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 一、町の幽霊屋敷


 櫻見町(さくらみちょう)を縁取る境界線を指でなぞる。寂れた案内図の示す町の形はまるで脳みその様でもあり、些か居心地の悪さを覚える。

 奇しくも町の名物は所かまわず植わっている桜の木だ。季節になれば櫻見の景色は薄い桃色に霞むはずだ。それはそれは、美しく新鮮な脳みその様に……。

 こんなひねくれた感想しか思いつかない私はまだ、この町にうまく馴染めていないのだろう。恭个は案内図を後に、先を急いだ。

「これだけの桜を目にできるのはこの町ぐらいですよ。まあ、まだ時期には早いですけどね」

 内見に携わる不動産屋の陽気な声が町を誇る様によく響いた。

「そのようですね。春になるのが待ち遠しい」

「それはもう。町を丸ごと覆い尽くす姿は壮観ですよ。ただまあ、圧倒的な光景を目の当たりにするとどうにも、話が大袈裟に伝わってしまうようですがね」

 どういう意味かと恭个が目配せする。

「ええ……なんでも年々桜の本数が増えている、って」

「増える? それのどこがおかしいのですか?」

「おかしいんですよ。だって町でそういう事業が行われてる事実はないんですから。だというのに、櫻見町はいずれ桜の木に覆い隠されてしまう。なんていう話をよく耳にするんです」

 人知れずその本数を増やしていく桜の木。それは確かに奇妙な話かもしれない。また、それを外の人間が言う分には風光明媚な景色を讃えてのことかとも考えられるが、どうやら件の話は町の住人の間で広まっているらしいのだ。

「まあ、ちょっとした都市伝説とでもいうのでしょうかね」

 単なる与太話と信じているのか、不動産屋はさも胡散臭そうに笑ってみせるだけだった。

 恭个にしてみればそれは興味深い話であって、この世の不思議を語るものであるなら明らかな法螺話ですら喜んで聞く耳を持つのだが……。

 そんな彼女の様子を見てか、さらに不動産屋はこう続けた。

 櫻見町の桜は天人も酔わせる、と。

 天女は華々しく咲き乱れる流麗な桜の姿に誘われて天を降りこの地に留まった。その手の伝承が多く残されていて、昔はよくじい様ばあ様から聞かされた、と。

「はあ、それは面白い。民間伝承ですか、そういう話は大変興味があります。この地に留まる天女はどうなったのですか?」

 湖に天下った天女は水浴をしている隙に、地上の男に羽衣を奪われてしまう。この後、天女に乞われて羽衣を返し美しい舞を舞ってもらう型や、返すのを拒んだ男と夫婦になり子孫を残した型などの様々なバリエーションが、天女伝説には存在する。

 櫻見町の天女はどのような結末を迎えたのかを問うと、

「はて、どうなったんでしょうか?」

 うろ覚えだったのか不動産屋はあっさりとそう返し、桜の話題もそこまでとなった。知的好奇心を弄ばれたようで癪だが、道すがら沈黙を埋めるためのものだったのだろう。興味はあったが、無理に質問を重ねるのは諦めることにした。

 恭个の向かう先に目的の建物が姿を現したからだ。

 その、西洋的なアパルトマンを彷彿とさせる一戸建て建築は、閑散とした通りに忽然と、しかし風景に溶け込むようにして存在していた。

 日本家屋が多く並ぶ住宅地の中だと目立ちすぎるだろうし、混淆とした繁華街の中ではその様式美があだとなって俗悪な印象を与えたかもしれない。人もまばらな通りである、一種異様な存在感を醸し出しているのは致し方ないとして、なるべくしてこの場所に建ったというならば、ある程度納得がいくかもしれない。

 正面はガラス張りとなっており、中の様子を窺うことができる。いまは薄暗く埃っぽい印象を受けるが、灯りが入れば開放的な雰囲気に変わるはずだ。

 二階に見える二つの張り出し窓が最も目を引くだろうか。両開きの大きな窓を縁取るのはアールヌーボー様式の美しい曲線的なレリーフである。石材に施された植物をモチーフにした浮彫りは無機質ながらも建物全体に生命力を与えているようだった。

「ここが、事務所を兼ねた居住できる格安の物件になります」

 誰も存在しないはずの屋敷からは、にわかに、生々しい臭気を感じ取った気がした。

 不動産屋は、今開けますね、と言い残して併設される車庫を潜って裏へと回った。

 残された恭个は、改めて正面玄関を眺める。そこに、パンツスーツ姿のフォーマルな装いの女と幼さを僅かに残した少女の姿がガラス越しに重なった。なんて冷たい目をしているのだろう、と思う間に、錠が外れる金属質な音を聞く。同時に、伸ばしたその手は取っ手型のドアノブを掴んでいた。

 差し込む日光に照らされる埃が仄暗い室内に舞い上がった。

 そこには誰もいない。

 あの、冷たい眼差しに射抜かれた瞬間のむず痒さを伴う緊張感は霧散していた。

「あれ? どうやって中に入ったんです?」

 裏口から現れた不動産屋は恭个の姿を認めると、しきりに首を傾げつつ呟いた。

「もしかして、目の前で鍵が開きました?」

 その独り言じみた呟きに、こくり、と恭个は首肯した。

「ああ、やっぱり……この建物をご案内すると、よく起こるんですよ」

 これまでも、不可解な現象を幾つか経験したという。二階に駆け上がる足音、閉めたはずの扉が開いている、妙に生活感が漂っている……無人のはずだが、あまり埃が溜まらない、歌が聴こえる、などと。

 そう語る不動産屋がそれらに頓着している様子はあまり感じられない。とはいえ、その表情は僅かに引き攣っているようにも見えた。

 恭个は真顔で上の階を見上げている。

「実はすでに、誰かが住んでるのかもしれないですね」

 自然に吐き出された言葉は、冗談ではなく本心だった。

 床板が不自然に歪み、軋みを上げる。音は、恭个の見上げる居住空間――そのリビングに相当する辺りから響いているようだった。

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