深度2 ポストマン
ちょうどお祈りの時間と重なっているからか、食堂の中は人がまばらだった。控えめながらも腹の虫が唸り声をあげ始めたリリーに適当な席に座るように促し、マリアは厨房へと向かう。
二十四時間空いている食堂では手の空いた者が調理できるよう、何が入っているかが記載されたプレートがあちこちに貼ってある。その中に朝食の残りであるスープが入った鍋とパンを取り出す。鍋に火をかけ直しながら、パンをトースターに入れていると厨房の入口からひょっこりと白い頭が飛び出してきた。
「すまない、パンとスープをもう一人分用意してくれないか」
「あら。とってもお腹が空いているのですね」
「あ、いや、そうではないのだが……とにかく二人分用意してくれると助かる。皿はちゃんと、二人分で」
それだけを伝えて恥ずかしそうに引っ込んでいったリリーにマリアは小さな笑い声を上げた。見た目を鵜呑みにするならば働き盛りの成人男性なのだから、二人分食べたところでおかしくはないのに。もしかして、遠慮しているのだろうか。
「大皿に入れてあげたほうがいいかな。でも器は分けてって言ってたし、大皿じゃあ逆に多すぎ?」
手に持った木の器を棚に戻したり、ボウルと変わらないサイズの器を取り出してみたりと右往左往したが結局当初の通りお盆を二つ用意し、それぞれに分けて盛り付けた。スープとトーストしたパンのみの質素なメニューだが、果たしてこれで足りるのだろうか。
もう少し何かあったほうがいいかと厨房を再びうろうろしていると、再び扉が開き白い頭が覗き込む。彼は調理台に置かれたお盆を片手で一つずつ持つと、棚を覗き込んで唸り声を上げるマリアを怪訝そうに見つめた。
「何をしているんだ……?」
「それだけじゃ足りないかと思いまして、追加の食べ物を探していました」
「僕はこれで足りる。十分だ」
「でも、二人分と」
「これは僕が食べる分じゃない」
片方のお盆を軽く持ち上げた彼にマリアは首を傾げる。一人で二人分食べるのではない?ではなぜ二人分と?
「もし私の心配をしてくださったなら、申し訳ないのですが……」
「ああ、君は既に朝食は食べたのだろう。それは知っている。そうではなくて他に、だな」
「それは私の分なんだよ」
もう一つ声が増えたことにぎょっとして厨房の入口を見ると、扉に手をかけた姿でジャズが面白そうに笑いを携えていた。クツクツと堪えきれないように喉の奥から笑う姿は非常に珍しい。ジャズ教皇といえば小難しい顔で聖書か収支報告書とにらめっこしていることで有名なのに。
「ジャズ様!お祈りは終わったのですか?」
「少し前にな。急いで孤児院の見回りをして戻ってきたところだ。それより朝食を食べそこねていて腹ペコなんだ。さっさと食べてしまおう。リリー、運んでくれ」
「おいジャズ。君、その呼び名はわざと……」
「まあまあ」
ジャズに肩を捕まれ、ずるずると厨房から押し出されるリリーに続いてマリアも食卓につく。諦めたように席についたリリーは湯気立つスープに口をつけ、小さくパンを引きちぎった。半分ほど口に含んだ頃、同じように食べ進めていたジャズがおもむろにマリアとリリーの顔を交互に見やる。
「で、あの話は聞いた?」
「養子の件なら聞いた」
「じゃあマリアで異存はないな」
「僕はないが、ちゃんと説明してやりなさい」
「だそうだ、マリア」
「えぇ……?」
一体何の話をしているのだろうか。会話に取り残され首を傾げると、困ったように額に手を当てたリリーが空になったスープの器を盆ごとジャズへと寄せる。同じように食事を終えたジャズはそれを近くにいたシスターに任せ、おもむろに立ち上がった。
「込み入った話は私の部屋でしよう。ここは内緒話には向かない」
金糸のような髪を振り、夕日のように眩い瞳を細める。天から舞い降りた神の御使いであると名高い彼の優雅な笑みに、周囲の視線が自然と集まる。そうしていると自然と見たことのない人物に視線が集まり、居心地悪そうにリリーは腕を撫でた。
