深度3 穏やかな風
「秘密主義は身を滅ぼすぞ」
マリアが辞した後、追加の紅茶を受け取ったリリーは呆れたように甥を見た。その言葉の意味を正確に汲み取った彼は青々とした木々の間に差し込む陽光を目で追い、首を振った。
ぴくりと、リリーの眉が僅かに上下する。カップの中の紅茶が煽られるように震え、肺から全ての息を吐き出すように唸りを上げた。
「……分かった。分かったよ。だからソレはやめろ」
波紋を生んでいたカップの紅茶が余韻を残しながら消えていく。波が引いていくように消えていくのを傍目に、ジャズは苦しそうに頭を抱えた。
「はぁ……食事を頼んだときにも使っただろう。あれじゃあまるで僕が礼儀知らずみたいじゃないか」
「現状を理解してほしかったんだ」
「彼女にシャーレが化け物だと教えていないことは十分よくわかったよ」
兄妹達のことも言えないわけだ。
皮肉のように付け加えた言葉に、ジャズはずるずると頭を落としていく。低く項垂れ絞り出すように響いたうめき声だけが彼の葛藤を物語っている。
「あの子、随分と問題を抱えているようだな。自己肯定感が低いように感じた。どこか自分自身に対して否定的だ。それに、家族に対するあの執着とシャーレへの憧れ。並大抵のものではないぞ」
「……私も把握している。言っておくが、例え伯父さんでも勝手に人の過去など明かさない。愛娘ならなおさらだ」
「それが人に娘を頼む態度か?知らないうちに地雷を踏んでも?僕のウィットに富んだジョークの切れ味はバターナイフより軽やかだぞ」
「人の傷を抉るだけえぐってロクに切れもしないっていう自虐か?」
じろりと睨まれはしたが、ジャズは本当にいう気がないのかそれ以上は口を閉ざしてしまった。無理に聞き出す気は毛頭なく、リリーは残念そうに肩を竦めるだけに留めた。自分だって他人に無闇矢鱈にトラウマを穿り返されたくはない。
話題を変えようといくつか話をしようとしていた議題を思い浮かべ、さてどれにしようかと吟味している刹那。ジャズは新品のレターセットを手に取り、頼りない声音で呟いた。
「母さんは?」
「……進捗は150年前の予測と合致している」
「皆にも伝えておくよ。まだ、誰も手紙を書いてないみたいだし」
「いつもお前たちは僕に会ってから書き始めるからな」
「しょうがないだろう。なんて書いたら良いかいつまで経ってもわからないんだ」
放り投げたレターセットが卓上を滑る。デスクの近くに置かれた屑籠にはぐしゃぐしゃに丸められた同じ柄の紙が打ち捨てられている。インクの染みと何かを溢したような跡が、彼の感情をよく表していた。
「伯父さんは、書かないのか」
目覚めるたびに、彼はこの質問をする。そしてその答えはいつも同じだった。
「僕は彼女の側で見守っていられるだけで十分だ」
「そんなこと、誰も望んでない」
この返しもいつものことだ。
―――――――――――――
太陽が地平線に向かって傾き始めた頃。吹き抜ける風が冷気を帯び、時間の進みを知らせにやってくる。教会との庭先。隣接した孤児院から聞こえる子供たちの声をBGMに、草木のさざめく揺らぎに目を閉じる。欲望の赴くままに大きく深呼吸をし、生暖かい風を吐き出した。
流れ行く雲と青い空の下。何の変哲もない日常に浮き出た自身にリリーは腕をさすった。
「居た堪れないな」
静かな時間が訪れるたびに彼は胸の内に燻る不安に苛まれた。十代の青少年が感じる漠然とした不安を味わっているようで、居心地がすこぶる悪い。この純真を詰め込んだような空間が更に疎外感を駆り立てているのはなんとなく分かっていた。
「あんな場所が恋しいなんて馬鹿げてる」
脳裏に浮かぶのは潮風と暗闇と冷たいだけのコンクリート。命に代わる電子音が響き渡り、あちこちから響き渡る嘆きの合唱。泥水のようなコーヒーと苦いだけの煙草。寿命を削るように吸い続けたアレの依存性はは果たしてニコチンだけが原因だったのか。
「煙草……ジャズに言えば出てくるか……?」
「ここは禁煙ですよ」
「わがまま言わないから、一本だけ」
「十分わがままです」
心底呆れたと言わんばかりの声音に振り向く。先程まで孤児院から聞こえていた声の一つ、マリアが腕を腰に当て文字通り説教モードで立っていた。子供がいつ入ってくるともわからず老若男女問わず訪れる教会で煙草何て言語道断だと、彼女はこれでもかというほど真剣に高説を垂れた。
「煙草は百害あって一利なし!気管支が弱い人の気持ちを考えたことありますか?無差別に喫煙することがどれだけリスキーか!副流煙だってとんでもなく……」
「はいはい、もう分かった。又姪がそう言うなら吸わないよ。ココでは」
「ここじゃなくても吸わないでください!」
長い説教を右から左へと聞き流したリリーは上辺ばかりの空返事を繰り返し、降参すると空手をあげた。軽くあしらわれたことに納得が行かないようで更に言葉を募ろうとしたマリアを、リリーは片手を振って止めた。
「もういいから。それより、孤児院の子達に旅の話をしたようだな。いつかえってこれるか分からない……なんて、今生の別れのような言葉だったぞ」
「き、聞いてたんですか?え?でもここから孤児院は100メートル以上離れてますよね!?ま、まさか盗聴器……!?」
「おい、人聞きの悪いことを言うな」
後退りまでし始めたマリアを止め、リリーは己の耳を主張するように軽く叩く。その耳がほんの少しだけ人より先端が尖っていることに気づき、彼女は興味深そうにまじまじと見つめた。
