第5話 裸足の敵
二キロの表示を過ぎ、最初の補給コーナーが置かれている。スポーツドリンクと水があった。僕は迷わずスポーツドリンクを受け取った。僕にドリンクを渡してくれたのは、たぶん地元の高校生だ。僕は普段は人の顔を直視することは避けているが、このときだけはそれが許される気がする。「頑張って下さい」と言われながらドリンクを受け取った後で、視線を合わせて笑顔で頷く。それが礼儀だと考えている。プロのランナーでもないのに、腕だけ出してひったくる様に持っていくなんて格好悪い。
普通に生活していて、ほとんど女性の顔を見る機会のない僕は、この瞬間に女性というものの顔を目に焼き付ける。別にそれをしたから何がどうという訳ではないが、そうすることによって満たされるものが確かにある。数少ない生身の女性とのコミュニケーションの機会が、ハーフマラソンでは十回くらいある。僕だっていちおう男だから、それくらいの楽しみはあっても良い筈だ。たまに男子高校生の集団がいる補給ブースもあるけど、それにしたって飲み物をもらう瞬間に交わされるコミュニケ―ションに癒されることに変わりはない。結局、僕は、本心では人とのコミュニケーションに飢えているのかもしれない。砂漠に放置されたサボテンのように。
補給コーナーはたくさんのランナーが集まるので、ゆっくりとドリンクを楽しんでいるわけにもいかない。僕はドリンクを一口含むと、コップをゴミ箱に投げ入れた。道端には紙コップが散乱している。たくさんのランナーが、なぜ紙コップを準備された大きなゴミ場ではなくて、道端に投げ捨てるのか、僕は理解に苦しむ。そんなことしたら大会スタッフだって大変でしょうに。道端に捨てられた紙コップを見ると、怒りというよりも絶望的な気持ちになる。それはやっぱり僕の仕事がゴミの回収作業だからだと思う。
町中のゴミ置き場が秩序だっていることはほとんどない。ゴミを出す場所には、まちまちの大きさのゴミ袋が無造作に置かれている。燃えるゴミの日なのに燃えないゴミがあったり、どうみても適当に袋に詰めてるようなのもザラだ。もっとも、燃えるゴミにペットボトルやプラスチックが入っているくらいなら問題にはならないけど。
ゴミ回収をしていて一番困るのは、必ずと言ってもよいほど破れている袋があることだ。破れる理由は野良猫やカラスだったり、袋の中の尖ったものが原因だったり。しかし、僕の担当エリアではカラスはあまり見ないような気がする。なぜだろう。住民の方には、ゴミ袋は厚めのものを買って欲しいと常々思っている。そんな訳で、僕の作業着は一日の作業が終わると様々な臭いが染み込んでいるのだ。
一日数十か所、毎日コースを変えてゴミを回収する。ほんとに、どうして毎日毎日こんなにたくさんのゴミが出えくるのだろうかと不思議になる。路上に散乱した紙コップを見ると、ついついそんなことを考えて腹立たしくなる。でも、もちろん誰かに注意をしたり文句を言ったりするなんてことは、僕の性格では無理。
そんなことよりも、裸足である僕にとっては、この後が大変だ。
ドリンクを飲んだ後で、道に唾を吐くランナーが多くなるのだ。裸足ランナーにとって最大の敵はこれだ。後生だから所構わずペッペッとやるのはやめて欲しい。口から飛び出したばかりのそれは、面積は数平方センチ以内で、白く泡立っているからすぐ分かる。しかし時間が経つと薄くなり、だんだん判別しにくくなる。まるで地雷のように配置された唾液をよけながら走る。それでも白い物質ならまだいい、それが黄色い物質なら、踏めば足が破裂するんじゃないかと妄想を抱きながら走るのだ。
補給所で水をもらうと、僕はそれを足にかける。きれいにしたいとか、冷やしたいとか、別になにか意味があってそうするわけではない。紙コップの水をかけたくらいできれいになる訳はないし、今日の天気では冷やす必要もない。ただ、かけたくなるのだ。それは、なんとなく、穢れを払い足裏が悲鳴を上げないようにお祈りするような行為みたいなものだ。
雨が止んだ。いつ水滴が落ちてきてもおかしくない空の色だけど。もっとも走りやすい空気。
徐々に紙コップが少なくなり、僕も安心して足裏と対話することができる。足はヒタヒタと一定のリズムで路面を捉え続ける。このコースは走りやすいと足裏が伝える。コースがどういう状態なのか、僕は問いかけるように足に意識を集中する。ここまでは、路面は荒れてないし、小石がないことが伝えられる。まったく問題はないのかと僕は問う。白線が消えそうで、白線の上を進む意味がないと言う。であれば、無理に白線の上を走ることはない。僕は白線から外れ、自由になった気分でコースの真ん中を走った。裸足ランニング中は、いつも足裏の意見に従わなければならないのだ。
小学校の前を通ると、吹奏楽クラブの子どもたちが演奏をしていた。この大会ではコース上にある全ての小中学校の吹奏楽団が演奏をしている。他の大会ではあまり見られない光景だと思う。太鼓クラブの応援はよく見るけど、吹奏楽が聴けるというのは珍しい。僕としては太鼓の方が好きだけど。太鼓は躍動感があって、心臓から血液を押し出す助けをしてくれる。
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