深度6 枯れた花

「スマホもない、場所もわからない……どうしよう……」


 セントラル商業地区裏路地。狭く薄暗い道の真ん中で修道服を来た少女がぽつんと場違いにも立ち尽くす。リリーの手によって入ったことのない道の更にその奥へと迷い込んだマリアは自身の修道服のポケットをあさり、愕然と首を落とした。


 地図を確認できるスマホは朝の礼拝のために自室に置いたまま。商業地区は大通りばかりを歩いていたので少しでも道を逸れてしまうと土地勘はなし。街のこともよくわからない中、完全に迷子になってしまった。


「リリーさんはいないよね」


 周囲を見渡してもリリーの姿はない。最後に言っていた荒療治という言葉。その意味を測りかね、マリアは途方に暮れる。

 あの人に出会ってから知らないことばかりが降って湧いてくる。どれもが自分にとって大きな出来事で、消化する時間もないまま次は放置だ。


「まだ一日しか経ってないんだね」


 リリーがやってきてからたった一日。その間にシャーレ族のこと、海魔のこと、父のことを沢山聞いた。教会の中でジャズに囲われて生きていたら知らないままだった世界のことを、沢山。


「暗くて迷路みたい」


 ジャズと一緒に歩いていた道は大通りのように明るく輝いていた。どこに行くにも迷うことはなく、道は常に指し示されている。比べて、今はどうだろう。

 進むべき道もわからず、暗く細い道が何本も続いている。様々なことに思い悩むマリアの心情を表しているかのようだ。


 右も左もわからず見覚えのない景色が続いている。いつもなら、手元のある機械一つでどうにかなる。迷ったらいつの間にか隣に父がいて進む道を示してくれる。

 こうして一人で放り出されて初めて知った。私は、一人では道を選ぶことすらできないんだ。


「どっちに……」


 右か左か。ただの二択だ。どちらかを選べば相応の結果が下る。たったそれだけのことなのにマリアは足先が震え、前に出ることを躊躇った。一人で何かを決めることがこんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。

 だって、失敗したら、もし間違えたら、どうしたらいいか分からない。


「前へ踏み出すことが怖いか?」

「え!?誰!?」


 耳元で聞こえる声。聞いたことのある声に周囲を見渡すが辺りには誰もいない。聞き間違いなのかと首をかしげると、微かに首元に小さなぬくもりを感じた。

 細長く、少し脈打っているそれは泳ぐようにするすると首元から指先へと降りていき、左手の親指へと巻き付いた。指輪のようにくるりと纏わりついた白い糸。指輪ほどの太さをした糸には見覚えがあった。


「リリーさんの、触手?」

「正解」

「うわぁ!?」


 突然、がぱりと指輪の側面から口が生える。小さなものだがしっかりとした歯列が見え、思わず悲鳴を上げてしまった。


「すまない、喋ったり音を聞いたりはできるんだがこのサイズだと目を作ることが難しくてな。会話だけで失礼するよ」

「あ、いえ……この触手、リリーさんにつながっているんですか?」

「いいや。切り離してある。最大サイズが限定されるが遠隔操作できるのが触手の強みでね。本体は優雅にティータイムさ」


 人を路地裏に放りだして何をしているんだと思わなくもないが、それよりも緊張していた肩がほんの少し下る。安堵についた溜息が聞こえたのか、口がにやりと笑みのようなものを作る。正直なところ不気味だ。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず。まずは危険地帯から自力で抜け出してもらおうかと思って裏路地へとご案内したのだが、どうだろう」

「どう、といわれても……」


 困った、という言葉しか浮かばない。表通りしか知らないマリアにはここは別世界だ。立ち入ったこともなければ話の欠片すら聞いたことがない場所。どこに行けば出られるかなど検討もつかない。


「まあそう不安がるな。直接危険なことを避けるためにこうして声を届けているんだ。歩いていれば直ぐに合流できるよ」

「ど、どっちに行けばいいですか」

「それは自分で考え給え」


 自力で抜けた出してもらう、と言っただろう。

 リリーの言葉にマリアは眼前に差し出された二択を見る。右か、左か。自分がどちらから来たのかはさっぱりわからない。ここがどこなのかは以ての外だ。文字通り右も左もわからない。それでも時には人は選び取らなければならない時がある。


 選び取って、間違えたら?


「右と、ひだ、り」


 暗い路地裏が記憶の隅と重なる。叱責する声、痛みを感じる頬、泣き叫ぶ誰かの声。ゆらゆらと揺らめく、誰かの影。

 間違えたら、間違えたら?


