第16話 氷の恋人


 その日、練習が終わった後、エドゥアルドは急いでダンスの練習場を出た。学科の提出物を出し忘れたことを思い出したのだ。いつもは、グズグズとクラウスの後をついて回るのだが、今日はそんな余裕はない。数学の教師は、口やかましいのだ。

 慌てて自習室まで戻り、課題を持って教師の元に出頭した。なんとか間に合い、ほっとして自室に引き取ろうと長い廊下を歩いていると、練習場から、ピアノの音が聞こえてきた。


 ……音楽の先生がいるのか。


 だったら、クラウスもまだいるだろう。自分だけがのけ者になったような気がして、エドゥアルドはちょっと気を悪くした。

 練習場の中から笑い声がした。そっとのぞき込む。ピアノの前に座っている人の横顔が見えた。

 音楽講師ではなかった。やや猫背気味だ。薄い栗毛の髪広く秀でた額。フェルナー王子だ。祖父フランティクス帝の長男、エドゥアルドの、もう一人の叔父である。

 フランティクス帝には他に、フラノ大公という次男がいる。メリッサの夫だ。ウィスタリア国の皇帝は、長男が跡を継ぐ。それは絶対だ。したがって次男フラノは早々に王子の身分を離れ、大公を名乗っている。

 一方で長男フェルナーは、次期国王として誰はばかることなくプリンスの地位に君臨している。皇帝の孫であるエドゥアルドが、便宜上プリンスと呼ばれるのに対し、フェルナーは、正真正銘ウィスタリア皇帝の跡取りというわけだ。

 エドゥアルドは、フェルナー王子とろくに話したことがなかった。フェルナーは普通ではないという。病的に神経質だった母親の血を受け継いでいるのだそうだ。あまり近づかないほうがよいと、メリッサからもディートリッヒ先生からも言われていた。


 今、練習室の中には、フェルナー王子の横にクラウスが立っていた。熱心に楽譜を指さし、何か言っている。

 クラウスの指先を見ながら、フェルナーが鍵盤を叩いた。音階が半音上がり、そして崩れた。しまった、という顔でフェルナーが両手を素早く動かす。音はますます外れ、もはや収拾がつかない。

 フェルナーは、ひどくあせっている様子だ。横に立つクラウスの顔に、笑みが浮かんだ。

 ……あれ? 笑ってる?

 クラウスが笑うのを、宮殿に来てからエドゥアルドは見たことがなかった。だから、笑わないひとになったのだと思っていた。

 それでも心の中では、あの白い駄馬に乗って勇ましく表れたあの青年と、ぴったり重なって見えた。匂いでわかる。隠しても隠しても染み出してくる本質、それは、優しさ。

 ただ、その優しさがエドゥアルド自身に向けられていないのが、問題だった。

 それが。

 ……なんだ。笑ってるじゃん。

 あの時と同じ、屈託のない笑いだ。心底楽しそうに笑い転げている。

 ……今でもあんな風に笑うんだ。

 それなら、なんで自分といるときは苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのだろうと、エドゥアルドは不服に思った。


 フェルナーが楽譜から目を上げた。やられた、という顔をして、傍らに立つクラウスを見上げる。その目が、入り口に立っているエドゥアルドの上に止まった。

 にっ。フェルナーが口角を引き上げた。まるで共犯者のような、腹黒い笑いを浮かべている。

 クラウスは、エドゥアルドに気づかない。

 フェルナーが何か言った。よく聞こえなかったようで、クラウスが屈みこむ。

 エドゥアルドは、息をのんだ。

 フェルナーがいきなり伸び上がり、クラウスの唇にキスをしたのだ。クラウスは抗わなかった。笑みを浮かべながら、フェルナー王子の口づけを受けている。

 短い時間だった。でもエドゥアルドにとっては、息が詰まるほど長い時間だった。

 フェルナーが離れ、クラウスが顔を上げた。頬が紅潮しており、その表情はびっくりするくらい生き生きしている。

 黒い瞳が、入り口で立ち竦んでいるエドゥアルドを捉える。

 すごく腹が立った。くるりと後ろを振り向き、エドゥアルドは立ち去った。

 二人は追ってはこなかった。後ろからまた、危なっかしい変調の調べが聞こえてくる。



 次に会った時、クラウスはまったくいつも通りだった。フェルナー王子とのことは、おくびにも出さなかった。エドゥアルドに見られたことに気がついた筈なのに。

 だが、こちらからは問い詰めにくかった。第一、何と言えばいいのか。そもそもエドゥアルドが何か言う筋合いではないのだ。クラウスの方から、謝罪し、弁解してくるべきだ。

 相変わらずクラウスは冷たく無表情だった。注意深く窺っても、ほんの微かな微笑さえも浮かんでいない。エドゥアルドのダンスにもダメ出しばかりだ。なんだか、ひどく嫌っているようにさえ感じさせる。

 自分はこんなに努力しているというのに。クラウスに気に入られようと、毎日、一生懸命、練習しているというのに。言われた通りのステップを踏みながら、エドゥアルドは、ただただ不満だった。


 「ほら。完璧だろ?」

激しい動きから一転、ぴたりと静止してエドゥアルドは言った。

「お辞儀」

「あ……」

 最後にパートナーに敬意を示すように言われている。それを忘れてしまった。慌ててクラウスと向き合い、胸に手を当て礼をする。

 「いいでしょう。休憩を取ります」

 クラウスは言った。褒めている風ではない。

 エドゥアルドは、バーにかけてある柔らかい布で汗を拭いた。こっそり窺うと、クラウスは出窓に腰かけていた。ぼんやり窓の外を見ている横顔が見える。

 冷たい顔ではなかった。むしろ……寂しそうな?

 孤独。寂寥。

 ……あれ?

 エドゥアルドは思った。

 それは直感だった。もしかしたら、クラウスには、誰か好きな人がいるのかもしれない。もちろん、フェルナー王子などではない。冷たく凍えた氷の恋人が、クラウスの心に、茨の棘を張り巡らせている……。





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