第3話 出会い

「あっ、裸足だ」

 スタート地点で隣に並んだ女性が、珍しいものでも見るように言った。僕は無言で顎を出すように頷いた。

「足、大丈夫なんですか」彼女が言った。

 みんな誤解してるんだけど、ほとんどの人は靴を脱げば、裸足で走ることができる。ただシューズを脱がないだけだ。

「たぶん、大丈夫だと思います」僕は下を向いて照れ笑いするように答えた。こんな近距離で女性の顔を、目を見ながら話をすることなんて無理。

 後で知ったのだけど、僕の足に注目してくれた女性は、多佳子さんという僕よりも四歳年上のランナーだった。僕は身長が小さい方で、多佳子さんとは目線の高さがそれほど違わなかった。

「私もさぁ、裸足は無理だとしても、裸足系には挑戦したいとは思ってたんだよね」

 いきなりフランクな話し方をされて、僕は正直、面食らってしまった。それに、裸足系という言葉がすらすらと出てくることに、僕は僕の立ち位置を脅かされたような気がして、スタート前から落ち着かない気分にさせられた。まるで打ち明ける前に秘密について語られてしまったみたいだ。

「ご存知なんですか、裸足系」僕は相変わらず下を向いていた。きっと変な奴だと思われてるに違いない。僕の視界に入ってくるのは、多佳子さんのランニングシューズと、黒いランニングタイツだった。声は、明るい。僕の耳によく届く小麦色のような声だった。

「うん、なんかの本で読んだんだけど、どこかの山岳民族の人たちが履いてるやつでしょ?」

 そうそう、それです、それですと僕は思わず上ずった声で答えた。僕が裸足ランニングをするようになったのは、メキシコの走る山岳民族、タラウマラの影響なのだ。もっと言うとカバーヨ・ブランコというアメリカ人に対する憧れ。カバーヨは故郷を捨て、メキシコの山岳民族と共に走ることに生を見出した無名の偉人なのだ。

 タラウマラもカバーヨも『ボーン・トゥ・ラン』という本で知った。その本に出会ったことが、僕の人生を変えたと言っても過言でない。いや、実際には何もないしょぼい人生だけど、何かあるような気にさせてくれた本なのだ。僕は柄にもなく、もっとその話をしたいと思った。でも残念ながらスタートまであと僅かな時間しかない。

「これのことですか」と言って僕はポケットからワラーチを取りだした。

「あっ、それそれ。すごーい、初めて見た」と言って多佳子さんは声のトーンを上げた。

 すごーいなんて言われたことのない僕は、頬が紅潮して、まるで心臓のなかを小人が走り回っているような胸苦しさに襲われた。

 過渡に注目されることはが苦手な僕は、遠巻きに遠慮がちに見られるくらいが調度良い。だから多佳子さんのその反応は僕を困惑させた。スタートまであと10分。多佳子さんはぐいぐい攻めてくる。

「ちょっと見せて」と言って多佳子さんは僕の手からワラーチを抜いた。

「あ、はい」と既に先方の手に渡っているワラーチを見ながら言った。

「ちょっとこれ履かせてみてくれない」と言って、人の返事も聞かずにシューズと靴下を脱ぎ始めた。

 僕は下手くそな同時通訳でもしているように、展開の速さに戸惑った。

 多佳子さんのシューズはミズノのライトブルーだった。ミズノを履く女子ってどんな人なんだろう?と僕は考えた。なぜアディダスでもナイキでもニューバランスでもなくミズノなのだろう?僕は無意識に、市民ランナーの女子はそういうブランドを好むものだと思っていた。

 だいたいミズノの靴についているあのマークは謎だ。最新のバイクのような形でもあるし、競走馬を模したようでもある。ランバードという名だから鳥なのかも知れないが、僕には鳥には見えない。

