WHITE LILY

とろろ

浅瀬からの誘い

深度1 水槽

 揺れ動く炎と溶け出す蝋を手に男は薄暗く湿った石畳を歩く。時折響き渡る水滴の音が湿った空気と共に肌を擽る。

 足元より先の見えない闇の中、男はまるで何もかもが見えているかのように迷いなく一点を目指していた。


 一切の光を通さぬ地下。陽を断絶したその地に一際重苦しい扉が炎に映し出される。幾重にも折り重なる鎖と錆びついた錠。それら一つ一つを金属が重なり合う甲高い音と共に解き、扉へと手をかける。蝶番が悲鳴にも似た音を奏でるその先に、男は早足に駆け寄った。


 石畳の最奥。明かり一つないその場所に不釣り合いな巨大なガラス。ステンドグラスを思わせる明滅を繰り返す淡い輝きと蝋燭の炎のように時折揺らめくもの。捧げ物のように台座に収まるそれは巨大な水槽だった。

 その水槽には形ある生物は一片たりともいない。まるで海底を切り取ってきたかの様な深い蒼を携え、脈打つように波を泳がせる海を抱えているだけ。

 男はそれに祈るように膝をつき、深く重い息を吐いた。


「……久しぶり」


 水槽が大きく波打つ。ゴポリと小さな気泡を生み出した水が断続的にゴポリ、ゴポリと呼吸をするように水面へと泡を送る。男の言葉に挨拶を返しているようであった。

 男はその様子に小さく笑みを溢し、明かりを持つ手と逆手に持った小さな袋を水槽へと掲げる。


「着るものを用意した。出てこられそうか?」


 ビシャリ。

 一層激しく揺らいだ水面の一部が石畳に散る。水滴を飛ばし、グラグラと揺らめいた海が水面へと上っていく気泡とともにその形を成していく。


 球体から徐々に4つの水柱が伸び、さらにその水柱から枝分かれするようにあちらこちらに根を伸ばす。神経のように無数に枝分かれした水がやがて肉を作り上げるように折重なり、色を変えていく。中心へと渦のように集う水が、鼓動を伝える臓へと変化する頃には一人の人間が水槽の中を揺蕩っていた。


 寄せては返す波の頂点を思わせる真っ白な髪の合間、深く暗い海を思わせる青藍の瞳がゆったりと瞼をこじ開ける。何もなかった海から、一人の人間が目を覚ました。


「よく眠れたか?」


 水面へと手を伸ばした海が、水槽の淵に触れる。緩慢な動作で水槽の中から這い出てきたその人間は、男の質問に小さく頷いた。


「服を着たら直ぐに上へいこう。ここは暗く、寒いだろう」


 手渡された袋の中身を一つ一つ確認しながら、小さく頷く。そして彼はまるで今思い出したかのように軽く喉に手を当て、空気と震えの交じる音を吐き出した。


「おは、よう、ジャズ。にじゅう、ご、年ぶり」


 25年ぶり。途切れながらも伝えられた言葉はとても優しい色を含んでおり、ジャズと呼ばれた男は噛みしめるように口を引き結んだ。悲しみを表すように噛み締めた唇と嬉しさを堪えきれない口角に振り回されながら、曖昧に目を伏せた。


「おはよう。リリー」


 光を失った水槽と親指ほどに小さくなった蝋燭。暗く冷たい石の底で海から這い上がってきた男はその言葉に心の底から嬉しそうに微笑んだ。





ーーーーーーーーーーーーーー





「マリア!ちょっと来てくれ!」


 晴れ渡る空と爽やかな風が頬を撫でる太陽の下。ところどころ苔むした石造りの教会の中庭で、草木に水をやっていた一人の女性が顔を上げる。自身を呼ぶ声にキョロキョロと周囲を見渡すと、中庭に続く通路の途中に軽く手を上げる人の姿を捉える。


 彼の名はジャズ・モンストロ。この教会の管理者であり、教会内でもとても上の立場にいる人物だ。手招きに応じて早足に近づいていくと、その背には見覚えのない人物を連れていることに気がついた。二十代ほどの若い男はどこかぼんやりとこちらを見ていた。


「すまない、マリア。私が戻るまで彼の面倒を見てやってくれないか」

「え?は、はい、ジャズ様……この方は……?」

「礼拝堂でお祈りをして、孤児院の様子を見たらすぐに戻って来る。頼んだ!くれぐれもよろしく頼む!」

「ええ?あ、ちょっと!ジャズ様!?」


 引き止めようと名を呼ぶ頃には時既に遅し。駆け足に礼拝堂へと消えていったその背に、行き場をなくした手がふらふらと宙に浮く。ガックリと肩を落としたマリアは恐る恐る後ろへと振り返った。

 置いていかれた客人はぼんやりと中庭を見つめている。眩しそうに降り注ぐ光を眺め、ぽつりと聞こえるか分からないほどの声量で薄く呟いた。


「リリー」


 辛うじて聞き取れたと共に彼の目線を追う。その先には中庭に植えられた白百合が大きな花弁を揺らし、控えめに頭を垂れていた。先程まで水を被っていたそれらは水滴を小さく落とし、美しく咲き誇っている。

