細胞の一つ
勤務初日。その日はどんよりとした空で、帰る頃には雨が降るかもしれないという予報だった。
始まりはいつも雨。誰かの曲であったような気がする。比喩でもなんでもなく、私にとってはそうだ。高校の最初の通常登校日は土砂降りで、バスから乗車拒否(満員過ぎて乗れなかった)をされ、行きたくないと心の底から思った。中学の初めての体育祭も途中から雨が降り始めて史上初の中止になったこともあった。とにかく私が何かを始めるときには雨が降りがちだ。楽しみにしていた映画を観にいく時も雨だった。いや、あれは雨が降るか降らないか微妙な天気だったんだっけ。どうでもいいや。
私の人見知りは最近始まったものではない。記憶もないような幼い頃からのもので、かなりの年季が入った今更どうしようもないものである。そんな私なので当然緊張し慌てふためき動揺して人と接する。そして疲れてしまうまでが一セットだ。
そんなだから仕事をすることよりも指示をされてはい、はいと返事をし続けることが苦手だ。返事はしなければならない。でも聞こえているかわからないな、適当なやつだと思われていないか、嫌われそうだ、初日で嫌われたらしんどいななどと考えながら仕事をした。
何もかもが初めて尽くし。それはすなわちとてつもない精神的疲労が溜まるということ。
私は新しいことというのはとても疲れることだと思う。慣れたことをやり続けるのは退屈で進歩がない。しかし、疲労はそこまでだ。確かに疲れはする。けれど、人間というのはよくできているもので負荷に慣れるものだ。かつて私は一日に一万歩歩くと翌日は動けなくなったものだが、今では一万歩程度では翌日も一万歩歩けるようになった。経験を獲得し負荷に慣れていくのだ。
だから私は初日の疲労はとんでもないものだった。精神が疲弊していた。皆こんな風に働いているのは偉すぎるのではないかと心から思った。
私を指導してくれた先輩たちはへっぽこな私とは違い倍速で動いているのではないかと思えるほど迅速に動く。私がモタモタしているうちに仕事を終わらせている。しかも余裕である。私の頭で理解できない動きをしている。思わず感嘆した。表情や言葉に出せない自分が情けないほど彼らを心の中で崇めていた。
現場で働く人間はすごいなと思う。以前からそう思っていたのだが、前日に見た映画の影響も相まって余計にそう思った。現場でモノを動かす人間がいなければ当然人や場所に何かがもたらされることはない。机上だけでは一生かかっても形にはならない。形になったとして誰かの元に届くわけではない。脳があったところでそれを実行する器官がなければならない。それは心に留めておかなければならないことなのだ。どちらが偉いではなく、その仕組みの中に自分と他人はいて、それが全部揃うことでようやく形になるのだ。
私もようやくその一つだ。器官にはなれずとも細胞の一つくらいにはなったはずだ。今はそれを嬉しく思える。
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