獄というものを夢想してみた。それは恐ろしさよりも、畏敬の念によって構築された幻想郷に近かった。

「気が付いたのなら、さっさと退いてくれないかしら。結構重いんだから」

 閉じた瞼の上からひどく冷淡な響きを持つ言葉が降ってきた。今では助手兼、同居人の伊折のものである。

「とても気持ちがいいんだ。もうすこしだけ、このままで」

 奇妙と感じながらも確かにそこには人肌の持つ温もりを感じられた。他者との相違をクオリアなどと言う言葉で一括りにしたくはない。伊折を感じる感覚が恭个にのみ具わった性質だとしても、肉体に触れた時に訪れる相対性は生のリアルを体現している。

「まったく……。ここで気絶をするのは何回目よ」

 嘆息交じりに恭个の頬に触れられた手は、やはり少し冷たい。

「ああ、あそこの桜の木が満開になった。少女が戯れに踊っていたな」

 恭个は身も凍るような性質の声に頓着することなく、陶然とした趣で先ほどの光景を思い出した。

「桜は咲いていない。少女なんて……存在しない」

 この心地よさに抱かれて再び気を失ってもよかった。仮に永遠に眠りにつくことになっても後悔はないだろう。脱力しきった肢体に活力を入れるのは億劫だ。非難にもとれる冷たさのこもった溜息は瞼の上をなぞって頬を流れ落ちていった。

 少し間があってから恭个は目を開いた。

「そうだね。開花時期はまだ先だ。花開く瞬間に焦がれて少女も迷い出てきたのかもしれない」

 他人を射竦めるには十分な怜悧なまなざしが恭个の顔を覗き込んでいた。その目の輪郭は鋭く、すべてがそこへと収斂している。恭个にとってそれは好ましい美の一形態であり、伊折の黒一色に統一された姿をより引き立たせている。そして、冷然とした態度は表向きの印象に過ぎないことを恭个はよく知っていた。

「また、幽霊を見たのね」

 その通り、と名残惜しいが恭个は伊折の膝の上から頭を持ち上げて答えた。

「なにか温かいものが食べたいな」

 どこかに置いたはずの煙草のケースを探りながら、肌寒さを感じていた。そう長い時間気絶していたとは思えないが、夢と現実の差異は計りかねた。

「それは構わないけど、先に、あれを見てきて欲しい」

 ん? と首をもたげた恭个はそこに不安の色を読み取った。伊折の視線が一点に注がれていた。

「あの木の下に人がいるみたい」

 普段落ち着いた言葉遣いの伊折には珍しい、無機質な声色だ。よっぽど不快でもない限りそのような声は出さない。恭个にも伝わるほど、その不快感は大きいもののようである。

 化け桜のような光景を目の当たりにした直後で、改めてそこを調べなくてはならないというのは何とも恐ろしいものだが、伊折たっての願いなら無下にはできない。いまの恭个にとって安曇野伊折は特別な存在だった。

 煙草の香りを愉しむのはもう少し後の様だ。どのみち、手元をいくら探ったところであの安っぽい紙箱は見つからないわけだし。

 窓から外の様子をそっと覗いて、恭个は頷き返した。

「うん。確かに、見てきた方が良さそうだね」

 肉体の倦怠感は失せてはいるものの、すっきりとしない頭は重い。やはり一服すませてからの方がよかったか。義務感と自堕落との狭間に頭が揺れる。とはいえ、足は自然と階下へと向かいつつあった。そこに伊折の意外にも刺々しい声が呼び止めた。

「ふざけないで。せめて服ぐらい着てくれないかしら。みっともない」

 それで、恭个は自分が下着姿のままだったことを思い出した。通りで肌寒いわけだ。


 遊歩道の脇に公園というには規模の小さい広場がある。通行人のちょっとした休憩所といった趣のそこにはソメイヨシノが植わっており、その放射状に開いた枝枝に葉が茂る季節には、それを屋根代わりに気持ちのいい木漏れ日が注ぐ空間になるのだろう。樹木の幹のそれぞれには、ぐるりと木材で設えた円形のベンチが囲んでおり、そこに座る人々の名残を縁取るように程よく苔むしていた。

 自分の周りに加工された同類が取り囲んでいる気持ちってどんなものなの? もの言わぬ桜に、下らないジョークを投げかけても答えは返ってこない。

 さて、人数にして四人。右端から順に、女、男、男、女。年代にはばらつきがあるように見える。十代から三十代前半といったところか。なるほど確かにこれは人間だ。

 しかし、四人ともすでに息はない。樹上から長く垂れ下がった縄が、それぞれの首をきつく締め上げているからだ。首吊り。集団自殺だろうか。

 ふむ、と一呼吸入れてから恭个は首を振った。

 いや、首吊りというにはあまりに歪だ、と。

 桜の木に結ばれた縄は彼らの首をきつく縛りあげて死に至らしめた。それは間違いない。だが、それをどう表現していいのか……状況的には不自然で仕方がない。

 彼らは皆一様に地面に膝をついて絶命していた。きつく突っ張った縄。首を縛り上げる輪は彼らの首の半ばまで喰い込んでいる。脳裏を過ったのは縄に繋がれた卑しい畜生の群れだった。

