フリーター鈍行日誌

月岡玄冬

労働は罰です

 旧約聖書には労働懲罰説という概念があるらしい。

 つまり無職だった私はその罰から逃げ仰せていたというわけで、もっといえば私は罪を背負っていなかった貴重な人類だったということになる。そんな貴重な人類はまた一人世界から消えてしまったのだけれども。

 二千二十四年八月。ついに私に課された刑執行までの猶予はなくなり、私は労働という罰を受けることになった。

 まずは経緯を滔々と語るとしよう。

 そもそも私が職を探し始めたのが七月頃。そろそろ色々限界だと思い、タウンワークとバイトルを中心に仕事を探し始めた。

 そこでまず私に迫られた選択は正社員か否かということ。正直これはほとんど迷わなかった。

 正社員なんて絶対に無理だ。私はフリーターになる。

 というのも、前作(無職日記)を読んでいただけた方ならわかるかもしれないが、私は就活というものを受け入れられずにニートになったので、社会人に擬態することはできないなと思ったのである。それに、いきなり正社員になれるほど世間は甘くないとも思い込んでいる節がある。とはいえ、正社員に憧れがないわけでもなかったので、少しは求人を見てみたりはしていた。

 こういう理由でタウンワーク等を見ていたのだが、七月中は本当に見ていただけだ。ああ、ここならできそうだなあ、ここは少し遠いか、などと他人事のように画面を見つめ、ボタンを押せずに一日一日が過ぎていった。呆れるほどの体たらくは私の本質なのだろうか、それとも長いのんびりとした生活がそうさせたのかはわからない。

 こうして七月はあっという間に去っていった。というか、今振り返れば本気で働こうとしていなかったように思う。どこかでまだ大丈夫、まだ平気、と思っていた。一週間後の自分がなんとかしてくれると本気で思っていた。働くよりも蝉の抜け殻と死骸が同時に存在していることの方が私にとっては重要事項だった。

 そして八月。映画を見終えた私は流石に焦り始めたのだ。映画というのは金がかかる。一本見るのに最安でも一三〇〇円かかる。それは私の預金口座に打撃を与えるのだ。だから本気で探し始めた。現実感を持ってここならできそうだ、ここは自転車で通えばなんとかなるか、でもなるべく歩きで行きたいんだよな、でも今暑いからな、などちゃんと現実的に求人を見ていた。

 それでもなかなか決心つかず、というか図書館で借りた本を読み切らなければならないとか色々重なってしまってなかなか決まりきらない心であった。テレビではパリオリンピックの話題でメダルが輝きながら報道されていた。私はそれを見ながらこの人たちは色んな意味ですごいな、と感心していた。そして審判に怒りを覚えてこの世界にまた少しだけ絶望を募らせる。

 この八月中になんとか決めたかった。というのも、十月から楽しみにしていることがいくつかある。それを楽しくするには自分に引け目がない状態にしたいと思っていた。せっかく自分が楽しめそうなものが目の前に転がっているのに、重い荷物を背負ったままでは十分に楽しめない。私は両手が塞がった状態でそれを迎えたくはなかった。荷物も全部下ろしてさあ遊ぶぞという姿勢でそれを迎えたかったのである。そのためにはこの八月、なんとか間に合わせたかった。

 とはいえ私は自分に自信がない。これはニート時代が産んだものではなく、生来のものである。親しみを持たれる人の要素を持たない人間なので、面接が苦手だった。この面接というのが私を困らせた。

 まずその場所に行くまでがとても怖い。何時の待ち合わせだから何時には家を出なければならない、そのためにはこの時間に準備をして身支度を整え……ああでも始めて行く場所だから事前に下見をしにいったほうがいい……そもそも一般の人が入る場所がどこかわからないな、迷ったらどうしよう……入れなかったらどうしよう……悩みは尽きなかった。加えて面接で何か言われたらどうしよう、圧迫面接されたら、ニートという理由だけで人格否定されたらその人のことを否定したくなるな、などと考えているとボタンを押せなくなった。

 それでもなんとか私は勇気を振り絞りボタンを押したのだ。怖くない、怖くない、普通のことだ大丈夫、人格否定はされないと念じながらクリックした。何よりも、ここでやらなければ一生このままだとわかっていたからだ。いつかはやらなければならない、いつかは変わらなければならないと、もうずっと前からわかっていたのだ。いつやるの、今でしょ、というやつだ。現状を変えるためには、自分で昨日までの自分を変えるしかないのだ。

