1‐3


 前の住人はほんの数週間で夜逃げしたと聞く。引っ越しで想定される煩わしい作業はほとんどなく、居住が決まった初日から充実した夜を過ごすことができた。うわさに聞くような恐ろしい出来事にも遭遇していない。

 新品同然の家具は夜逃げした一家の置き土産だという。気持ちの悪いようなら処分する、とも不動産屋に言われていたが、真新しい香りの残る寝具やソファー、食器類の収まる棚を処分するには惜しかった。

 ストッカーに納めた酒瓶を眺めながら、今夜はどれを飲むかを真剣に悩む。いくつかの銘柄はそれと解る程度、消費していたが恭个にそれらを開栓した記憶はなかった。酒のあてになるような気の利いた料理があれば申し分なかったが、恭个にとって調理ほど困難な仕事はない。

 グラスに透かした室内を蕩けた氷の中に封じ込めて、ぼんやりとした輪郭を目でなぞる行為。幾何学的な切子の煌めきに封じ込まれた風景は現実と幻の境目にある。内見の時からずっとそれは見えていた気がする。

「最近誰かに見られているようで、落ち着かない……。はは、その気持ちはお互い様かな?」

 とくとく、と琥珀の液体を注ぐ。なんとも涼やかな氷の響きが室内の温度を下げる。一息に呑み込んだ液体が喉を焼き、その熱を十分に堪能し、それならば、と一つグラスを追加した。目の前の存在も……おそらく、いける口のはずだ。

「実はきみのことはずっと見えていた。あまり、人には言えないようなことも含めて……君が私に危害を及ぼす存在かどうか観察していた」

 冷たい色の目をしていた。嫌悪にも似た眼差しに睥睨される。それは、ぞくぞく、とするほど美しいと思ってしまった。

「あはっ、冗談。君はずっと私の目の前に立っていたね。そうやって、睨まないでくれ。仲良くやろう」

 悠然とウェスキーを注いだロックグラスを勧めながら、恭个の眼光は赫赫と瞬く。炎に人を惹きつける何かが在るのだとしたら、彼女の瞳はまさにそれと同じ性質を帯びているようだった。

「あなたは私のことが見えているの? 解っていて見逃していたと?」

 声もまた冷たい印象だった。恭个の注いだ液体を咽喉も鳴らさず一息に飲み干す。実にいい飲みっぷりだ。幽霊とは信じられないほどに。

「ああ、だからそう言った。きみが私に害をなす存在でないか、観察していたと」

「害なんて。そんなこと……」

「でも、事実この家に住んだ人間は瞬く間に立ち退いてしまっている」

「べつに私は大したことはしていないわ。その人たちが臆病だった、それだけのことよ」

「まあ、そういう他ないかな。ここ数日のきみの様子を顧みるに」

 恭个が数日観察したかぎり、黒い衣服に身を包んだ少女らしきそれは、確かに妙な動きを見せることはなかった。ただ無言で佇んでいることがほとんどだった。常に恭个の視界に入り込む形で。だから、話しかけようと思えばいつでも漆黒の少女に声をかけることはできた。しかし、恭个はすぐにはそうしなかった。

 理由は一点。彼女を見ても恭个が気絶することがなかったからだ。

 いざ、例外的に気絶することなく知覚できる存在が現れてみると、それはそれで恭个を不安にさせた。今までに出会ったことのないタイプの霊か? 恭个の作り出した妄想か? あるいは、知覚できるレベルの怪異か? 幾つかの可能性を考えてはみたものの、いまだ判然としない。これまでにない経験である、慎重になってもおかしくはなかった。

「まあ、それもどうやら杞憂だったようだけど」

 少女とはいえ、中身はそれなりに時間を重ねている。ましてや、幽霊にとって法律なんてものは意味はない。勧めている内にボトルの中身は空になっていた。恭个が見えることを告白してからの少女の飲みっぷりには躊躇いを感じられなかった。

