希望が生まれ続ける地獄

 否定は突如として始まる。

 そして怒涛の勢いで重なる。

 今回の悲劇を語ろう。始まりは前回語ったようなことだ。思えばあれが始まりだったのだ。暑さのせいでとてつもなくイライラしていた。いや、暑さ程度が受け入れられないほどに暑さにやられていた。それでもなんとか頑張ろうと思っていた中、自転車がパンクした。

 なんでだよ、と心から思った。しかしそんなことを言ったところで自転車は直りはしない。うんともすんとも言わないのは無機物のいいところであり悪いところである。

 そんな状態なので自転車が使えない私は走って労働の地まで向かった。遅刻ギリギリ、着く頃には汗だくになっていて朝から疲労が溜まった状態で労働をスタートした。

 私がそんな状態でも他人にそれは伝わらない。伝わったところでどうにかなりはしない。いつも通り業務をこなさなければならない。

 脚の筋肉の痛みに耐えながら手を動かし、私は考える。

 体がしんどい。どうしてこんな思いをしなければならないのか。何か報いを得られるのだろうか。

 誰かの言葉を思い出す。今こうして不幸なのは今後幸福になるためのフリなのだと。そうだろうか。本当はそんな幸福なんてどこにもないんじゃないか。あったとして、それは十年後や二十年後、百年経った世界で得られるものかもしれない。そうであったなら、この痛みをどうすればいいのだろう。今こんなに痛い私の脚が、二十年後の幸福で助けられたとして、そこに何の意味があるというのだ。きっと明日には筋肉痛になって余計に痛くなる。百年後の幸福では明日の自分は救われない。それでよかったなんて思えるほどの幸福なのか。それはそれとして、『あの日』私は痛かったんだ、それを救済はしてくれなかったじゃないか、と言ってしまう気がする。

 痛いことは痛いうちに助けてほしいのだ。わがままかもしれないけれど、血が流れているのをそのままにしていいはずがない。そのうちそこから雑菌が入って、もっと傷が悪化するかもしれない。なかなか治らない傷跡として体に残り続けるかもしれない。そうであるのに、このしんどさが幸福の壮大なフリであるなんて、私には到底思えない。

 そう思う。そう思うけれど、作業をしている私の頭にはその言葉がずっとあった。

 きっと報われる。きっと何かいいことがある。こんなにも頑張ってしんどいのだから、雨に当たらずに帰れたとか、帰り道に赤信号に引っ掛からなかったとか、それくらいの幸運はあるのかもしれない。そういう小さな希望を、私は一つずつ思い浮かべていた。

 人間は希望をなかなか失わない都合のいい生き物だと思った。そうやって自分の都合のいい方に考えて、期待してしまう。人間の業の一つだと思う。


 さて、では自転車のパンクが何のフリだったのかを語ろう。

 ある日、帰宅しツイッターを見ると、好きなアニメの続報が出ていた。私は、ああこれが待っていた幸福なのだと思い、素直に嬉しいと思った。

 待望の新シーズン、胸躍る新規カットを含む映像にテンションは最高潮まで上がった。

 のだが。

 テーマ曲の歌唱者を見て、落胆した。

 世間的に有名な人だった。コンテンツが人気で力が入っていることを証明させる抜擢であったのだろう。生半可なコンテンツにこういう人は起用しない。だからこの采配はこのアニメが人気で、いろんな方面の後押しがあるビッグタイトルなんだと思った。

 それなのに、私はあまり嬉しくなかった。

 それは単にその歌唱者が特別好きではないから、もっといえば少し苦手な類の音楽を作る人だったこともある。だが、そんな自分の好き嫌いよりももっと根本的な問題があった。

 最近のアニメ主題歌の風潮は原作に沿った音楽作りがハネる印象だ。一般的に有名なアーティストにそのアニメだけの曲を作ってもらう。アニメを彩る音楽が優れた作曲者や作詞者によって作られるのはとてもいいことだと思う。何よりこのシステムで私が好きなのはその人がその作品をどのように解釈し、自分の言葉や音で表現するかを見られるのが好きだ。こういう表現をしてくれるのか、ここまで解像度を上げてくれるほど作品と真摯に向き合ってくれたのか、とファンとしてはとても嬉しい。

 けれど、今回のそれは違ったふうに感じられた。曲を聴いた感じ、あまりマッチしているとも言い難い。私個人の意見かもしれないけれど、私だけが納得していないのかもしれないけれど、私はそう思ってしまった。

 私はその人の作ったものが好きだ。その人がいろんなものを見て聴いて感じて考えたもので新しい創作物を生み出すことが好きなのだ。愛を持って接してくれればなお良い。それがいいのだ。ただ、愛だけで接してほしくもない。作品を心待ちにしている人からすれば、ただ愛があるだけの素人が何かを提供したところで嬉しくはない。実力者がこちら側へ真正面から向き合ってくれるから嬉しいのだ。それでようやく、嬉しいと思えるのだ。

 今回のその人に向け、実力がないと言っているわけではない。ただ、その表現者がこの作品に必要だったのか、と私は思う。ただ注目のために起用したのではないかと思ってしまう。そりゃ全てにおいて注目のための起用ではあるのだけれど、それでも今回は特殊だ。あまり詳しいことを言うと特定されてしまうし、そうなると誰も幸せにはならないのでぼやかしているけれど、私はとても複雑な、いや傷ついているのかもしれない。

 私は本当に心待ちにしていた。それくらい楽しみにしていたのに、たった一つの出来事で熱が少し冷めてしまった。水を注されたとはこのことだ。怒っているかもしれない。ただ私は、とても残念である。

 暑さに耐え、仕事に文句も言わず、自転車のパンクにも負けずに、家でも精一杯頑張ってきた。それで手にしたものがこれか。何年も楽しみにしてきたものがこれなのか。私はこれをずっと待っていたというのか。

 馬鹿馬鹿しくてしょうがない。そして悲しくてしょうがない。無力なのが一番悲しい。現状を打開することができぬ自分が悲しくて悔しくて、絶望する。明日からどうやって生きていけばいいのか、歩き方を忘れてしまいそうだ。

 これすらも幸福へのフリなのだろうか。結局そこにも幸福に見せかけた絶望が転がっているだけなのではないか。それでも私は、遥か先の幸福への距離を数え始める。終わらぬ業がここにある。絶えず生まれる希望という絶望が、ここにはある。

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