第8話 多佳子さん

 多佳子さんは何の違和感もなく走っているに違いない。僕は視線を前に戻し、なるべく裂け目のない部分を探す。この道に白線はない。全体的に荒くなっているので、割けた部分を外しても、無駄な抵抗のようだった。

「足、大丈夫?」多佳子さんが不意に言った。

 見た目にも路面が荒れていることが分かる。

「大丈夫です。路面が荒くなってきているけど、これくらいで諦めてたら、裸足ランナーは務まりません」とやせ我慢をしながら言った。

「我慢させてたらごめんなさい。私がワラーチを取ってしまったばかりに」

「いえ、全コースを裸足で走破するのが裸足ランナーの矜持でもあるのです。多少荒れてた道があった方が、達成感も上がるんです」

 自分は何を言っているのだ?そんな偉そうなことを言えるほど走ってないでしょうが。頬が熱くなり紅潮していることを感じた。その場から逃げ出したくなった。僕は多佳子さんがそれについてなにも言わないことを願った。

「あは、カッコいいね。私、多佳子っていいます。田沼多佳子です。よろしくね」と言って僕の顔を見た。

 僕は面食らってしまい、まるで僕と多佳子さんの周りに、邪気という名の結界が張られてしまったような気がした。悪意なんて更々ない邪気。パステルピンクのTシャツから延びる邪気の糸。爆走天使ちゃんが糸を結んだ。もう逃げられない。先にも後ろにも右にも左にも退くことができない。僕はとてつもなく落ち着かない気分になった。ゴールすることだけが結界を破るただ一つの方法だけど、そんな簡単なことがとても難しいことのように思われた。

「あ、あ、ぼ、僕は吉村俊太といいます」

「俊太くんて言うんだ。駆けるの速そうな名前だね」

 嗚呼、邪気の糸は太くなるばかりだ。

「何歳なの?」多佳子さんはぐいぐいくる。

「えっと、二十歳です」

「私は二十四。仕事は何してるの?」

「塵芥収集作業です」

「じんかい?」

「えっと、平たく言うと、ゴミの回収作業です。あの、多佳子さんはなんの仕事をしてるんですか?」僕はありったけの勇気を振り絞って質問した。女性に質問するなんて、養護施設の寮母さん以外では初めてなのだ。でも不思議なことに動悸が速くなることはなかった。少し慣れてきたのかもしれない。

「へー、ゴミ回収の人って初めて見た。いつもお世話になってます」と軽く会釈した。

 初めて見たって、新種の動物かなにかですか僕は。でも、お世話になってますと言われて悪い気はしなかった。

「私の仕事は、内緒」多佳子さんはほんの一瞬、僅かに暗い影を見せた。

 そこには触れて欲しくないんだろうと考え、それ以上聞くのはよそうと思った。

「ニート、家事手伝い、食事と昼寝付き箱入り娘」多佳子さんは明るく言った。「仕事してる俊くんの方が圧倒的にエラい」

 さっき僕が感じた影は、単なる勘違いだったのかと思い留飲を下げた。それにしても、俊くんとは。もしかして僕をいたぶって楽しんでいるのか。

「あの、足は痛くないですか」僕は話題を変えることにした。

「そうねぇ、路面がぼこぼこしてるのは感じるけど、痛いというほどではないかな」

「それは良かったです」

「俊くんは大丈夫?」

「大丈夫です」と言いつつ、痛みではなく、足の骨に徐々に疲労が蓄積してきていることを感じていた。一歩一歩で受ける刺激は僅かだとしても、十キロ以上ヒタヒタヒタと進めば、一万回以上のリズムを刻んでいるのだ。

 コース上で城が見えたのはほんの数分だった。去年も見たはずだけど、こんな風だったけ?今年は木々に茂る緑が多いような気がする。それに去年よりも濃いような気がする。城が少し低くなっている気もする。道の両サイドにあるお店はたぶん変わらない。走ってるランナーの大会Tシャツ率は、今年の方が多いような気がした。数えてないから分からないし、もちろん数えるなんて無謀なことはしないけど。引き算は苦手だだし。

 城に近づくにつれ天守閣は見えなくなり、お堀と石垣の間を進む道に入る。手前には土産屋や喫茶店が並ぶ。僕にはあまり縁のない場所だ。旅行というものをしたことがないから。マラソンをするようになり、各地の大会に参加するようになって、少しは旅行気分を味わえるようになったけど、残念ながらいつも一人なのだ。友だちやランニングクラブの仲間と遠征する方が楽しいだろうなとは思うけど、気を使わなくて良い分、一人で旅する方が楽だと思う。まぁ、体験したことのないことをあれこれ比較してもても仕方ないけど。

 城門の前には、大勢の観光客がいた。皆、ランナーに手を振って「頑張れー」と声をかけている。僕にとっては、やっぱりそれくらいの距離感が丁度よい。しかし結界はなかなか解かれない。

 城を過ぎるとまた国道に入り、しばらく平坦な道が続く。道は悪くない。残りは何キロくらいだったっけ。まぁいいや。考えると混乱する。

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