 彼は白百合を指差し、次いで自身の胸に手を当てた。


「僕は、リリー・ショア」


 白百合をもう一度指さした彼は「同じ名前だ」と小さく微笑む。真白な髪と控えめな笑みが太陽に輝く白百合とよく似ていて、マリアは思わず納得したように深く頷いた。


「ショアさん、ですね」

「リリーでいい」

「ではリリーさん。はじめまして。私、マリア・モンストロと申します」


 白を基調とした修道服の前で手を組み、優しげに微笑む。彼女の名はマリア・モンストロ。世界中で信仰されている月影教会のシスターである。

 彼はその自己紹介に少し驚いたように瞳を見開き、ぱちぱちと瞬きを二回。しばし考え込むように口元に手を当て、マリアを一瞥した。


「……モンストロ?」

「はい。やっぱり、そこが気になりますよね」


 彼女の自己紹介はいつも姓の部分で引っかかることが多い。理由は単純だ。ジャズ・モンストロと同じ姓であり、彼が教会で絶対的な立ち位置に居る所為である。月影教を信仰している者なら、もしかしたらしていなくても、必ず引っかかる。それほどまでに大きな意味を持つ姓なのだ。


 リリーも例に漏れずなにか引っかかりを覚えたようで姓を繰り返しながら物思いに耽っている。


「リリーさん、立ち話もなんですしせめてここから移動しませんか?」

「ん、ああ……そうだな」

「ジャズ様はリリーさんをどちらにお連れしようとしていたのでしょう……」

「確か、朝食をとりにいこうと。その後、時計を見て思い出したように悲鳴を上げていた」


 マリアは自身の右腕に巻いた腕時計を確かめる。時間は朝9時を回ったところ。礼拝堂が一般開放され、ジャズが信徒たちに説教をする時間だ。どうやら時間を失念し、慌ただしく代役を立てたようだ。


「全く、ジャズ様は……分かりました。では食堂にご案内しますね」

「すまない、手間をかける」

「いいえ。教会は開かれた場所ですから。誰であろうとも心を尽くして接するのが私の責務です」


 汝、人々を愛し、人々に愛され給え。月影教の聖書の一説に書かれた言葉だ。その教えに則り、教会は誰でも訪れる事ができる。食事や一時の寝床を提供することもよくあり、客人が訪ねてくることは珍しくなかった。リリーも例に漏れず、ほんのひと時の安寧を求めて教会を訪れたのだろうとマリアは解釈していた。


「こちらです。食堂は礼拝堂の近くにあるんですよ」

「そうなのか」

「礼拝堂は今お祈りの時間ですが、お食事が先ですね!なにはともあれ資本の体から!お祈りは時間ではなく意義が大事ですから。またあとで礼拝堂を訪れてみてください」

「ああ」

「それからあちらは……」


 食堂への道すがら、教会内部の案内をしながらゆっくりと歩く。しかし不思議なことに二人分の足音が嫌に大きく聞こえる。先程から、リリーは案内を上の空で聞いており、何かをこらえるように何度も口元を覆っていた。


 聞いていいのかわからない、とありありと伝わってくる様子に段々とマリアも言葉に詰まってくる。そうして訪れた必然的な沈黙の中。リリーは非常に申し訳無さそうに口を開いた。


「すまない。どうしても、その……君の姓が気になってしまって」

「いえ!いいのです!気になるのは当然だと思いますから……」


 リリーの疑問は最もだとマリアも理解している。彼女は小さく溜息をつき、少し離れた位置にある礼拝堂の扉を見つめた。


「ジャズ様とこの教会についてはどのくらいご存知ですか?」

「大体のことは知っている。教会の成り立ちも、立場のことも」


 月影教と呼ばれる宗教はこの世界に根付いた最も古い教えであり、誰もが信仰する最もメジャーな宗教だ。始まりはシャーレ族という悠久の時を生きるおとぎ話のような一族が行っていたおまじないだ。彼らの存在は秘匿されており、実在するのかどうかも今なお怪しい存在だ。


 彼らのおまじないは月に向かって明日が来ることを祈るという何の変哲もないものだが、その祈りが根付いた頃には小難しい言葉でいくらか解釈の余地がある教訓がまとめられた聖書が出来上がっているほど、世界中で信仰されていた。

 しかし、それがとんでもない事態に発展することになったのだ。


「月影教の前身はあちこちに乱立した。宗派の違いや祈りの違いなので大きく揉めた、と言われているな」

「ええ、ついには戦争にまで発展しようとしたその時、あの人が現れたのです」


 祈りの始まり。一人のシャーレ族を名乗る人物の登場で月影教はやっと形を作り始める。勝手に広め、勝手に争い始めた人間に呆れ返った伝説上の生き物が突如として現れ、あっという間にすべてを統合してしまったのだ。そうして生まれたのが神に最も近しいと言われたシャーレ族の一人を頂点とした宗教、月影教である。


