第6話 僕の弱点
十キロ地点を過ぎた。ここまでのタイムは一時間ちょっと。まずますだ。路面の荒れが少ないぶん、ペースを落とさないで来れた。足底の負担も蓄積されている感じはしない。皮膚も骨も関節もまだヘタれてない。あとは後半の路面コンディション次第だ。
歩道に地元の中学生の野球部が列を作っている。坊主頭でお揃いのユニフォームを着てるから、すぐに野球部と分かる。去年と同じ光景だ。去年一年生だった子は二年生になってレギュラー入りしたのかな。去年二年生だった誰かは三年生になりキャプテンになったのかな。僕のこと憶えてるかな。憶えてる訳ないか。僕は彼らに近づき、パンパンパンパンパンと連続ハイタッチをした。野球部員が「ヘイヘイヘイヘイヘイ」と声を上げる。気分は上々だ。
僕はハイタッチの余韻を味わいながら、ハイタッチとはないかということを考えながら走った。
最初は単純に、応援している人からすれば、頑張れとか、ファイトとか、そういうメッセージを手のひらに込めて送ってくるのだと考えた。でも、ちょっと違うような気がする。ハイタッチをしてくる人を見ると、走るという行為の、その一瞬を共有するためにやっているようにも思えた。左手と左手で行うハイタッチは、お互いの心臓を近づけるような行為だからこそ、気分が高揚するのではないか。その一瞬の摩擦で交流電流が全身を駆け巡り、お互いの精神までもが奮い立たされるのかもしれない。
誰かが僕の肩を叩いた。振り向くと多佳子さんだった。そして僕はこのとき初めて多佳子さんの顔をみた。栗色のショートヘアで、特に目を引く感じではない、どこにでもいそうな女性だった。化粧っ気がないことに僕は安心した。僕は化粧の強い人を前にすると、苦手を通り越して、過渡に緊張してしまうのだ。怒鳴られて、叩かれるような気がしてしまう。
それは僕の母親が夜の仕事をしていたことと無関係ではないと思う。父のことは知らない。父とは三歳まで一緒に暮らしていたらしいけど、記憶にはない。母は僕が小学校三年生のときに死んだ。理由は憶えてないけど、事故かなにかで死んでしまったような気がする。僕はそれから児童養護施設で中学三年まで暮らし、中学を卒業してからはゴミ回収の仕事をしているのだ。社長さんは、もう二十歳なんだしそろそろ免許を取れというけど、僕にとってはなかなかハードルが高い。
僕には学習障害というものがあり、特に計算問題が苦手だった。だから、何キロ地点まで来たということは看板を見れば分かるけど、あと何キロかを考えると混乱する。それも走りながら計算するなんて、僕にとっては無謀すぎることだった。だから僕はあと何キロ残っているかは計算しないで、ゴールと書かれている場所までひたすら走るのみなのだ。
タイムに対するこだわりもない。だから時計も着けていない。ハーフマラソンは二時間くらいで走れればいい。一度、目標時間を設定したことがあったけど、僕はすぐに混乱し、時間配分や残り時間を計算できずに散々な思いをしたことがあった。あんな思いをするくらいなら、目標なんて持たない方がマシなのだ。
そんな訳で、僕は小学校のときから勉強というものがとんと苦手だった。社長は、免許のテストに計算問題はないというけど、教本にスピードと距離の関係を考えなければいけないような部分があると、そこで思考が停止してしまうのだ。別に計算を求められている訳じゃないのに、まったく頭に入ってこない。脳がアレルギー反応を示してるみたいに。
だからほとんど数字に触れなくてよい今の仕事は、僕にピッタリだった。臭いとか汚いとかキツいとか、三Kだの五Kだのみたいな言われ方をされることがあるけど、そんなに悪い仕事だとは思っていない。それに、ゴミ回収がなくなったら住民は百パーセント困るよねと社長さんがよく言っている。僕にとっては、お金を扱わないといけないコンビニのレジの方が、よっぽど耐えられない仕事に違いない。
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