 僕が思うに、ミズノを履く女子はランナーのなかでも地味な性格をしているんじゃないか。仮装をする人はミズノなんて履かないと思う。市民ランナーでミズノを履くのは、地味な目標を立て、それに向かって地味に頑張るような人だ。地味な目標というのは、今日は歩かないぞとか、二時間五分を切るぞとかそういうやつ。実は僕が持っているシューズはミズノだ。今はあまり活躍することはないけど、雪の日や寒い日はそのシューズを履く。それは僕がランニングを始めた三年前に買ったものだけど、すぐに裸足系になってしまったので、あまり履く機会はなかった。それに、シューズを履くと、ただでさえ地味な存在の僕が、ほとんど無になってしまうような気もした。それがカバーヨの影響だけど。

 多佳子さんは両足のソックスを脱ぐと、まるめてミズノのなかにしまい込んだ。片足ずつ靴下を脱ぎ、ついには裸足で地面に立ったのだった。

「あっ、裸足で。大丈夫ですか?」と僕は言った。別に大したことではないのだが、先輩面でもするように、どうしても抑揚をつけて言いたくなってしまう。

 たぶん多佳子さんは裸足でアスファルトに立つことは初めてだろうから、どう感じているのか気になった。

「うん。思ったより平気。てか全然平気。まぁ走ると違うんだろうけど」

「痛くはないですか」

「痛くないよー。かえって気持ち良いみたい。靴下脱いだからかな」

 多佳子さんには裸足ランナーの素質があるみたいだ。普通は、雑誌などで裸足ランというものがあると知って、やってみたいとは思ってみても、走るときにはシューズを履くものという常識は、なかなか覆せないものだ。それに道路に裸足で立つなんて汚い感じもするし。

 多佳子さんはワラーチをしげしげと眺めた。僕の足のサイズは男としては小さい方だったので、多佳子さんが着けても問題はないだろうと考えた。シューズと違って、ワラーチはゴム板に足を乗せて紐でくくるだけだから、フィット感だのホールド感だのは関係ないのだ。

「これ思ったよりも薄いんだね。こんなので走って痛くならないの?」

「いえ、痛くはならないと思いますよ。裸足からしたら天国です」と僕は言ったが、別に裸足が地獄という訳ではない。なんとなくそういう表現をしてしまうのは、裸足ランナーとしての優越感のようなもので、僕はそんな言い方はしないようにしようと自分を戒めた。

「これって何でできてるの?」

「本家のメキシコの山岳民族は古タイヤを削って作っているみたいですが、これは製品なので、タイヤよりは高級なゴムを使って作ってるんじゃないでしょうか」

「へーそうなんだ」と言いながらワラーチを逆さまにした。「これって、滑ったりしないの?」

「そんなに早く走る訳じゃないので、滑ったことはないです」

「ハーフはどれくらいで走るの?」

「二時間くらいです」

 シューズを履けば一時間五十分くらいで走れるのだけど、裸足だといちいち路面を気にしたり、荒れている道路はゆっくりのそのそ走るというか歩くというか、もっと遅くなってしまうのだ。

「二時間かぁ。私より早いな。私は二時間十分切りを目標にしてる」

 その日は裸足ということもあり、若干は遅くなることを見越して、目標タイム二時間十分台のエリアに僕は入っていた。そこに多佳子さんがいたという訳なのだ。

「ちょっと履いてみてもいい?」と多佳子さんがワラーチを地面に置いた。

 ワラーチに関しては、履くというよりも着けると言った方がいいと思う。

「ビーさんと似たような感じですが、踵にも紐を引っ掛けます。少し大きいようなら調整します」

 多佳子さんはワラーチを着けて足首をくねくねさせた。それから外して、もう少しキツくして欲しいと言った。紐の長さを縮めると、多佳子さんは再度、足を入れた。それから、ぱたぱたとステップを始めた。

「スタート五分前です」とアナウンスされた。

「うむ、丁度良い感じ。ちょっとそっちで走ってみてもよい?」

「あの、もうすぐスタートなんですけど」と言う僕の返事も聞かずにランナーの列から離れ、前へ後へと試走らしきことをしている。

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