第9話 消えた天使

 僕は突然尿意を催した。まるで決壊寸前まで警報が鳴らされなかったダムみたいな心境だ。国道沿いにはコンビニが数件あった。恥ずかしいけど、こればかりは仕方がないと諦め、多佳子さんに声をかけた。

「あの、すいません。ちょっとコンビニ行きたいんですけど」といってワラーチに視線を送った。「裸足で入るのは憚られるんで、ワラーチを貸してもらってもよいですか。出てきたら返します」

「ん、あぁ、いいですよ。じゃあそこのセブンの前で待ってます」

 多佳子さんはセブンの前でワラーチを外した。僕はそれに足を入れると、生暖かさと幾分のヌメりを感じ、落ち着かない気分になった。こんなに温かいワラーチは着けたことがない。足底が、エラーを起こしたコンピューターのように、無秩序にカチカチしているようだ。僕は抜き足差し足でセブンに入った。

 店員さんに頭を下げ、僕は個室に駆け込んだ。個室に入ったことで、いくぶん落ち着きを取り戻した。そして仕切り直しでもするような気分で個室をでた。

 ほんの数分後にセブンから出ると、多佳子さんの姿はそこに無かった。

 あれ、我慢できずに裸足のままトイレに行ってしまったのだろうか、と僕は考え、しばらく待つことにした。お腹でも痛めたのだろうか?そんな素振りは見せてなかったしなぁ。五分くらい待ったところで、もしやと思い、コンビニのトイレを確認した。両方とも空いていた。僕はワラーチをポケットにしまって、駆け出した。

 コンビニ前は路面が滑らかで走りやすい道だから大丈夫だろう。問題はその先の企業団地内と、鉄道を超えるための陸橋だ。僕は少しペースを上げて、爆走天使のTシャツ、裸足で走る女性を探した。マラソン後半の五分の差は、普通であれば縮めることは容易じゃない。でも多佳子さんは初めて裸足で走るからペースが落ちている筈だ。

 僕はきょろきょろと視線を上げ下げしながら走った。この道は走りやすい、足裏がそう伝えてくる。僕はなんだか嬉しくなり、多佳子さんが裸足で走る姿を思い浮かべた。まだ大丈夫。

 国道では多佳子さんを捉えることはできなかった。左折して企業団地に入ると、案の定、すぐに路面が荒くなり始めた。多佳子さんの足裏が心配になった。路面が荒い場合、裸足でそのままの勢いで走ったのでは、痛みの度合いが増すだけだ。我慢できなければ、ほとんど歩くのと変わらないスピードに落として、少しでも痛くなさそうな路面を進むことになる。記録を狙ってたり、痛さに我慢できなければ、ここでワラーチをつけることになる。記録など関係ないし、多佳子さんが痛い思いをしている以上、僕がワラーチをつける訳にはいかない。やせ我慢をしてでも、この道は走り抜けなければならない。しかしさすがに走るペースは落とさざるを得なかった。

 足裏は痛みはあるものの、水ぶくれはできていない。なぜか左足だけ二趾と三趾の間、四趾と五趾の間の摩擦が大きくなっていて、水ぶくれになりつつあるような気もする。僕は足を見ないようにした。

 企業団地内の給水所にはブドウとバナナが並んでいた。僕はブドウを摘まみ、口の中に放り込んだ。舌でブドウを潰すと甘酸っぱい汁が弾け、気分を晴れやかにしてくれた。それから水を受け取り足にかけながら走った。

「あと三キロです。ファイトです」とスタッフの人が言った。

 企業団地を抜け国道に戻ると、路面は更に酷い状態だった。ここは去年も走った場所だ。こんなに酷かったけ?と思いながら、僕は仕方なしに道路と歩道を区切るブロックの上をバランスをとりながら走った。多佳子さんもブロックの上を走ったのだろうか。たぶん走ってない。そういう裸足ランナーの知恵はまだ持ち合わせていないと思う。

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