「それじゃあせっかくの酒の風味が台無しだ」

「あまり酔えないのよ」と恭个の嘆きを一蹴した。

 今まで、恭个の目を盗んで酒を嗜んでいたようだが、その時の比ではないのは明らかだ。これは、酒代が高くつきそうだ、と恭个は早くも先の展望を嘆いた。

「きみは、地縛霊の一種といっていいのかな?」

「そんなこと解らないわよ。あと、安曇野伊折。〝きみ〟って呼ばないで」

 そうか、安曇野伊折(あずみの いおり)というのか。

「なかなかいい響きだ。ますます気に入った」

 にんまり、と胡散臭い笑みを湛えた恭个はストッカーから新たな酒を取り出す。中でも、シングルバレルは特別だ。記念に開封するには丁度いいころ合いだろう。

「私はきみと――伊折と一緒に生活することを提案するのだが」

 絶句とは言わずとも、その一言に驚き、目を見張っている伊折を見て取ると、強烈な満足感を得られた。とくとく、と注がれる飴色の液体から立ち込める香りが二人を包み込む。

「あなたは、相当の変人なのね」

 あっはっは、快活に声を張り上げ、杯を交わした。

「頼むから味わって飲んでくれよ……」

 恭个の頼みを無視して、伊折は一息に杯を呷った。


 およそ十年前に、その事件は起きた。

 薄ぼんやりとした空気の孕む気怠さだけが、妙に生々しく記憶に引っ掛かっていた。

「あの夜のことは、あまり鮮明に記憶していないのだけど……」

 伊折はため息を呑み込む形でグラスを満たす琥珀の液体を咽喉に流し込んだ。

「すぐに寝付けなかったから、下に降りて目の前にある桜の木を何とはなしに眺めていたと思う」

 はじめは風になびく葉叢(はむら)の影ではないかと、さして気にすることもなかった。しかし、雲の切れ間から差し込んだ月の光から現れたのは、町を彩る美しさからはかけ離れたものだった。

「首を括った若い男だったと思う……暗かったから、確かじゃないけど。印象が凄く薄いの。どういったらいいのかな……能面のような……色白さを連想するけど、全体的な顔立ちをはっきりと記憶できない儚さ、危うさ、脆さ……」

 伊折は慌てて眠っていた両親を起こした。状況を把握した伊折の父は剪定用の巨大なハサミを伊折に持たせ、素早く首を括る青年の下へと駆けた。

「父が男を抱え上げて、私が樹上からハサミで縄を断ったの。私が見たのは首を括った瞬間だったみたいで、男にはまだ息があった」

 激しく胸を打つ心臓の鼓動に息苦しさを感じた。それは胸騒ぎだったのか、得体の知れない不安が色濃く這い寄ってくるようだった。

 自死の寸前で助け出された男は家の中に運ばれた。意識はなかったものの、呼吸や脈拍は安定していたようである。伊折の両親がよっぽどのお人よしだったかは判然としない。しかし、自殺を図るほど追い詰められていた男のことを慮って、すぐに警察や救急に連絡した様子は感じられなかった。

「私、そのとき凄く怯えていたような気がする。死のうとしていた人間を家の中に入れたのもあったけど、何か余計なものまで中に入れてしまった気がして落ち着かなかった。おそらく、静かに眠っているだけの男から嫌な気配を感じてたんだと思う」

 恐ろしさから逃げるようにして伊折は自室に引きこもった。あれだけ眠気を誘わなかった夜だというのに、ベッドに潜り込むと呆気ないほどすぐに寝入ってしまった。

「激しい物音、魚を擦り潰したときの生臭さ、首筋を這い上がる寒気、苦みを帯びた口内、目も眩むような闇。それらが一斉に襲い掛かってきた。最低の目覚め。どんなに記憶は曖昧でも、五感での知覚は忘れられない」

 時計を確認すると、眠りについてからそんなに時間は経っていなかった。水を求めてリビングに立ち、そこで階下の異常に気が付いた。灯りが消えている。先ほどの大きな物音を思い出す。両親が寝室に戻った様子はない。やはり、まだ男の介抱の最中か。

 カフェを営んでいる一階からは、人の持つ生暖かな気配がにじり寄ってくる。不安を払拭するため、伊折は覚束ない足取りで階段を下っていった。

 床板の軋みが、暗がりに消えていく。静まり返った室内は廃墟のようで、普段は気にならない埃臭さを際立たせた。目は一向に暗闇になれないばかりか、決して出口の見えない暗闇が果てることなく続いている気がした。

