第11話 ラストスパート

 陸橋の上にたどり着いた。僕自身の筋肉も固くなっているような気がした。脚を前に出すことが辛くなっていた。足裏はなにも言わない。走るのを止めて歩いていることで、足裏にかかる負担も減っているようだ。

 多佳子さんも黙って歩いていた。僕は横顔を盗み見ようとした。少し茶色い紙の毛がゆらゆら揺れている。こんなに近くで女子の紙の毛を見たのは初めてだ。肩にかかるくらいの髪で横顔は隠れていたけど、肩から胸の動きで息づかいが大きくなっていることが分かった。陸橋を上ったことで疲れてるみたいだ。僕は慌てて視線を胸から外した。

 多佳子さんが不意にこちらを向いて、目と目があった。多佳子さんは力なく微笑んで、それから前を向いた。

「俊くんて、なんかお笑い芸人の誰だったかな、ちょっと前の朝ドラに出てた人に似てるよね。似てるって言われない?」

「い、いえ、芸能人に似てるだなんて、言われたことないです」そもそもそんなことを言ってくれる友だちすらいないのだ。いや、社長さんなら言ってくっるかもしれない。

 陸橋からゴール地点になるグランドが見えた。

「多佳子さん、あそこ。もう少しでゴールですから、頑張りましょう」僕は指差しながら言った。

「そうだね。もう少しだね」

「大丈夫ですか?」

「うん、下りだし、少し走れるかも」

「ダメです。下りも足裏に負担がかかるので、走りたくなる気持ちは分かりますが、ここは歩きましょう。下まで行って脚が回復したら走りましょう」僕だって体の軽くなる下りは走りたい。でも足裏のことを考えると、ここは無理できない。

 多くのランナーに抜かれていった。僕はTシャツを見たり、足元を観察したりした。部決系の仰々しいメッセージを背負って苦しそうに走る人が好きだ。笑顔を振りまくことも忘れて、コスプレなんぞしなきゃよかったと後悔しながら走る人が好きだ。もう僕たちの後ろにいるのは、二十一キロを走り切ることができない人たちばかりだけど、九十分でゴールして涼しい顔をして帰る人よりも、二時間半でゴールして這いつくばって帰る人の方が好きだ。ずっとビリっけつの人生だったから、やっぱり僕はこの辺にいる方が性に合っている。フルマラソンを完走し、ハーフマラソンが二時間を切るようになったからって、得意になっていた自分が馬鹿みたいだ。

 陸橋の下まで歩き、地面がフラットになった。

「多佳子さん、足はどうですか」

「うん、回復してきたみたい。ちょっと走ってみる」多佳子さんはゆっくりと走り出した。

 僕も同じスピードで歩を進めた。僕の脚もだいぶ回復していた。足底の骨にたまった疲労

 もまだ大丈夫。あと一キロ、走りきれる。

「俊くんは彼女とかいるの?」

 唐突にそんなこと聞かれて僕は面食らった。

「な、なにを言い出すんですか」

「なにって、別に普通だと思うけど」

 こういうのが普通なのか。僕はいまいち普通の会話というものが分からなかった。普段、会話をする相手と言えば、社長さんと運転手の三田村さんくらいだ。社長はよくバカなことを言って僕を笑わせてくれる。これでも見ろとAVビデオをくれることもある。三田村さんは僕以上に無口だ。仕事が終わるとすぐに帰り、朝はきっちり出社する。不平や不満は聞いたことがない。そういえば三田村さんが笑ったり怒ったりしたところは見たことがない。でも僕よりも頭がいいことは確かだ。だって三田村さんは運転免許を持ってるから。

「まあ、彼女はいませんけど」と僕は消え入りそうな声で答えた。

 多佳子さんのことも聞きたかったけど、僕にはそこまで踏み込む勇気はない。

「俊くんって、女の子と付き合ったこと無いでしょ?」

「いや、まあ、その、なんというか」

 女子って凄い。走りながらそんなことまで言うんだ。僕は新種の生物に触れたような気がして、恐ろしいような、もっと近づきたいような複雑な感情に襲われた。ご飯を食べる、働く、寝ると、ほとんど単純な機械のように生きている僕にとっては、走るという趣味を持てたこと自体が思いもよらないことだったのに、走りながらこんな会話をするなんて奇跡みたないなものだ。

「まぁいいけど。そんなこと」

 多佳子さんは勝手に会話を始めて、勝手に会話を閉じてしまった。

 僕はだんだんと多佳子さんに興味を持ち始めていた。初めて気安く会話ができた女性で、同じ趣味を持つ女性で、裸足ランに興味がある。そして今こうしてワラーチをつけて僕と一緒に走ってくれているのだ。なにか一つでも、普通の会話をしてみたくなってきた。

「多佳子さん」僕は馬鹿みたいに大きな声で呼びかけてしまった。

「なんですかー」多佳子さんも大声で返す。

「なんで走るようになったんですか」

「んー、なんでだろうね。たぶん、君と同じ理由じゃないかな」

「僕と同じ?」

「そう、俊くんと同じ」

 僕はこの禅問答みたいな会話に早くも挫けそうになったが、ゴールまであと一キロを切っているので、会話から逃げてはいけないと思った。

「僕は、働いているところの社長さんに進められて走るようになりました」

「じゃあ違うわ」多佳子さんはあっさり否定した。「私はね、ニートって言ったでしょ。人づきあいが苦手で、自分の殻に閉じこもってて、こんなんじゃいけないなって思って、外に出る理由として走り出したんだ。走るって一人でできるから、意外と性に合ってて。それから大会に出るようになって、別に誰か知り合いがいるわけじゃないけど、でも一人じゃなくて、なんとなくそういう距離感が心地よくて続けてる感じかな」

「多佳子さん、僕も同じです。でも、こんな風に誰かと会話しながら一緒に走ってるなんて、自分にとっては奇跡みたいなものです」

「あはは、私もだよ」

「それに、裸足ランに興味があって、いきなりワラーチで走り始めるなんて、どうかしちゃってます」

「カバーヨ・ブランコって人がいるでしょ。アメリカからメキシコの町に移って、山岳民族の人と一緒にマラソン大会を開催した人。あの人に憧れてて」

「読んでたんですか、ボーン・トゥ・ラン」

「うん。でもね、だからといってすぐに裸足で走り出せるほどの積極性はないの。だってマラソン大会にいっても、ワラーチで走ってる人なんて見たことないし。だからね、スタートのとこで俊くんの足を見たとき、思い切って話しかけなきゃって思ったんだ。裸足で走る人って、どんな人なのかなって思って」

 僕は泣きそうだった。言葉が出ないまま、ただひたすら脚を前に出し続けた。

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