 さて、ここまでの話で大方察しはついているだろう。疑問の矛先たるモンストロの名を冠する者、ジャズ・モンストロは一体何なのか。


「ジャズ・モンストロ、月影教の唯一の教皇にして正真正銘のシャーレ族。乱立時代から老いることも死ぬこともなく人々を導き続ける偉大なる者、だったか」

「ジャズ様が聞いたら恥ずかしがって怒りそうですね」


 つまるところ、モンストロの名をこの教会で名乗るということは彼の何かしらの関係者であることを公言するようなものだ。奇異の目で見られるのは当然の帰結である。彼女もそれはよくよく分かっているのか、困ったように肩を竦めた。


「私はジャズ様の養子なんです。シャーレ族ではありませんし、特別な力もありません」

「養子……」

「はい。教会に併設された孤児院に引き取られて、それから養子に……本当にそれだけで……リリーさん?」


 多くの人はマリアをシャーレ族なのではないかと憧れと畏怖の目で疑う。それだけ人間にとってシャーレ族というのは憧れの的だ。それは例に漏れず、マリアも同じこと。シャーレ族とはその存在一つで誰もが憧れる。


 存在をひた隠しにしている彼らだが世界にたった二人だけ自分がシャーレ族であると公言している者がおり、その人もある界隈で頂点に立ち、世界中に名を馳せている。優秀で容姿に優れ、圧倒的な力を持つ彼らに憧れないほうが無茶だ。


 リリーももしかしたら、マリアをシャーレ族と勘違いしたのかもしれない。そう考え釘を刺すように訂正を重ねたのだが、彼は質問する前よりも深刻そうに深く考え込んでしまった。


「養子……養子……ジャズが……そうか……養子を……」

「リリーさん?大丈夫ですか?リリーさーん?」


 眼前で手を降っても彼はピクリとも動かない。何度も同じ言葉を繰り返し、そのたびにうんうんと唸っている。どうしたものかと困り果てていると、彼は眉間に寄ったしわを解すように揉み込み、重苦しく息を吐いた。


「この件に関しては君にだけ聞いても解決しないな。うむ、そうだな。すまない、もう大丈夫だ」

「全然大丈夫そうには見えませんが……」

「問題ない。それより早く食堂に行こう。考え込んだら腹が減ってしまった」


 気を取り直すようにそう告げた彼は、スタスタと先を歩いてしまう。慌てたようにその後に続き、再び食堂への道を歩き始めた。その間、無言は寂しかろうとリリーからの要望で教会の案内を再開してほしいと頼まれ、マリアは再びあちこちを説明し始めた。


「今度はちゃんと聞いて下さいね?」

「もちろん」


 興味深そうに周囲を見つめる姿は新しい事物を前にした子どものようだ。何度かあたりを見渡すように視線を彷徨わせていたリリーは、楽しそうにマリアの話を聞いている。そうして説明に熱が入り始めた頃、ふと一つのガラスを前に足を止めた。

 中庭から離れた石造りの廊下に飾られたステンドグラス。海を思わせる風景を眺め、彼は目を細めた。


「この海は変わらないな。G.R.1936年にこの教会のために作られたものだ。今は……何年だ?」

「今はG.R.3662年です。前にもこれを見たことが?」

「ああ。これが作られてから10年以上経ってからだが。できれば完成したときにこの目で見たかったのだが、生憎時期が合わなくてな」

「ふふ、そんな事を言ったら1700歳以上生きていることになってしまいますよ」

 

 彼の言う通り、このステンドグラスは1700年以上前に作られた一種の記念品だ。教会に記録が残されており、今なお信徒達に心の豊かさと美しさとは何かを問いかける芸術品の一つ。増改築を繰り返すこの教会で唯一変わらずこの場所に在り続けている教会の古株だ。


 この教会を訪れたことがある者なら誰もが目にしたことがあるだろう。しかし彼の目は何かが違う。数年の間に目にしたのとは、遠い昔を思わせるような色を浮かべている。

 どこか懐かしいものを見るように優しく細められ、旧友に再会したかのような安堵を抱いているように見えた。それこそ、1700年も前から知っているような。


「冗談、ですよね?」

「さて、どうだろうな。それとも僕が長い時を識る者だとでも?」


 一瞬、息を詰めた。心臓が激しく高鳴る。彼の言葉が何を指しているのか。その答えにたどり着いた時、無意識のうちに背筋が伸びた。


 この世には長い時を識る者がいる。悠久の時を生きる、ごく一部の存在。それらは長らく秘されており、それが何なのか、誰であるのかははっきりとしていない。世に広く知られているたった2名がその存在の証左。そしてそれだけが、そのモノ達に繋がる唯一の道。誰もが憧れる伝説のイキモノ。シャーレ族。


 いや、あるはずがない。いるはずがない。この手の冗談はよくあるのだ。憧れるがゆえに、不可解がゆえにある些細な冗談だ。

 マリアはそう自分に言い聞かせ、表情を隠すようにリリーへと背を向けた。


「さ、冗談を言っている間に着きましたよ。ここが食堂です」


 ほんの少しばかり浮かんだ疑いを握りつぶし、木製の扉に手をかける。僅かに漏れ出るパンが焼ける匂いに意識を向け、背後から腹の鳴るような音を聞きながらそっと開け放った。


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