「マリア」


 思考を遮られる。呼びかけられた声に正気を取り戻す。脂汗が頬を滑り、手には汗がこびりつく。激しく荒れる呼吸と上下する胸。瞳孔の定まらない瞳が白く輝くリングに移る。


「間違えることが恐ろしいか?」


 恐ろしい。そう、恐ろしいのだ。間違えれば全てが終わってしまう。真っ暗な暗闇の中で全てを否定される。積み上げたことも、眼の前のことも、自分自身さえも叱責される。

 もうあの声を聞きたくない。あんな思いをしたくない。蹲って目を瞑って助けてくれるのをずっと待って居れば良い。そうしていれば、父が助けに来てくれる。


「そうやってずっとジャズに頼って生きていくのか」


 胸を強く押されたような気がして、顔を上げた。


「客観的に自分自身を見てみるが良い。今の君は子供にも劣ることを自覚できているか?」


 言われて初めて足元を見た。置いていかれ、呆然と立ち尽くす姿。帰り道を探すために足を踏み出すことすらできない。その姿は、泣きながら親を探す子供にも劣っていた。


「ジャズは君が傷つくことを酷く嫌った。君が泣くくらいなら何も見なくて良いと考えるほどにね。そして君の自己肯定感の低さと失敗に対する執着をみて僕はある結論に至った。君は今までなにかに強く傷つけられ失意の底にいたことがあるのではないか?」


 薄綿で包まれたヴェール。視界を遮るように被せられた真実を覆う布はマリアの心の奥底にある傷を覆い隠す役目も担っていた。もう二度と失敗しないように。誰にも傷つけられないように。


「でもね、それは悪手だ。盲目の君に一体誰が世界を教えてやるんだい。人間は進んでいく生き物なのに、止まった時間の中に居るシャーレが君を捕まえておくっていうのか?なんだそれ、馬鹿馬鹿しい」


 過剰な監視の目の中で優しく保護されてきた少女。そのヴェールを無理矢理剥ぎ取ったリリーは何もかもを足蹴にし、眼前に現実を叩きつける。


「いつまでもそこで突っ立っているんじゃない。歩きなさい」

「で、も」

「前に進みなさい。怖くても、分からなくても、進みなさい。立ち止まることだけはしてはいけない。脅威の前では逃げられない者から殺されていく」


 怖かった。どれだけ言葉を募られてもその一歩を踏み出すまでが途方もない時間だった。足を前に出して、自分の生きた道を選ぶ。たったそれだけのことにいつまでもウジウジと時間をかける。


 何度目か、震える足をやっと前に出して右へと歩き出した時、眼の前が奈落の底に沈んでいるかのような錯覚に陥った。どこまでも続く暗闇。落ちたら二度と助からない。

 怖い、怖い、怖い!


「歩いて。そうだ」

「リリー、さん」

「大丈夫。歩いた先に君に足りないものを一つ、見つけられる」


 一歩一歩、戦々恐々と歩いていく。命綱のない谷の上を綱渡りしているような感覚に目眩がする。それでも促されるように一歩一歩進んでいく。

 そうしてまた曲がり角につくと足が竦む。立ち止まる旅にリリーから叱責が届き、言われるがままに前へと歩いた。


 相変わらずここがどこなのかは検討もつかない。どこへ向かっているのかもさっぱりわからない。それでもマリアは必死に歩き、薄暗い路地を進んでいく。


「マリア、君に足りないのは経験だ」

「けい、けん」

「人が自信をつける一つの過程。そして学習。君が最もするべきことは自分の選択による失敗を経験することだ。ただ、失敗だけの経験ではだめだ」


 失敗の経験は沢山してきた。その度にたくさんの叱責を受けた。ジャズに教会の中に匿われるまでほんの短い時間が一生に感じるほどに。

 リリーは、その失敗の経験は捨ててしまえと付け加え、裏路地の脇を見るように指示した。


「右を見てご覧。少し先の路地だ」

「あれは……」


 路地裏の端。一人の男性が道端に座り込んでいる。ところどころ泥に汚れ、服が破れていく。虚ろな瞳で壁を見つめ、ぶつぶつと何やら言葉をつぶやいていた。心ここにあらずといった様子で、遠く離れたマリアには気づいていない。


「ジャンキーだろう。綺麗に整えられた街でも薬ぐらいは出回っている」

「薬……違法な薬物、ですよね」

「僕が生まれた頃からそこだけは変わらないな。暴力と快楽と薬だけはいつまでも暗闇にこびりついている」


 リリーが生まれた頃ということは途方もない昔のころからああいった人は居るのだろう。違法なものも人間性を失わせるものも昔から変わらず在り続けているのだという。


「ああいう者は、失敗の仕方を間違えどうしようもなくなった者だ。誰かが止めるまで、止めても止まらない。踏みにじられた部分の一つだな」


 先に進むよう促され、路地の先へと進む。あれがリリーのいう見せたかったものの一つらしい。やり直しが効かず行き場をなくし自滅した者。表社会では見ることのないものの一つだ。