 そして、カフェスペースになっている広間の灯りを点けた瞬間、目に飛び込んできたのは信じられない光景だった。

「そこには、刃物でめった刺しにされた両親が倒れていた。まるで、ぼろ雑巾……いえ、もっと酷いものだった」

 凄惨な現場に気が動転しておかしくなってもよかったはずだ。衝撃に胸を打たれて、その肉塊が両親であったと理解したなら泣き叫んでもよかったはずだ。しかし、その時伊折の胸中を駆け巡った感情は返って彼女を冷静にさせた。

 まだ、男が残っている。そう予感させる色濃い人間の息遣いが迫ってくる。

 素早く行動できたのは奇跡だったかもしれない。逃げる、という選択肢を瞬時にはじき出した彼女は桜の覗く硝子扉に手を伸ばした。

「そこで生前の私の記憶は途切れた。痛みも嘆きもそこにはなかった。後はこの通り、この家に縛り付けられた私というイメージだけが残った」

 語り終えた伊折はそこで、くたり、と頭を垂れた。


 多分に脚色された感はあるが、伊折に降りかかった災厄の顛末を聞くに、彼女の言は淡白で客観的だ。あまり自らに降りかかった事件に関心が薄いばかりか、自嘲的にすら聞こえる。

「伊折を縛り付けているのは、その事件が発端だろ? 犯人を特定したいとか未練はないの? もしくは、犯人に復讐したいとか? だって、一家惨殺だぜ? 悔しいだろ?」

「私は……確かにここから離れられないけど、誰かを傷付けるとか、あの男を殺してやりたいとか、両親の無念を晴らしたいからとか――そもそも大した未練もないのよ」

 この答えに対して、恭个は僅かに顔をしかめるにとどめる。喉の奥に異物を詰め込まれたような息苦しさは、この際、酒と共に胃に流し込むことにしよう。

 不満は残る。しかし、伊折がこれを是と答えるならば、以上の事件に恭个が拘る必要はない。それが、人として冷淡であったとしても……当たり前過ぎる倫理観には反吐が出る。立場が逆転していれば、伊折と同じような答えを述べるはずだから。

 その時、はたと気付かされたのは伊折の身に降りかかった不幸に、もっとも感情を揺さ振られているのが恭个の方である、という至極シンプルな論理だった。

 僅かな失笑も禁じ得ない。それが、恭个の表情にありありと表れていた。

 あるいは、霊体となって現世に留まる存在性に、意味を見出さないと気が済まないだけなのかもしれない。 

「人を障ったりできないし。別に、悪霊ってわけでもないはず。というか、生きていた頃と大して変わらない。精々がお酒を嗜む程度。それって幽霊失格かしら?」

「失格というか……ま

あ、幽霊総てが誰彼構わず害をなすようならこの世はもっと悲惨なことになっているとは思うけど」

「犯人を見つけようにも手掛かりはない。私の記憶じゃ当てにならないわよ」

 犯人の顔、背格好をまるで記憶していないのだから。事件の捜査もほぼ進展することなく風化している。

「探偵だからなんとかしたい、とか?」

 伊折の鋭く冷たい眼差しは、恭个の背筋をぞくぞくさせた。

「まあ、このひと時を大切にするっていうには大いに賛成だ」

 もしかしたら、酒の嗜好はどこか逃避的な諦観があるからかもしれない。

「まあ、焦る必要はないね。ゆっくりやろうか。いずれ、伊折の気持ちにも変化が訪れる可能性だって否定できない。私も探偵だ。何の因果か、その犯人に巡り合うことだってあるかもしれない」

「楽観的な主観ね。まあ、嫌いではないけど」

 外からは静かな雨の滴る音が涼やかに流れる。酒気を帯びて火照った身体には丁度いい塩梅だ。湿っぽい雰囲気を感じさせない雨天に巡り合える機会はそうそうない。

「改めて、乾杯をしよう」

 凛と、グラスの触れる響きは夜雨(よさめ)に溶けて霞んで消える。


 それら総てがほんの一年程前のやり取りになる。赫崎恭个が奇妙な幽霊こと、安曇野伊折と正式に同居生活をスタートさせた瞬間を切り取った、幻惑的な一夜の出来事である。

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