「そうだな」
漏れ出る溜息を飲み込み、椅子を引く。二人が去っていく様を呆然と見送ろうとしていたマリアはふと、二人が彼女を待っているかのように足を止めていることに気がついた。
「マリア」
誰もが見惚れるような麗しい優しさの裏に有無を言わさぬ強引さが見て取れる。手招きはゆったりとしているが急かされているような焦燥が背を撫で、慌てて立ち上がった。あー、ともうー、とも取れないような動揺の感嘆符を漏らしている間に、彼らはどんどんと歩みを進めてしまう。
何かを尋ねようと、しかして何を訊けばいいのかも良いのかもわからず、売られていく子羊のようにジャズの私室へと足を踏み入れた。
「あの、私、お茶を……」
「君は座っていて」
「座っていなさい」
二方向から押し込められ、逃げ場を失った不安感から枯れ草のようにしなしなとソファーに座る。来賓用に誂えられたなけなしの寄付金の結証は大変素晴らしい座り心地だったが、クッションといっしょに自身の気分も沈むようだった。
「で、どこから話せばいいだろう」
戸棚から紅茶の茶葉を取り出し、ケトルに電源をいれる。次第にふつふつと沸騰し始める音が聞こえ始め、小洒落たティーセットが奏でる陶器の音が響く。窓辺から差し込む温かな日差しと微睡みを誘う適温にマリアは現実逃避の目が泳いだ。
しかし、逃れようにも逃走経路は全て封鎖済み。満を持してというように僅かな湿気と紅茶の香りが漂い始め、ジャズが席についてしまった。
「とっても聞きたくなさそうなところ申し訳ないが、この話は絶対にしなければならない話でね。理由は大凡察しているのではないかな?彼は試すような言葉を吐くのが好きでね」
「人を悪者みたいに言うのはやめてくれないか。君のほうが人間を試すようなことばかりしているじゃないか。例えば
コツコツとわざとらしく指先で金細工が施されたテーブルを叩く。その姿すら様になるのは容姿故か、それともその見た目にそぐわぬ洗練された所作故か。和やかな表情の裏にバチリと静電気のような空耳が聞こえ、マリアは更に遠い目をした。
「貴方には負けます。嘘か本当か分からないようなことを平然と表情も崩さず言うものですから誰もが騙されるんですよ。生粋の虚言癖とは恐れ入る」
「耳障りの良い文言を自伝のように振るう人は言うことが違うな。その聖書の執筆者を今一度改めたほうがいいのではないか?」
その聖書、執筆者はジャズ様なんですけど。思わず両手を重ね合わせ、祈りのポーズをしてしまった。月影教は明日を精一杯生きるために自身を磨くことを美徳としている宗教なので、神は我々をただただ見守る傍観者だ。祈りは明日を作ってくださることに感謝を示す行為。故にきっと祈っても神は助けてくれないだろう。でも、願いが届くならどうか彼らの行いに呆れ返ってちょっとだけでも天罰が下りますように。
虚無を見つめ始めたマリアの様子に、二人は顔を見合わせ気を取り直すように咳払いを一つ。ほんの少しだけ顔を赤らめたジャズが申し訳無さそうに頬をかいた。
「すまん、話が逸れた。この軽快な冗談が懐かしくて」
「25年に1回聞ける軽口だ。人間に換算すれば3回聞けるかどうかといったところだな」
喉の奥から響くようにくつくつと笑う。面白がるような視線がマリアへと向いた時、彼女はとうとう崩れ落ちるように背もたれへと落ちた。
頭の中を急速に駆け巡る、ある結論。今までの発言から度々感じていた違和感。その正体にたどり着いた時、嫌でも鼓動が高鳴ってしまう。そう、つまりリリー・ショアという人物は……。
「彼の名はリリー・ショア。私の伯父に当たる。察している通りシャーレ族に生まれ、そして君にとっての大伯父、というやつだな」
ふらりと頭が揺れる。脳を直接揺さぶられるような衝撃に目眩がした。シャーレ族というものは人間にとって神にも近しい存在だ。一人居ればそれだけで世界中の人々を狂わせると言って良い。そのような天上の伝説が目の前に二人も並び、書類上の関係では縁者に当たるという事実が重くのしかかる。
