亀裂に楔を

 自分は欠けた人間だと思う。

 誰かしらそうなのだろうけれど、私の場合はその亀裂が大きい、と人並みに思う。誰でも抱えている欠けた部分が、人より多いと、他人と同じように思っている。

 その亀裂や欠損が今の私を作っているのだろうし、過去を形成してきた。振り返ってみれば思い出したくないものばかりが転がっていて目を背けたくなるのに、そういうことばかりが忘れられない。脳は理不尽である。

 これまでの環境は多分、この亀裂に楔を打つようなものだったのだとふと思った。

 今、私がいる職場は少人数の職場である。偶然といえば偶然なのだが、私はそうした環境に身を置くことができた。これがとても恵まれた偶然だったといえる。

 三十人。これまでの人生は小さい箱の中にこの最小人数が詰め込まれていた。直接関わる人は五、六人であったとしても、この狭い教室では端同士であっても名前と顔を知り、印象を持ってしまう。他人でいられるはずの距離で知人になってしまう。だから私は三十という単位に疑問を持っていた。「学校」の「教室」に「クラス」があるというのが、居心地が悪かった。別にそんなものなくてもいいのに。管理さえできるシステムがあればクラスなんてなくていい。今でもそう思う。箱が大きければ居場所はできるのに、と思う。

 少人数のクラスがあった。具体的な数字を言うと六人ほどだ。選択する生徒が少なかったゆえにそんな教室が出来上がったのだが、私はこの環境がとても好きだった。もちろん自分が好きな授業というのもあったが、それでも先生対六人は普通の教室と比べ居心地が良かった。

 まず先生との距離が近い。これは物理的な距離もあるが、六人しかいないので絶対に顔と名前を覚えられる。どんな人間かもある程度掴まれる。成績も紐づいて認識される。つまり、生徒はちゃんと顔を持った人間で、先生も人間になっていくのだ。それは先生自身がそういう授業をする人だったからというのもあるけれど、それでも距離は他の教室のそれとは確かに近かった。

 距離の近さは結果として授業を深める。気になったところを気軽に質問できるのだ。質問、とも生徒たちは思っていなかった。疑問だ。これはなんだ、という疑問を手も挙げずに聞く。気になったことを先生に聞くのだ。こんなに勉強の本質を捉えた瞬間はない。

 そして何より、そこにいた人間が悪い人ではなかったということが大きい。その授業はテストが難しく、生徒たちは同じ苦行を強いられる同志になれた。友達とは違う独特の信頼関係がそこにはあった。その輪を乱そうとする人がいなかったことが何よりだったと思う。輪を乱す、というと日本人的だが、そうではない。むしろ逆だ。それぞれがそれぞれの道を歩いていながらも、今隣で別の道を歩いている人は決して敵ではなく、一緒に戦うことはお互いの利害が一致している、くらいのものだったと思う。だからこそあの教室は、ベストな箱だったのだ。

 今に話を戻そう。今、私はあの箱に近い場所にいると思う。それぞれの目的や思想は決して同じではない。けれど、隣で歩いている人たちは敵ではない。そしてそうだねと言い合える人たちがそこにいる。

 決して大きくない箱の中に、それに似合った人が配置されている。

 こういう場所に出会えることはきっと少ないと思う。人生という長い視点で見てもだ。そこに巡り会えたことは、幸運だと思っている。優しい人のいる優しい世界だ。

 そう思っていた。けれど、違うと気づいた。優しい人のいる優しい世界は、優しい人がそうあろうとしていて、そういう人が作ろうとして作った世界なのだ。誰かが日々の気遣いや努力で作り続けている世界なのである。

 だからそれを壊さないようにしなければならない。誰であれ、壊してはいけないのだ。それは欠けた私であってもである。私だからである。入った亀裂に楔を打たずにいてくれた人たちに、私は報いなければならない。まずは一労働力として、である。

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