「シャーレ族は人間より身体能力が高い。それは五感にも適応される。100メートルなら耳元で囁かれるのと変わらん」
「そう、なのですか」
これぐらいのことは教えても良かったんじゃないかと心のなかで甥に意見しても事実は覆らない。知らなかったことが次々と暴かれる寂しさに溺れる彼女に腕を引っ掻いた。この罪は重いぞ、ジャズ。
「まあ、耳が良いからと盗聴地味た真似をしたのは僕だ。悪かった」
「いえ!聞こえてしまうものを責めても仕方ありませんから。知らなかったとはいえご不快にさせてしまいました。ごめんなさい……大伯父様」
きょとん、と大きく目を見開く。ほんのりと色づいた頬と忙しなく動く指先に勇気を持って選んだ呼称なのだと知り、リリーは困ったように眉根を寄せた。なんと愛らしい又姪か。これは兄妹達の間で取り合いになること間違いなしだ。
ニヤけてしまう口元を手で覆い隠し、気を取り直すように咳払いを一つ。出会ったばかりの又姪の前で大伯父としての威厳を失うわけには行かない。
「んん、その呼び名は大変、結構、素晴らしいが呼びにくいならリリーで構わん」
「すみません……まだちょっと恥ずかしくて……」
何だこの子かわいい。大伯父じゃなかったら変な気を起こしていたぞ。
「何だこの子かわいい」
心の声がつい漏れ出た瞬間、庭先に面する廊下の窓がバンッ!と音を立てて開かれる。若干息を切らしたままギロリとリリーを睨んだのは過保護者ジャズ。どうやら会話に文字通り聞き耳を立てていたようで、数百メートル先から慌てて飛んできたらしい。
「クソ伯父!!今の発言は聞き逃がせない!!変な気を起こすってなんだ!!」
「おいおい、お前その状態でどうやって今まで隠し通してきたんだ」
ジャズはシャーレ族の中でも特に耳が良い。それは距離や声の明瞭度に左右されない。物理的な壁も精神的な壁も彼には関係ない。その能力を遺憾なく発揮して飛んできた彼に、リリーは軽く頭を抱えた。あの子、子供ができてから馬鹿になったんじゃないだろうな。
「おと……ジャズ様!リリー様は何も悪いことは言っていませんよ!どうして怒鳴りつけるのですか!」
「は、あ、あー、いやーえっと」
「そうだそうだ。又姪、もう孫娘と言っても過言ではない子をみてかわいいと発言するのは全く悪いことではないぞー」
知らないって罪だな。自分で仕掛けたことだがほんの少しだけジャズに同情した。いや、元はといえば彼が自分で秘匿した能力だ。自業自得と言えなくもない。
怒りと悔しさと情けなさで形容し難い表情に成り果てたジャズはこれ以上我が子に怒られないようにと慌てて話題を変えた。
「違う、一応リリーに渡したいものがあってきたんだ」
「なんだ。煙草をくれるのか」
「リリーさん!」
「煙草は用意してあるがここでは吸うな。あと要件はそれじゃない」
用意してあるのか、と煙草につられるように軽やかに近づくと彼は窓辺にバッグらしきものといくつかの機械、財布、そして指輪を一つ置いた。
「連絡用のスマートフォンと付属品だ。私と兄妹達、マリアの連絡先も入っている。使い方はマリアに聞いてくれ」
「PHSじゃないのか」
「25年で機械類はかなり進化したんだ。それと、預かっていた指輪。ウエストポーチのほうが何かと便利だろう。あとは現金をいくらか」
一つ一つをウエストポーチに詰め込み、最後に指輪を手に取る。ところどころ細かい傷がつけられた装飾のないプラチナリング。それを左手の親指へと嵌め、何度か手を握る。最初からそこにいたかのように馴染んだ指輪に安堵したように息をついた。
「正直なにか壊すんじゃないかと怖かったんだ」
「その指輪、ジャズ様と同じものですね」
マリアの指摘通り、ジャズの左手の親指にも同じように指輪が嵌められている。興味津々に覗き込まれた指をよく見えるように差し出し、リリーは指輪の側面を指さした。
「これはシャーレ族専用の装置だ。色々と機能はあるが、まあ抑制がメインだな。これがないとうっかり力加減を間違えたり、間違えて能力を使ってしまったりする」
「能力?」
「そうだ。その辺りは追々説明しよう。いいね、ジャズ」
もう隠し通すのは無理だと言外に伝えると、彼は小さく頷いた。旅をする過程で彼女はあらゆる物を目にすることになる。その中には必ず、彼が隠していたかったシャーレ族の本質も見えてくるはずだ。
「分かってる。要件はこれだけだ。出立はいつもどおりか?」
「彼女の予定次第だな」
「私から教会の者たちに事情説明はしてあるが……」
「まだ、決めあぐねてて……」
「友人にでも相談したらどうだ?」
「えっとそれは……」
教会内は頻繁に人が入れ替わる。各地区に複数ある教会で数年ごとに奉公先が変わるシステムの仕様上、ひとところには長く留まれないのだ。故に友人と呼べるほど仲の良い人はいないと、彼女は寂しそうに首を横に降った。
「まあ、それは後で考えよう。どうやら今日は来客があるようだからな」
「来客?」
「ああ。もうすぐ来るぞ」
橙色に染まり始めた空の向こう。藍色と混じり合う地平線の彼方。ジッとなにかを待つように見つめる白に、ジャズは思い至ったように身を乗り出した。
「海魔か!?」
「小癪だな。水路から上がってきたようだ」
面白いものを見つけたかのように彼は笑う。新しいおもちゃを与えられた無邪気な子どものように、その純粋無垢な瞳には僅かな狂気を孕んでいた。
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