「それから社会の輪からはずれた若者。ああいった者たちは自分に近しいものを見つけては引きずり下ろす。自分より上にいるものもムカつくからと引きずり下ろす。そういう人種だ」


 左側に続く更に細い路地裏の先。素早く通り過ぎるように指示された道の先に、若者たちの姿が映る。皆年若く見えるのに、どこか暗い部分が垣間見え、マリアは早足に曲がり角を去った。


「世の中には暗い部分がごまんとある。今見たものは片鱗に過ぎん」


 綺麗な道ばかりを通っていれば気づかなかったこと。知らなくていいことだと目を覆われていたもの。


「ただどれにも共通点がある」

「共通点、ですか?」

「引き戻してくれる人の存在だ」


 暗い闇へ落ちていく者たちは結局のところ、引きずり降ろされ一緒に落ちていくか一人でもがき苦しんで落ちていった者たちだ。そこへ誰か、一人でも引き上げようとしてくれる人がいれば話が変わっていたのかもしれない。


「彼らにはいないが、君には引きあげてくれる人がたくさんいる。これからも増えていく」


 父、大伯父、そして沢山の伯父、伯母達。出会う度に増え、皆が手を差し出してくれるだろう。


「でも今の君ではその手を取る勇気がない。道も選べないんだ。真実を差し出された時、どうすればいいか迷うのは必然だ」


 父が海魔と同族だったこと、大伯父と沢山の家族がいたこと、戸惑い焦り悩み足が竦んだことだろう。選ぶ道が見えなくなり、唯一信じていた父すらわからなくなり衝動のままに走り出した。そうして走り出した道さえマリアには選べなかった。


「そこで経験だ。失敗しても、間違えてもいい。自分で選んだ道に自信を持って進めるようになるんだ。しくじったら反省すればいいだけさ」


 少しずつ、広い道へと入っていく。薄暗かった道に明かりが灯り、人々が行き交う喧騒が聞こえてくる。ほんの少し早くなった足取りとともに、左手の親指に鎮座する白が高らかに笑う。


「大丈夫。心配することはなにもない。歩いていれば出口が見えてくる」


 速度を上げていく足が走る足音に変わった時、マリアはまばゆく輝く眼前の光景に目を細める。

 見覚えのある街並み、あちこちに取り付けられた液晶パネル、通行人、綺羅びやかなショーウィンドウ。


 そして、裏路地の入口。その壁に凭れ掛かって煙草を吸う、真白な大伯父。


「出口についたら先回りした大伯父サンが君を引き上げるために待っているのさ。ほら、安心だろう?」


 眩いばかりの笑顔に、へなへなとその場に座り込む。腰が抜けてしまい、もう一歩もその場から動けなかった。

 通行人に不思議そうに見られる中、煙草を壁に擦り付け、足元に落として踏み潰したリリーがそっとマリアを抱えあげる。肩口から感じるタールと僅かな葉の匂いに目が染み、じわじわと目元を濡らす。

 小さな子供と同じように片腕で抱え上げられ、恥ずかしさから首元にしがみついた。


「よしよし、大冒険お疲れ様。楽しかったか?」

「二度と、しないでください」

「はっはー、そりゃあ無理だな。僕と旅をするなら一人で行動できるようになってもらわなきゃやってられん」


 ゆらゆらと揺れ動く。歩く振動が全身に伝わり、懐かしさがこみ上げてきた。

 父はよくこうやって幼い私を抱えて歩いてくれたから。


「……お父さんに謝らなくちゃ」

「あれはジャズが悪いから謝らなくていいと想うぞ?」

「でもお父さんを傷つけちゃった。私のことを心配して何も教えるな、なんて言っちゃっただけなのに」


 父がどれだけ大切に育て、慈しんでくれているのか分かったつもりでいた。でも、甘かった。彼の慈しみは人間が持つ優しさよりも重たい。シャーレ族の時間に閉じ込め、目を覆い、権力をすべて使って囲い込む。彼のやり方は監禁と同じことだ。

 けれど、甘えたのはマリアだ。真実から目を覆い、見なくて良いものを見ないと決めて傷つくことを恐れた。無知とは悪だと、大伯父に教わるまで知る権利を放棄していた。

 このままじゃ、だめだ。


「自分が傷つきたくなかっただけでもあるんだ。あんまりジャズを甘やかすなよ」

「私だって同じことです。お父さんがなんにも教えてくれないのも、当たり前だよ」

「あの子は過保護過ぎる。僕の教育がスパルタだなんて言うんだ」

「そこはお父さんが正しいと思います」

「えぇ……そうかなぁ」


 ほんの少しだけ縮まった距離。くつくつと笑う度に動く肩に、マリアもつられるように笑い声を上げた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る