第4話 スタート

 スタートの少し前に多佳子さんは戻ってきた。

「ちょっとさぁ、これ借りてもいい?これで走ってみたくなった」

「え、いえ、その」と僕が口ごもっている間にスタートの号砲が鳴らされた。

「もう履きかえてる暇ないから」と多佳子さんは自分のシューズを脇にある植木の下に置くと、そのまま走り出していった。スタートとゴールはすぐ近くなので、走り終わったら取りに来ればよいのだけれど、僕は釈然としないままミズノのシューズを見送った。ミズノは飼い主に見放された犬のようにスタート地点に留まり小雨を浴びていた。

 多佳子さんは、僕がなぜワラーチを持って、裸足で走るのか知らないのだ。もちろん路面が荒れすぎていて耐えられないときに着けるのだけど、実をいうと一番の理由はトイレに行くときなのだ。裸足でトイレに入るのは憚られる。それだけは嫌だ。

 道路なんて汚い場所を裸足で走るんだったら、トイレだって似たようなものじゃないかと思うかもしれないけど、それは違う。それに、トイレを借りる時に、裸足でコンビニに入るのも失礼なことだと思う。もし裸足で走る人間はトイレにも裸足で入らなければならないという法律ができたとしたら、僕はたぶん裸足では走らない。

 多佳子さんはどこだ?スタート直後はまだ団子状態で走るから、視界が遮られ多佳子さんの姿を見つけることができなかった。それに、裸足で走る人は道路の状態を確認しながら走るから、すぐ直前を見ながら走るという習性がある。

 僕は多佳子さんがどんなシャツを着てるのか、どんな髪型をしているのか、よく見ていなかった。女性から突然話しかけられて、上から下までじろじろ見るのは失礼だと思うし、僕は女性とフランクに話をすることに慣れていないのだ。多佳子さんについて知っていることと言えば、既に脱いでしまったライトブルーのミズノのシューズを履いていたということ黒いランタイツだけ。多佳子さんを見つけるためには、僕のワラーチを見つけるしかなかった。

 そうは言っても既に走り出してしまったのだ。ひとまず多佳子さんのことを考えるのは止めて、僕は走りに集中することにした。路面と足の裏に意識を向ける。走りだしは上々。スタートから緩い下りが数百メートル続く。この路面は粒子が細かく、反対車線と比べてアスファルトが敷き直されていることが分かった。ピタピタピタと一定のリズムをとる足の裏は、なんのシグナルも発してこない。これならしばらくは白線の上を走る必要はなさそうだ。

 その日は曇り空で、今も小雨が降っていて道路の轍が水たまりになっている。ここで僕はシューズを履くランナーが絶対にやらないことをした。水たまりに突っ込むのだ。ピシャッピシャッピシャッと水しぶきを立てながら走る。靴下にシューズと違って、足が重くなることはない。これは大いなる優越感だ。子どもの頃に戻ったような気分だ。近くにいたランナーは水しぶきが跳ねて迷惑だったかもしれないけど。

 路面の滑らかさと水たまりに気を良くした僕は、目線を正面に向けた。

 マラソン大会ではランナーが色々なTシャツを着て走っている。色、色、色、僕の居場所に帰って来たみたいだ。マラソン大会で見るTシャツには、大きく4つの系統があると僕は考えている。それはオフィシャルTシャツ、チーム系、部活系、各地の大会系だ。

 オフィシャルシャツはその大会で配られるTシャツで、この大会ではオフィシャル率が高いようだ。ざっと見渡すと4割くらいがオフィシャルだ。紺の地で背中に大きく地名の漢字が書かれたそのシャツのデザインは悪くないと思った。

 チーム系は各地にある走友会やランニングクラブの名前の入ったTシャツのことだ。僕は仲間を作るのが苦手なので、ランニングクラブには所属してないけど、チーム系のTシャツを見ると、なぜだか微笑ましく感じてしまう。とくに複数の人が同じチームのTシャツを着て走っているのを見ると、なんだか嬉しくなってしまうのだ。チームの人たちは、そのうち走力によってばらばらになる。そしてすれ違うコースがあるとハイタッチをする。実は僕はハイタッチが好きなので、そういうのを見ると羨ましくも思うけど、たまに道端でハイタッチしてくれる人がいるだけでも大満足なのだ。

 部活系のTシャツは、背中にでかでかと「絶対に負けられない」とか、「流した汗は裏切らない」とか、仰々しいメッセージが書かれたTシャツのことだ。この系の亜流としては、「運動不足」や「不健康」などの逆メッセージが書かれたものがある。僕は部活系Tシャツが好きだ。大げさなメッセージを読むと、僕自身が叱咤激励されているような気分になる。流した汗には裏切られ、一歩一歩着実に進むことができず、絶対に負けられないなんて死んでも思わない。だから、そんなTシャツを着てゆっくり走っている人を見ると、ひょっとして同類かなと思って妙に安心してしまうのだ。

 各地の大会系とは、いろいろな場所で各地で開催されているマラソン大会のTシャツのこと。これもなかなか楽しませてくれる。自分がそのTシャツに書かれている大会を走ったことがあれば猶更だ。聞いたこともない大会や、イベント性の高い大会など、世の中には色々なマラソン大会があることを大会系Tシャツから知るのだ。有名大会のTシャツには羨望の眼差しを向ける。東京マラソンとか、京都マラソンとか、僕はそこまで遠征できないけど、そのTシャツを見て、その大会を走っている気分になるのだ。

 僕は大会から配布されるTシャツを着て走ったことがない。それは別に、人と同じが嫌だとか、そういうこだわりがある訳ではなかった。僕がマラソン大会の時に着て走るシャツは、背中に大きく「走る」と書かれたノースリーブのシャツだった。力強く書かれたその言葉を僕は気に入っていた。このシャツを裸足ランニングを始めた頃に購入したことも大きい。切っても切れないなんとやらみたい。僕に親子の絆はないけれど。

 そんなことを考えながら走っていると、コースは左に折れ、国道に入った。この道は路面が荒いと足裏が伝えてくる。痛いのとはまた違う、シューズを履いていれば気にならない程度の凸凹が足裏を刺激する。僕はこのような道を走ることを、指圧ランと呼んでいる。指圧ランは長く続くと徐々に痛みを感じてくるので、そんな時は白線の上を走るようにしている。凸凹の上を白線が敷かれることによって、平面に均されるのだ。だから裸足ランの人は白線から白線を渡り歩くように走る人が多い。白線の位置や状態によっては、あみだくじのように走る場合もあり、後続のランナーにはさぞ迷惑だと思うこともある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る