 人為的に引き起こされた殺人とも違うのか。これは、自殺といえるのか。

 背筋を強張らせたのは薄く吹き抜ける北風の為か。身震いし、恭个は努めて冷静に状況を観察することにした。

 まるで、なにかを求めて掴み掛ろうとでもしていたのか、彼らは地に膝を付け、両腕を虚空に突き出している。いや、すでに腕は空しく土の上に垂れている。恭个がそう認識したのは、そう思わせるに十分な気迫のようなものが、この死人たちの中に残留していたから。あまりの凄絶な様に、一体どのような渇望があったのだろうかと想像せずにはいられなかった。

 桜の木に結ばれた縄にはたっぷりと余裕が残されていたはずだ。縄に首を通しても中空で吊るし上げられることはない。犬のリードの様な塩梅だ。桜の木の周囲数メートルは余裕で歩行できるがそれ以上は進めない。縄を引き千切ろうと考えたのか、四人の男女は首に縄がきつく喰い込むのも構わず前に進もうとしていた形跡が見て取れる。

 尋常ではない光景だが、その苦悩と恍惚のない交ぜとなった死に顔は、美術彫刻の相を連想させ、死に瀕するものが浮かべるような悲壮感とは相対する。

 どれほどのものを渇望したらこの様な死を迎えるのだろう。焼け付く業火の中を必死に掻い潜ろうとしたに違いない。しかし、彼らの求めるものには終ぞ、手が届かなかった……。

 これも一種の首吊り自殺といってよいものなのか正直恭个には判断できなかった。付け加えるなら、彼らが縄を括った桜の内一本は、かつて伊折を殺害した男が首を吊っていたものでもある。偶然なのか、意識すると余計なものを呼び寄せそうだったので、そこで思考を停止した。

 再び、恭个は目の前に、だらり、と力尽きている十代半ばほどの女の顔をまじまじと見つめた。

 女の口からは妙な物がはみ出していた。他の、男、男、女にも同様の得体のしれない代物が口からはみ出しているように見える。

 恭个の顔が少女の顔に近づいていく。絶命したショートボブの少女(そう。よく見れば、あどけない少女のような寝顔だった)の目の前に迫る。唇の端からほんの先っぽが突き出た白っぽい棒、それに焦点が定まっていく。やがて、恭个は魅入られた様子でその指先を少女の口の中に無造作に侵入させていった。

 すでに死んでから時間が経っているだろうに。驚くほど、ねっとりとした温かみに指が包まれていく。上唇の感触、上顎の乾いた粘膜の思いのほか滑らかな指心地、だらりと弛緩した舌に至っては官能的な衝動が、ちりちり、と恭个の下腹部を熱くした。

 綺麗な歯並びに舌を這わせたら、どれほどの愉悦に浸れることだろう。

 そのとき、自分の思考に驚き、後退る。目を見開き、周囲に意識を拡大した。……大丈夫。私を見ているのは伊折ただ一人だけだ。他に誰がいる? 誰もこの場に居やしない。

 脊髄を駆け抜けた衝動がなんであったかは定かではないが、ともあれ、少女の口腔内から棒状の物体を抜き取り、恭个はそれを、しげしげ、と眺めてからハンカチに包みジャケットの内ポケットに納めた。

 おそらくは、何かの骨だろうと見当はついていた。それもよく見知ったものに違いない。残る死骸からもその骨を回収しようかどうか数瞬考えてやめた。死んだ少女の口の中に指を入れる仕草は、ある種の官能的な美を表現しているようで気持ちのいいものだったが、男の口の中に指を入れるのはあまりに俗っぽい気がしたからだ。なにより、ファサードのガラス窓越しから伊折の刺し貫くようなまなざしが、恭个の不誠実の瞬間を見咎めてるような気がしてならなかった。

 それにしても、と恭个は考える。これは単純に自殺と片付けていいものなのか? 例えば、何かを見立てた儀式的な殺人行為だったのではないか。

 しかし、それ以上の思考は断ち切った。遂に、空腹に耐えかねた恭个は伊折の下に戻ることにした。人死には警察の領分である。彼女が思い煩うべきことではない。

 朝食は一つの会話もなく済まされた。恭个もそうだが、伊折には特に思うところがあったのだろうと推察された。わざわざ因縁だなどとつまらない推論を展開するほど恭个は無粋ではない。食器が立てるだけの乾ききった響きというのも心地よく、そういった朝だって悪くはなかった。

 この町は刻一刻と変化を始めている。それはいつの頃からだったろう。請け負った仕事の調査を始めてからか。あるいは、恭个がこの地に立ち入ったその時にはすでに始まっていたのか。不吉な予感にナーバスに陥るには、恭个は尋常ではない現象に触れ過ぎてきた。

 気のせいで済ませられれば、よいのだが。根拠のない直観を一蹴するのは簡単だ。しかし、直観が記憶の積み重ねから導き出される一種の予言と知っているから。

 曇天に覆われつつある櫻見の空から幾条かの軌跡が落ちてきたように錯覚した。

 全身を重くするのは行き先の不安などではない。訪れるであろう出来事に対する煩わしさとそれを解きほぐすための労力のためであった。

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