未だ嘗てない重圧にとうとう、体裁という殻が音を立てて崩れた。
「お父さん!!どうして大事なことをその時になってから言うんですか!!」
「先に言うのはサプライズにならないかと思って。君、シャーレ族に変な憧れがあるだろう。まあ人間って例に漏れずそんな感じだけれど」
「お父さんはいつも知らせが遅いんです!!事前に相談してくれれば心構えぐらいは作れたのに……!」
シスターと教皇。その立場の差は歴然だ。故に父と子だったとしても、たとえ赤子の頃からその側で大切に愛されてきたとしても職務中は一線を超えることはしなかった。この修道服に誓って公私混同はしまいと幼い頃から自分を律してきた。全ては優しく見守ってくれる父に、ジャズに報いるために自身で決めたことだ。そんな人生で一番の決意をジャズのサプライズなどでぐしゃぐしゃにされた怒りに、マリアは顔を覆った。
恥ずかしさと怒りの合間に、正面から聞こえてくる笑い声。そっと指の隙間から顔をのぞかせると、堪えきれないように口元を抑えて笑うリリーの姿があった。
「……リリーさん」
「くく……いや、すまん。ふ、ふふ……想像以上に仲が宜しいようで、く、面白かっただけだ」
「最後の一言で誤魔化しが破綻しましたよ!」
ついには吹き出したリリーに精一杯の不服の念を送るが、彼はどこ吹く風というように湯気立つ紅茶を啜った。忌々しいほどに様になる所作に怒る気も失せてくる。それに肝心な部分がまだ全く説明されていない。
「それで、大伯父様が訪ねてきた理由については?」
「はぁ……ああ、そうだったな。お前たちが面白くてうっかり忘れそうになっていた」
すっかり背もたれに落ちていた居住まいを正し、足を組み直した彼はジャズに視線を送る。そっと立ち上がった彼が自身のデスクから探しものを始めたのを見送り、彼はマリアに向き直った。
「僕は25年に1回この教会を訪ねるんだ。正確には、この教会にいるジャズに会いにね」
「家族に会いに、ですか?」
「それもあるが主目的は別だ。僕は25年に1回やらなければならない仕事がある。それが、アレだ」
カタン、と木製の戸が閉まる音と共に視線が集まる。ジャズがひらひらと宙を泳がせているのは真新しいレターセット。まだ何も綴られていない紙が卓上に置かれ、マリアは首を傾げた。
「手紙……ですか?」
「送り主はジャズ、受取主は……」
彼の母親だ。
「母、親……」
母親。その言葉に胸が詰まる。考えたこともなかった。ジャズはいつも自分のことは何一つ話はしなかった。身寄りのない孤児達に囲まれ、人々に愛され、ただ存在するだけで拝まれる人ならざる者。そこに家族の形があるのだと、思い至りすらしなかった。
「彼女に子供たちの手紙を届けるのが僕の仕事なんだが、如何せん一箇所に留まっているのはジャズくらいでね。他の子が今何をしているのかはっきりとわからない状況なんだ。それ故に一旦情報収集がてらジャズのもとを尋ねるのが通例で……」
リリーの言葉はだんだんを右から左へ、脳に到達する前に横へと流れていく。
母親、マリアにとって祖母に当たる人物。今日一日でどれほどの戸籍上の家族が現実となって語られただろうか。ああ、そうだ他にもいるのか……。他の子、他の子が……。
「え?他の子?」
「ん?この世界に散らばっているシャーレ族は全部で9人だ。僕と妹、そして甥と姪が7人。ジャズは下から3番目で三男だから上に伯父と伯母が4人、下に叔父と叔母が2人いるんだが……ジャズから聞いていないのか?」
マリアはギリギリと壊れたブリキ人形のようにぎこちなく、ジャズへと振り返る。サッとそっぽを向くように視線を逸らされ、何もかもを悟った。これ、わざと黙ってたな。
「お父さん!!!」
「あーはっはっは!いやぁ!隠してたわけじゃなかったんだがな!」
全く悪気のなさそうな晴れやかな笑い声にマリアは今度こそ力強く天を仰いだ。居るかいないかはっきりしない神様!どうかこの人に天罰を与えてやってください!!
