第7話 爆走天使

「調子どお?」とまるで同窓会かなにかで久しぶりに会った友達みたいに多佳子さんが言った。

「まずまずです。あの、随分前を走ってたんですか」

「んーん、スタートした直後に君の後ろに回り込んで、ずっと後ろを走ってた。ストーカーみたいだね」と言ってアハハと笑った。「裸足の人がどう走るか見てみたかったんだよね」

「なんだ、とっくに先の方に行ってしまったとばかり思ってました」

「悪かったね。君のワラーチ奪ってしまったみたいで」

 みたいじゃなくて奪われたんです。

「いえ、まだひどく荒れた路面はないので大丈夫です」

 僕が一番心配しているトイレのことは言わないでおこう。

「君の走り方、見てたけど、割と普通だね」

「あ、はい。裸足といっても特別なことはないと思います。ただ、踵から足をつかないようにはしてますけど」

「フォアフットってやつ?」

「いえ、そこまでにはなってないと思います。つま先からっていうよりも、フラットに、足の裏全体で着地するような感じです」

「へー、そんな風に走ってるんだ」

 僕はあれこれ質問されるのが苦手だ。質問することはもっと苦手だけど。

「あの、ワラーチはどうでした?」

「うん、思ったより平気。十キロ走ってみて、ゴールまで行けるって思った。行けなかったら困っちゃうけどね」多佳子さんはそういって微笑んだ。

 なんでだろう。多佳子さんと普通に話しができることに、僕は少し緊張しながら驚いていた。見ず知らずの人と、それも女性と、こんな風に並んで走っていることが信じられない気持ちだった。

「なんか楽しい。水たまりとかぜんぜん気にならないし。むしろ水たまりがあると入りたくなっちゃうくらい」

 そんな嬉しいこと言われるなんて思いもしなかったから、僕の心臓のなかの小人が暴れだし、これ以上、会話を続けたら死ぬかもしれない。

「あの、後ろからワラーチの走りを見せてもらってもよいですか」僕は自分でも信じられないことを言った。

「いいよー。アドバイスもらえると嬉しい」

 僕は多佳子さんの三メートル後ろについた。多佳子さんのTシャツはパステルピンクで、背中には、『爆走天使』という文字と共に、羽を広げた天使がランニングしている可愛らしいイラストがあった。汗で透けるブラのラインを見て目まいがしそうになり、僕は慌てて足もとに視線を落とした。

 多佳子さんはペタペタと音を立てて走っていた。前方に水たまりがあったが、それを避けることはせずに、そのまま水たまりに足を入れた。水しぶきが両サイドに上がり、両足に水の膜ができた。美しいと思った。何かを見て美しいと感じたことは、生まれて初めてだった。

 僕は思わず赤面し、取り乱しそうになり慌ててスピードを上げ、多佳子さんの横についた。得もいわれぬ罪悪感に包まれ、努めて多佳子さんの顔を見ないように前方を凝視した。

「フラット着地で走ってると思います」

「へー、よくわかんないけど、正しいの?」

「正しいと思います」

「そうなんだ。良かった。じゃあ最後までこの調子で行けばいいね」

 次の補給ポイントがあった。僕はスポーツドリンクを取った。多佳子さんもスポーツドリンクを取った。なにを思ったのか、多佳子さんが「乾杯」と言って紙コップを僕の前に出した。無視する訳にもいかず、僕は紙コップのふちを軽く多佳子さんの紙コップに当て、スポーツドリンクを飲みほした。

 それから、僕は道に吐かれた唾を警戒し、右に左に不自然に足を出すようにして走った。

「どしたの?」

「唾を吐く人が多いんで、踏まないように避けながら走ってるんです」

 それを聞いて多佳子さんはアハハと声を出して笑った。

「それは嫌だね。裸足って苦労が多いんだね。なんでそこまでして裸足で走るの?」

 何でと聞かれても、僕自身、理由らしきものを持たなかったので、返す言葉が見つからずによちよち走りを続けた。

「何でと言われても。なんででしょうね。やっぱり、自由になりたかったからかなぁ」

「なにから?」

「さあ、なにからでしょうね。自分でもよく分からないです。裸足で走っている人を見てカッコいいと思ったからかな?」

 そんな理由じゃないことは確かなのだけど、かといって正答みたいなものを答えることもできなかった。裸足で走ることは自己満足以外の何物でもないということは分かっている。一度裸足で走ることに成功すると、次もまた裸足で走りたくなる。僕にはその理由を言葉にする頭がない。

「ふーん。理由なんていらないかもね。裸足で走りたいから裸足で走る、みたいな」

「それです。たぶん」

 余計な理屈は考えるだけ無駄。多佳子さんの言うように、裸足で走りたいから裸足で走る、それでいいんじゃないかと思った。

「私もね、これ、ワラーチだっけ?これで走ってみて、裸足で走りたくなる理由が分かるような気がするんだよね。シューズを履いてるときより自由になった気分だもん」

 コースは折り返し地点を過ぎ、この大会のクライマックスである城に向かっていた。明治維新の時に破壊され、再構築されたその城がこの大会の名前に冠されている。あれ、なんて城だっけ。

 国道から横道に折れ、城に向かう道に入ると、急に路面が荒れ出した。足底が黄色く点滅しているようだ。古いアスファルトが割けたような部分がいくつもあり、足が乗るたびに強いパルスを送ってくる。僕は思わず多佳子さんが履いているワラーチに目をやった。

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