 メールが届き、面接日時はあっという間に決まった。日時は数日後。その間の私は変な気分だった。

 とても嫌なことなのだ。予定が入っているということは私はとても嫌いで、それが面接ならば尚更嫌だ。できれば逃げたい。やらなくていいのならやりたくない。隕石が衝突してなくなればいい。ドタキャンされてもそれはそれでいい。そんな風に思っているはずなのに、迎え打つしかないと思う自分もいた。来るに任せようと勇敢な自分がいることが不思議でならなかった。

 とはいえ前日はほとんど眠れなかった。明日は、明日は、と思うと満足に眠ることはできず、当日の朝はひどい顔をしていた。まあ普段からロクな顔つきではないが。

 時間が迫る。私は家を出た。自転車で行っても駐輪場がどこにあるかはわからないから歩いて死地へ向かった。私は気を紛らわせるためにエレファントカシマシやWEST.など勇気の出る曲を聴きながら向かった。泣きそうになった。

 一歩一歩、死が近づいていく。呆れられたらどうしよう、受からないことよりも人間に、私のことを何も知らないちゃんと社会人をやれている人間にお前は酷い体たらくで醜く碌でもないやつだと言われたらどうしようと考えていた。心が折れそうになるところを、耳から『間違っちゃいない。』と言ってくれる彼らがいた。WEST.の『間違っちゃいない。』という曲だ。名曲なのでぜひ聴いてほしい。

 眼前に建物が迫った。大きく息を吸う。意識的に呼吸をしなければぶっ倒れそうだった。一握りの勇気、これが終われば帰れる、それだけ持って私は進撃した。

 開幕早々受付の人に挙動不審をした。緊張しながら奥地へ向かった。その場所はやたらアロマか何かの匂いがして、少し苦手だった。受付で待たされているとき、通りすがる人の靴ばかり見ていた。とてもじゃないが顔を上げられる精神状態ではなかったし、普段猫背な私が背もたれに背をつけてずに座るということに集中していたこともあってそこばかり見ていた。

 担当の人が来て私はドナドナと連行された。せっかく喋りかけてくれたのに上手に返せなかったことが悔やまれる。こんなことばっかりである。シンプルに会話のキャッチボールが下手だ。本物のキャッチボールも下手だ。

 ドキドキしながら面接をした。優しそうな人が来てくれて若干落ち着いてはいたが、それでも私の中にいるリトル月岡は頭をフルに回転させ、これは言うな言葉遣いに気をつけろだが正直に素直に喋れと命令を出していた。

 意外だが冷静ではあったと思う。その場所に行ってしまえば意外と怖いものはないというか、ここまで来たら大丈夫だと思える自分がいた。始まってしまえば大したことはない。怖いのは目の前に剣山が迫っているときで、それがぶち当たってしまえばただ痛いだけだ。あるいは、その剣山自体が剣山ではないことに気づいたりもする。

 そんなこんなで面接が終わった私は天にも昇るような気持ちで帰り道を急いだ。テンションの高い曲を聴いて帰った気がする。あまり覚えていない。解放された喜びで何も考えていなかった。

 と同時に、これでよかったのかと思う自分もいた。仮にここで採用されたとして、私は頑張れるのか、他にもっとベストなところがあったのではないか、落ちてもあまり悔しくないなと思っていた。なぜそう思っていたのかは私にもわからない。普通、ここまで苦労したのだから二度も同じ思いは経験したくない、ここで決まってくれと私なら思うのに、ここでなくてもいいと思っていた。それはそれで困るな、とも思っていたのである。身勝手ではあるのだが。

 その日、帰ってしばらくしてからメールを開いた。採用の通知だった。それを見て私はドン引きしたのである。来るの早え、と思った。面接の話では通知が来るのは数日後だと思っていたので、あるいは来ないと思っていたので心の準備ができていなかった。近日中に観にいく映画のことを考えていたところに来た通知だったから、一気に現実に引き戻されたドン引きしたのである。

 映画を観た翌日、私は初めての出勤をした。前夜、当然眠れなかった。遅刻したら死ぬと思った。一度考え出すと眠れなくなる。映画が面白すぎて眠れなかったというのもある。長くて短い夜だった。

 曇り空が広がる朝、私は罰を受けに向かった。どうも私は曇りや雨の日にこういう記念すべき日が当たる。ある意味私らしい天気だった。

 こうして私はニートを降り、フリーターという新しい列車に乗った。決して快速ではない、各駅停車の鈍行だ。時間をかけて一歩ずつ進むことしか許されない列車は給料日を楽しみに走り続ける。時折車窓から見える景色に想いを馳せ、車内の空気に絶望したり舞い上がったりしながら進んでいくのだと思う。

 こうしてまた一人、罰を受けるものがこの世界に誕生した。フリーター鈍行日誌が始まる。

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