第10話 足の裏
陸橋が近づいてきた。坂道では上りも下りも足底の摩擦が高まる。多佳子さんは陸橋を超えられたのだろうか。多佳子さんが着ていたTシャツの爆走天使のイラストが裸足だったことを不意に思い出した。これもなにかの縁なのだろうか。
陸橋の上り端で誰かが歩道と道路との段差に腰かけた。パステルピンクのTシャツを着ていた。僕はペースを変えずに陸橋に近づく。多佳子さんが足の裏を見ていることが分かった。足の裏を見て何を思っているのだろう?
「やっと追いつきました」と言いながら僕は多佳子さんの隣に腰を下ろした。
「お疲れー」と言って多佳子さんはにこりと微笑んだ。
「どうですか、足の具合は?」
「なんか、ちょっと無理しすぎちゃったみたい」
多佳子さんの足の裏を見ると、足指の付け根から土踏まずの内側、踵にかけて真っ黒に汚れていた。偏平足ではなさそうだ。水ぶくれはないし、血も出ていない。僕は安堵した。
「触ってもいいですか」
多佳子さんはコクリと頷いた。
「痛かったら言って下さいね」
歩道側に足をのばすようにしてもらい、僕はゆっくりと右足の足底の状態を確かめた。まず表面を軽くなぞって、異常がないか確かめた。多佳子さんは「くすぐったい」と笑い声を発した。僕はなにやらいけないことをしているようで、赤面して下を向いて「す、すいません」と謝った。
「いいよー、謝らないで。私が悪いんだし」
次に軽く踵を圧してみた。多佳子さんは「イタっ」と声を発した。次に指の裏、その付け根の部分を圧した。こちらは大丈夫なようだ。土踏まずも問題なさそう。それから踵を両脇から挟むようにして圧してみた。やっぱり痛いと言う。どうやら踵に負担がかかっているみたいだ。同様にして左足も観察したら、やっぱり踵が痛いと言った。
「やっぱり普段は踵着地で走ってるようですね。それで踵に刺激が蓄積しちゃったみたいです」
「そうなんだ。これからどうしよう?」と泣きそうな顔をして足裏に目をやった。
「ここって何キロくらいですか?」
多佳子さんはなにやらゴツいデジタルの腕時計を見て二十キロと言った。
「あと何キロでゴールですか?」
「たぶん、あと一キロちょっとだと思うけど」多佳子さんはキョトンとした顔をして答えた。
僕は計算を放棄していることがバレたと思い、頬が紅潮していくのを感じた。
「どうしますか。リタイアするか、もう少し休んでから走り出すというか、歩き出すか」
「えー、ここまで来てリタイアなんかしたくない!ぜったいヤダ!」と駄々をこねるように言った。
「じゃあもう少し休んで、歩けるか確認してから考えましょう。それから、もう無茶はしないで下さい」といって僕は多佳子さんにワラーチを渡した。
多佳子さんはワラーチをつけると、ほっと安心したような表情になった。
「道が滑らかなら問題ないみたいだけど、凸凹してるとこはキツかった。とくに企業団地を出たあと。あれは最悪だった」
「ですよね。僕も心配してたんです。こんな路面を走って大丈夫かなって」
「凸凹のとこ抜けてちょっと安心したんだけど、坂はさすがに無理だと思った」
「そこで自分が追いついた訳ですね。良かったです」
「ごめんね。コンビニで待ってないで、先に行っちゃって」多佳子さんは上目遣いでちょこんと顎をだすような仕草をした。「なんか、君が裸足で走る姿を見てたら、私も裸足で走りたくなっちゃったんだよね。ほんの十メートルくらいペタペタやってみようと思っただけなんだけど、路面が良かったんで、気づいたら走り出してた」
「裸足ランはどうでした?」
「うん、痛かったけど、気持ちよかったよ。なんというか、自由になってる気がした」
僕は頷き、コース上を走るランナーを眺めた。全員がシューズを履いてるけど、それは別にどうでもよかった。コースも終盤になり、苦しそうな顔をして陸橋に上っていくランナーを見ると、なぜか自分も走っていて良かったと思うのだ。この辛さや苦しさを見ず知らずの人と共有できることが、僕にとって何よりの喜びだった。ただ共有してるだけという距離感が、僕には調度良い。多佳子さんとの距離は、僕にとって近すぎた。でも、これからゴールまでの一キロを、一緒に進んでいかなければならないのだ。
「いまスタートから何分経ちましたか」
「二時間十五分。ほんとにごめんね。どんどん記録が悪くなって」
「いいえ、記録なんて気にしてませんから。それよりも、制限時間が二時間四十分なんですけど、あと何分ありますか」
「あと二十五分くらいかな」
「じゃあ歩いてもゴールできますね。立てますか」
多佳子さんは億劫そうに立ち上がった。
「いちど止まって休憩するとキツいね。なんんか筋肉がガチガチに固まっちゃったみたい」と言いながら多佳子さんは腕を二、三度回した。それから歩いて陸橋を上り始めた。
「足の裏は大丈夫ですか」
「うん、少し楽になった」
「多佳子さんの走り方は踵着地のようなので、つま先からとは言いませんが、なるべくフラットに着地するように意識してみて下さい」
「はーい、先生」
なんだかコーチみたいになってきた。人になにかを教えるなんて、僕にできる筈がない。急に自信を無くし、俯きながら歩いた。
「俊くん、どしたの?なんか急に暗くなっちゃって」
「あ、すみません。なんか偉そうだなって思って」
「俊くんが?」
「はい。そんな、自分なんて人にものを教えられる身分じゃないですし」
「身分ってなによー。私だって裸足ランは初めてなんだから、教えてもらえないと困っちゃうじゃない」そう言って多佳子さんは僕の背中を叩いた。これではどちらが辛い状況なのか分らない。
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