晴れとか雨とか曇りとか

 どうしてこういう日に限って雨が降るのだろう、と考えた。

 忙しい一週間、一際疲れて漸く帰れる帰り道、楽しみにしていた予定の日。そういう日に限って人の上に雨は降る。

 理不尽だなあと思っていた。どうしてこんな日に、と思っては心の中で色々なものに毒を吐いてみる。それでも雨は降り止むことなく、ただ自分の体を濡らしていくだけで、悩みを流していくわけでもない。洗い流していくには雨粒では頼りない。私はそんな風に思っていた。世の中は理不尽で不条理で、自分の思い通りにはならないものなのだと思っていた。

 その考えが少し変わったのは、雨の降る日のことだった。

 疲れ切った体をなんとか稼働させて家へ歩いていた時のことだ。道端に花が咲いていた。健気に咲いている、とは一瞬こそ思ったかもしれないが、私はすぐにそれを否定した。それは人間である私の主観であって、自然からすればただその生を全うしているだけのことで、偉いとか健気とかいうことを思うのは違うような気がした。自然はそんなに弱くないし儚くない。そう思うのは傲慢だ。強欲だ。人間はそんなに偉くない。

 だから私は思った。花の上に雨が降っているのではなく、雨はただ降っていて、そこで花は咲いているだけということなのだ。花が咲くことと雨が降ることはそれぞれ別の現象に過ぎない。花が咲いているというのは、ただそれだけのことなのだ。そこにたまたま雨が降る日があっただけ。それ以上のことは何もない。

 雨が降るから咲いたわけではない。雨が降るから咲かないわけでもない。咲いたところに雨が降ったり日が差し込んだり風が吹いたりするだけだ。たまたまなのだ。偶然なのだ。どこに咲いたか、どんな時に咲いたかはさほど問題ではない。晴れも雨も曇りもただそうなっただけで、誰かが仕組んだわけでもないし試練でもないし運でもない。ただそうなっただけ、そこに咲いていただけなのだ。

 私は色々考えてしまう性質で、どうしてこういう日に限って、とよく思う。けれど、雨に濡れる花を見てそうでは無いことに気づいた。『こういう日』と『マイナスな出来事』に因果関係はないのだ。二つの出来事を結びつけてしまったのは私であり、本来はなんの関係もない独立した二つの現象に過ぎない。それが私の目には重なったように見えただけで、勝手に新しい価値を付与してしまっていたのだ。

 となると先日の舌打ちおじさんもまた二つの出来事に因果関係を持たせてしまっただけなのか。うむ、あまり認めたくない。気分のいい時に水を注されたら誰だって嫌になるではないか。因果関係がないからといって人の気分を害していいわけではない。人が傷つく行為をしていいはずがない。

 しかし人によっては『雨』が傷つく行為なのかもしれない。雨に濡れるという行為でものすごく気分が落ち込む。そういう人ならば『そういう日』との因果関係が無いことにはならず、関係が生まれる……。

 ここまで考えて私は一つの結論に至った。結局は、花に人間のような思考回路がないことが核なのだ。思考がないのだから因果関係は当然生まれない。関係を見出す視点がないからだ。人間は脳を持っているから色々考える。本来ないものをあると思ってしまう。

 のであれば、そこから学ぶしかない。あれとこれが重なって辛いということがあったのならば、すべてはできなかったとしても、時にはここに因果関係はない、たまたま重なってしまっただけなのだと考えることも一つの方法なのかもしれない。それで自分が少し楽になるのならば、活用できる思考かもしれない。

 雨の中咲く一輪の花。そんなものを見てしまったせいで、つらつらと考えてしまった。これもまた人間ゆえである。肥大した脳を持ってしまったせいなのだ。

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