さすがの説明不足にリリーも呆れたようで、非難めいた視線を送る。しかしどこ吹く風と言ったように上機嫌に紅茶を飲み干したジャズは、デスクから取り出したらしい世界地図を卓上へと広げた。
「ここまでの話を要約しよう。つまるところ、ポストマンたる伯父さんが兄妹達を訪ねて世界中を旅しようって話。これは理解できるね?」
「……分かりました。続けてください」
「では世界地図を見てくれ。私達がいる場所はここ、セントラルだ」
地図の中心にクジラの形を模した駒が置かれる。大陸の中心地に書かれたセントラル地区という文字を追い、二人は頷いた。
「この世界は89%海に沈んでいる。そのうち生物が生存可能な陸地はこのラフト大陸一つ。今は国というものはなく、7つの地区がそれぞれの自治権を持つ区域制度による支配が中心だ」
中心に聳え立つ教会と共に発展した信仰の街、セントラル地区。ここは月影教が管理する地区であり全ての地区と隣接している唯一の場所でもある。
「他の兄妹達は皆、7つの地区に散らばっている」
この世界の地区はセントラルを中心に名前がつけられている。南に位置するサウスサイド地区、東に聳えるイーストサイド地区、西を彩るウェストサイド地区、北に蠢くノースサイド地区。その合間を縫うように森を支配するフォレストサイド地区、湖を有するレイクサイド地区。この7つにはそれぞれの文化、歴史があり、その姿は目まぐるしく移ろっている。
「ここで問題なのが、誰がどの地区に居るかは分かっていてもその地区のどこに居るか分かっているやつが半分もいない、というところだ」
「ジッとしていられない性分の子たちばかりだからな……」
「シャーレ族って問題児しかいないんですか?」
愛娘にジトッと湿った視線を送られた父が反射的に顔をそらすのを横目に、リリーは卓上に並べられた駒をそれぞれの地区においていく。海の生き物を模したそれらを眺め、彼は困ったように眉根を寄せた。
「こほん、一応私からも一報はいれるつもりだよ。それにもう一つ重要な目的があるからね」
「はぁ……やっと君にこの話を聞かせた本題に入れる」
そうだ。ただリリーが他のシャーレ族を探し出し手紙を預かるだけだというのなら、マリアは頭が痛くなるような新しい家族構成を聞く必要はなかった。いや、何れは聞かされるかもしれない難題だったのは間違いないが。兎も角、シャーレ族がひた隠してきた事実を今告げる理由が、その本題とやらなのだろう。
「マリア、この旅についてきてくれないか」
「え?」
信じられないようなものを見る目でリリーを見る。この旅について行く?何故?どうして?
「シャーレ族に会う、と言っただろう。皆に新しい家族を紹介して回りたいんだ」
「家族……お父さん以外の……」
そっと、酷く波打つ胸に手を当てる。ジャズ以外の家族。居ると知らなかったその存在がだんだんと明確な色彩を伴って心臓を叩く。父親の存在だって自分には過ぎたるものだと思っていた。それが、大伯父が目の前にいて、他にもたくさんの家族がいて、それに今から会いに行こうと優しく告げられている。
その事実がどれだけ胸を詰めるものか。
「少し、考えてみてくれないか」
7つの駒が置かれた世界地図。その輪郭を指でなぞり父はほんの少しだけ寂しそうに、けれど溢れ出る愛おしさを隠しもしない暖かさで目尻にシワを寄せた。
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