重ね続ける一ヶ月
六月の終わり、今年初の蝉の声を聞いた。
七月の終わり、蝉の死骸を見つけ始めた。
八月の終わり、蝉の声が徐々に遠くなり、喧しさがなくなった。
そしてもうすぐ九月の終わり。
連日真夏のごとく暑いけれど、吹く風は確かに真夏のそれとは違う。色が違う。匂いが違う。性質が違う。違う風が私の周りを通り過ぎていく。そう、通り過ぎていくのだ。秋の風は自分の周りを他人行儀に過ぎていく。真夏の風が直面するものであるのに、秋風はどこまでも遠い。
蝉の声は当然聞こえるはずもない九月の終わり。最後に蝉の声を聞いたのは、九月の初め頃、職場から帰る時のことだ。ツクツクボウシだったと思う。周りで鳴いている蝉は一匹もいなくて、はっきりと一人きりの声が弱々しく響いていた。私の夏の終わりであった。
この夏、私は蝉を一つの暦として生きていた節がある。六月の末、初めて蝉の声を聞いた。七月の終わり、八月の終わりと人間が作った暦よりも正確な彼らの一生に感嘆したものだ。寿命というのはどこまでも正確なのだと思ってしまった。
六月の終わり、留まり続けたいと思っていた。
七月の終わり、来月こそは、と決意した。
八月の終わり、大きな一歩を踏み出した。
そしてもうすぐ、九月の終わり。
私の生活は蝉が羽化して鳴き止むまでのわずかな間に変化を迎えた。肩書きは無職からフリーターになり、朝から労働を始める。社会人の中に紛れて、『私』がこの世界に存在していることに、朝の通りを歩いていると気づいて、まるで他人事のようにそんなことを考えている。夕方には疲れた体を引きずっていて、無意味を感じたりする。
こんな生活がこの夏に生まれた。人知れず、蝶の羽ばたきにもならないほどの微弱な衝撃が現代日本に生まれたのだ。
私の羽化はこの夏だったのだろうか、とふと考える。長い長い地中での生活がこれまでの私の生活で、就労が私にとって何年も待ち侘びた羽化だったのか、と。しかし、私は地中の蝉ほど地上に出るのを望んではいなかったと思う。できるならば働きたくない。働かなくていい世界が実現したとしたら、私はきっと働かない。地上に出なくていいのなら、きっと出ない。だからきっと、私にとっての羽化はまだまだ先なのではないかと思う。地上の光はまだ先にとっておきたいと思いたい。この景色が待ち侘びた地上では、少々驚きに欠ける。どうせなら、もっと明るい方が嬉しいと思う。
もうすぐ初めての給料日である。私はとてもワクワクしている。金が入るという喜びに満ち溢れている。金で幸福は買えないとはいうけれど、金でしか手に入れられない幸福はあると思う。金は人を幸せにする。でなければもっとニートは多いはずだ。金が入ったらあれをしようこれをしようと計画している。例を挙げると、少し高いアイス(期間限定)を食べる、靴を新調する、漫画を買う、本を買うといった感じだ。どれも小さなことだが、私にとってはとても大事なことなのだ。特にアイス。昨年食べて衝撃を受けたとても美味しいアイスが今年も登場していたらしい。これを三つほど食べてやりたいと思う。私だけでだ。誰にもやらない。
すぐそこまで迫った給料日を楽しみにしながら、その次の一ヶ月を考えている。何をしようか、どこに行こうか、何を食べようか、何を買おうか、そればかりを考えている。こんなことは人生で初めてのような気がした。
学生の頃からあまり一ヶ月後やその先を考えることがなかった。何せ私は学校は嫌いで、できれば経験したくない科目やイベントの方が多くて、それを考えると憂鬱になるばかりだった。だから一ヶ月後にはこれがある、で嬉しかったのは長期休暇だけだった。それでも二年や三年になるともう何ヶ月したら受験で卒業、などと考えるとやはり憂鬱であった。
無職の時代もそうである。何ヶ月かしたらこれがある、とそれ自体は楽しみにできるものの、今の自分のままそれを迎え入れてもきっと純粋に楽しめはしないのだろうと思っていた。できればそれが来る前に全てが終わらないかと思っていた。
だから今、こうして何ヶ月も後のことを楽しみにしている状況というのは奇跡と言っていい。そうでないのなら、これまでの毎日が人間的ではなかったということだろう。
蝉が次の夏へ向かったように、季節も私も次へ向かう。次の一年、の前にまずは次の一ヶ月。生き死にのサイクルは私にとっては一ヶ月や一年といった程度のもので、それでも必死に生き続けるサイクルであることは変わらなくて、彼らと私の間に違いはない。そういう一ヶ月を重ね続け、それが少しずつ人間の、生物の歴史として積み上がっていく。名前や存在した形跡がなくとも、いたことに変わりはない。そういうものの中、私はまた労働に勤しむのだろう。
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