天使地獄
梅星 如雨露
序
ローレライの丘を旋回するセイレーンの歌声。眠りを誘うのは半身が鳥類、地肌を魚の鱗に覆われた怪物から発せられるこの世のものとは思えない麗らかな旋律だ。
半獣人であるから醜いというのはありきたりな先入観でしかなく、実質、岩山の上を流れるように飛び回るそれらの姿には得も言えぬ美しさが伴う。
その純白の翼を広げたセイレーンの姿形に魅せられ、天使と崇める詩人の気持ちも解らなくない。
意識は身体の束縛から解放され、浮かび上がるような気持のいい感覚に包まれる。それは温かく風のように軽い。
胎の内をわななかせる浮力を感じながら暗い水底にしずんで、しずんで、地上の灯りが小さくなる。全身がふわりと海底に抱きすくめられるとそこは深い眠りの世界だった。
歌声は水中の奥深くでもよく響く。眠りというリズムに作用していつまでも続く安らぎの世界を約束する旋律だ。
岩山を旋回していたセイレーンたちはさざ波を作る水面めがけて降下していく。空を滑空していたときよりも、より柔らかなシルエットで水中を舞う。
鱗の煌めきは水の流れを映し出し、彼女らは眠りに落ちた身体の周りをぐるぐると踊る。幻惑的な風景に同調して一つの絵画の中を生きているように錯覚する。ただ純粋な幸福感に満たされた深い眠りの中で完全に視界を閉ざすことにした。
瞼を閉じる。
一歩退いた位置にある意識は、己の肉体を貪る怪鳥の残酷な笑みを目の当たりにしていた。それを恐ろしいとも思わずに――、――、――。
途轍もなく恐ろしい夢を見た。
アナフラニール二五ミリグラムを二錠、レキソタン二ミリグラムを一錠、合計三錠の小さな粒がうつ症状を緩和してくれる。実際どれほどの効果が期待できるのか赫崎恭个(あかさき きょうか)には見当もつかないが、この錠剤を服用した直後の彼女は少しばかり気分がよくなる。
加えて、煙草を一本引き抜いて火をつける。
気怠い眠気から意識を完全に覚醒させるための朝の儀式だ。
煙草の先端に向かって指を弾く。ぱちんっ、と耳に突き刺さる高音を響かせると、人差し指の先から淡い橙色が揺らめいた。
それは恭个の特異な体質によるものだった。物心ついたころにはすでにマッチなどなくても火を熾し、コンロの上を揺らぐ炎を自在に操ることができたと、彼女は記憶している。しかしながら、あまり役に立つ力だとは言えなかった。日常生活で火を使う瞬間など精々が料理をするか煙草を吸うことぐらいしか思いつかないからだ。実際、恭个はその程度の用途でしかこの力を使うことはなかった。
どこかに、立ち向かうべき巨悪が在るわけでもなく、ましてや火を操れる程度で世界を救世する大任も担っていない……。
まったく、とかぶりを振った恭个は深く吸い込んだ紫煙を大きく吐き出した。忌々し気に睨みつけていた指先から視線を外して窓の外を眺めた。
地面に逆さまに首を突っ込んだ異形のような、奇怪な輪郭は桜の木である。花を咲かせるにはまだ寒さの残った季節のこと仕方のない風景だと思うが、それにしても空寂しい。
歪だが放射状に生育した太い幹は魂を喰らう化け物の足に相違ない。
満開の桜の木の美しさとは心に毒だ。地中深くに張り巡らせた根はどこまでも広がって、地獄の底まで到達している。地獄の亡者たちの僅かばかりの魂を養分に、そうしてまた彼らは絢爛な花を咲き散らす。
それはそれで一つの美の形態だろうと思える。しかし、どうしてまた桜の木の下に〝地獄がある〟だなんて突飛な発想を得たのか。記憶の中を探るのに夢中で指に挟まれた煙草から自然と注意がそれる。指先に熱を感じて、吸い口まで灰になった煙草を灰皿に放る。
その時、
「あっ……」
と思わず声が漏れた。
化け物じみた印象を抱いた桜の木々が一斉に開花していたのだ。満開の桜、はらはらと舞い落ちる花びら。色彩鮮やかに、つい一瞬前まで寒々しいとばかり思っていたその木は凄絶な変貌を遂げていた。
モノクロの世界に初めて鮮明な色が生まれた瞬間を目の当たりにしたかのような幻想性に、はっ、とさせられた。にわかに美しいという感情が溢れてくる。
その光景に見惚れていた恭个の意識の端に妙なものが紛れ込んだ気がした。目を凝らせばどうってことない、微笑ましくも一人の少女が舞い散る桜吹雪の中で踊っていたのだ。翻るスカートが妖精の戯れのような無邪気さを表現するのはより幻想的であった。それから、目も眩むような感覚に戸惑い、あまり見てはいけないという不安感を覚えた。
しかし、どこまでも清らかなその振る舞いから目を逸らすことができない。ぼんやりとして、薄く、すぐにでも消えてなくなってしまいそうで目を逸らしてはいけない、という強迫観念に襲われた。
それが恐ろしさからくるものか、焦燥感から顕れるものか、恭个には解らなかった。すぐにでも少女を視界から外せば安心感を得られると半ば理解していた。なのに、少女の静謐な一挙手一投足から目が離せない。この、盗み見ているような罪悪感は恭个の呼吸を乱した。
少女は黎明を彩る桜のアーチ下で、8の字を描きながら小さなステップを刻んでいた。それは何か不可視の柱の周りを縫うような滑らかさを表現していた。少女が虚空を見上げている。いや、桜の旺盛さに目を見張っているのだろう。努めて、恭个はこの幻想性を破壊しないよう心掛けた。野暮な感想を述べてはいけない。ただ静かに、それから決して少女に悟られてはいけなかった。無私の視覚が求められた。等しく樹木であることを恭个は強いられているようだった。
ほとんど息をすることを忘れていた。苦しいと自覚したとき、少女がこちらを振り返った。まるで洞のような二つの穴が、じっ、と恭个を捉えた。
目だ。目だが、理性的な色を排している。
だがあれは目なのだ。もう一度、自らに言い聞かせた。
満開の薄桃色の花が空に爆ぜる。幻想は呆気なく消え去っていた。少女の姿は地中へ沈んで消えていく……。沈み、沈み、……やがて、消えた。後は、ごつごつとした樹皮に覆われた化け物だけがそこにはあった。
ああ、と納得した恭个の意識が薄れていく。背後から、首筋の辺りに微かな気配がにじり寄り、すー、と耳元に冷めきった息を吐きかける。
「ようこそ【天使地獄】へ――」
だれとも知れないそれは、凡そ、そのような言葉を残して消えた……。
揺らぐ視界。深く崩れるような眩暈。だから、沈むのはいつだって気持ちがいい。
ひゅっ――、と肺を握り潰すように空気を吐き出した恭个は気絶した。
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