自分の格を下げる舌打ちという行為

 舌打ちをされた。

 帰り道、突然のことであった。

 原因はなんてことない、角でぶつかりそうになったのだ。見通しが悪い場所だから起こることである。

 そう、起こることなのだ。そんなことに相手はわざわざ舌打ちをした。

 そりゃあ私は自転車だったから向こうからしたら私以上に危ない、と思ったのだろう。それは私に非がある。しかしだ。細い道でぶつかりそうになるのは歩行者であれままあることではないのか。その時にもその彼は舌打ちをするというのか。なんというか、ものすごく嫌悪感を抱いた。

 何よりだ。私はその日、仕事が順調にこなせた日だったのだ。珍しく今日は色々できたな、と思っての帰り道だったのに、舌打ちである。

 その瞬間はうわ、舌打ちされた、とだけ思った。けれど少し進んだとき、その瞬間がリフレインするのだ。静かな街並みに響いた乾いた舌を打つ音、顔はよく見なかったけれど、相手の露骨に嫌そうな顔、持っていたペットボトルのコーヒー、全体的に黒い服装、白髪。向けられた悪意が、私の中に充満していった。そしてそれがどんどん溢れていって、目が熱くなっていくのを必死で堪えながら信号を待った。ここで泣いてはいけない、ここではいけないと唱えながら。

 年に何回あるかわからない「仕事が上手く行った日」が、「舌打ちという悪意を受けた日」に変わった瞬間である。

 とても悲しかった。自分が悪く無かったとは思わないけれど、それでも舌打ちする必要なんてないではないか。ああすごく嫌だ。こういう人がいる世界で生きていたくない。生きるのが辛い。そういう風に思ってしまう。

 私は以前から舌打ちをする人間が嫌いだ。特に公共の場で他人に向けてするのが本当に嫌いだ。世の中の嫌いなことリストのトップ10に入る。自分の意思を最も品格の無い行為で示すのが気色が悪い。それで他人が変わると思っているその性根も嫌いだ。

 以前、電車で見かけた女性の話だ。その人は扉付近に立っていたのだが、電車はとても混んでいてかなり窮屈だった。そして決定的なことが起こった。事故か何かの影響で電車が一時的に停車し遅れが生じたのである。その瞬間、その女性は舌打ちをした。

 私はドン引きした。ええ、と思ったのである。降りた感じからしてその人はおそらく急いでいたのだろう。そんな時に限って電車が遅れるのは確かに嫌だし災難だとは思う。けれど、舌打ちをしたところでさっさと電車が走り出すわけでもないし、安全のために停車したことは考えなくてもわかるはずだ。日本の鉄道はよくやっている。人混みでイラついていたのもあったのかもしれないけれど、それでも舌打ちは良くない。見た目をどれだけ整えたとしても、私はその一回の舌打ちでその女性が酷く醜く見えた。それは女性としての美しさとかいうどうでもいいものではなく、人間としての美しさの話である。私がまだ十代の頃の話であるから、当時はあんな大人になるものかと思ったものだ。

 そもそもなぜ意思表示で舌を打つのか。舌を打つことで自分は機嫌が悪いです、腹が立っていますということに気づいてもらおうという他力本願なところが美しくない。言葉で言えばいいではないか。電車の女性はどうも言うことができないけれど、私がかち合った男性は言葉で言えたはずだ。「危ない」とかを舌打ちの代わりに一言あれば、こちらだって謝罪の一言を言えた。そうすればその出来事は丸く収まったはずだ。けれど舌打ちだったために私は帰り道も陰鬱な気持ちで空を眺め人を恨み、家に帰ってからこうしてつらつらと文字を綴って、舌打ちおじさんはインターネット上で晒されることになった。結果誰も幸せにならない結末を辿ったのだ。

 舌打ちで他人は変わらない。ただ相手が嫌な思いをするだけで、世界は変わらないままだ。世界は変わらないから、今後もそういう瞬間は訪れ続け、自分はイライラし続けたままだ。何も変わらないのだ。変わるのは、自分という人間の品格を下げ続けることだけである。

 そもそも舌打ちをする人は相手が舌打ちをしてもいい相手だと思っている節がある。若かったり性別がどうであったり、こちらの方が立場が上だと思っていたりして、自分より弱い相手に向け舌打ちをしているように思える。そういう性根が透けて見えるのだ。あるいは、その行為がそういう風に見せてしまう。

 やめましょう、舌打ち。私みたいなのは舌打ちをされたことで一人称の視点で見ていた私の世界に、突如として舌打ちをされた自分が三人称視点で捉えられ、その醜さに吐き気がするのだ。誰もが人に舌打ちをできるほど無作法で自分勝手な人間ばかりでは無いのだから、他人に無意味な悪意は向けないでいられたらと思う。そうすれば少しはこの腐った世界を鼻をつまみながら生きていくことができるのではないだろうか。息苦しくはあるのだけれどなんとか生きていける、そんな世界くらいなら実現できるような気がするのだ。

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フリーター鈍行日誌 月岡玄冬 @tsukiokagentou

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