第2話 その場所へ
大会前日の夜、空には厚い灰色の雲がかかり、小雨がぱらついていた。大会が開催される町は僕が住んでいる町から高速バスで九十分の町だ。城があり有名な観光地でもある。その地域の明日の天気予報は曇り。傘マークが明け方まで並んでいたけど、スタート時間になるころには雲のアイコンに変わっている。そして午後からはお日様マークが並び、予報が当たれば申し分のないコンディションだ。
僕はいつもと同じように、バックパックに寝袋とシートとランニング用品一式を入れた。電気を消し部屋を出て、駅までの道のりを二十分かけて歩く。午後七時発の高速バスに乗り、大会が開催される町へ移動する。僕は車の免許を持っていないので、それほど遠くない場所でも、前日に移動しなければならない。この地方都市では、東京と違って鉄道が発達しているわけではなく、バスの本数も少ないから、大会当日の朝に移動することはできない。走友会なんかに入っていれば、当日の朝、会場まで同乗させてもらえると思うけど、そういうのはどうにも苦手なのだ。
会場には午後九時頃に到着した。既に準備は整い、照明は落とされていた。あちこちにスポンサーの幟が立ち、確かにここで大会があるということを知らせてくれた。それを見て、僕は安堵と興奮が入り混じったような幸せな気分になった。たった一人でこの場所に立ち、この感情を一人占めできることが、なによりも嬉しかった。
僕は寝床となる場所を探した。雨が降っているので、朝まで浸水しそうもない場所。ここは総合運動公園だから、寝場所を見つけるのには困らなかった。体育館の軒下や、陸上競技の観戦席に上がる階段の下が候補に挙がった。体育館の軒下では目立ちすぎる。自転車が数台置かれていた階段の下にシートを敷いた。シートの周りを自転車で囲むようにして、ちょっとした壁を作ってみた。こうするだけで安心感が増したが、なにやらビーバーにでもなったような気分だった。
それから僕は寝袋にくるまり、ゆっくりと目を閉じて、明日の走りを想像した。
目を開けると空の色は灰色に霞み、辺りはまだ薄暗かった。僕はスマートフォンを取り出して時間を確認した。まだ六時前だった。寝床の周りをぐるりと見て、何事も異変がないことを確認した。小雨がぱらぱらと落ちていたが、バービーハウスは堅牢で、雨水の侵入を許さなかったようだ。スタート時間は九時だから、時間は充分にある。それにしても随分と長く寝たものだ。マラソン大会の前夜にどれだけ眠れたかは、当日の走りに影響する。だから、今の気分は上々だ。
小雨が続いていた。多くのランナーがスタートエリアに入らず、歩道の木の下でスタートまでの時間をしのいでいた。
僕がスタートエリアに入ると、周囲の人は、おやっ?という顔をする。理由は、僕がシューズを履いてないらだ。これからマラソンをするというのに、足元にナイキもアシックスもアディダスもない。大会のピストルが鳴らされるまでの間、周囲のランナーからちょっとした注目を浴びるけど、ほとんどの人が「おい、あれ」「裸足?」とひそひそ話をしながら足元に視線を送ってくる。まるで事故か事件現場を遠巻きに眺めるように。
僕はそんなやり取りを聞いて、ひそかに喜びを感じる。人づきあいが苦手で仲間を作れない僕にとっては、その程度が心地良い距離感なのだ。
市民ランナーにとって、シューズ選びは走るという行為に伴う大きな楽しみの一つだ。僕も以前は、スポーツ店でランニングシューズを見ることが楽しくて仕方がなかった。それはランニングをする上で中核的な意味を持つと言っても過言ではない。そこに突然現れた裸足野郎は、シューズを愛する者たちからしたら目障りな存在に違いない。スマホの画面に現れたドット抜けみたいなものか。
その点は、大会で注目を浴びる他の種族、仮装ランナーと大きく違うところだ。彼らはランナーからもギャラリーからも愛される存在だ。彼らが自らに課した役割は、だれに頼まれた訳でもなく大会を盛り上げようということだ。だから彼らは注目を浴びれば浴びるほど反応を示し、周囲に愛嬌を振りまく。好き好んでそういうことをする人がいるのは、僕からしてみると珍妙なことではあるけど、そういう人がいるから大会が盛り上がるということも事実だ。
僕は彼らを尊敬している。なぜなら、コスプレは大抵、走りやすい格好ではない。あんな格好をして愛嬌を振りまきながら走るなんて、走力のない僕にはとても真似のできることではない。顔にペイントなどしたら、それだけで呼吸困難になりそうだ。コスプレをするランナーは、僕のような凡庸なランナー以上の走力を持っているからこそ、あのようなことができるのだと思う。だから尊敬するのだ。
誤解してほしくないのは、シューズを履くことに対して、別に否定的に考えてるという訳ではないということ。単に僕がシューズを履かないだけで、皆にシューズを脱いで欲しいとか、そんなことは考えていない。逆に、色々なシューズを見ることは、今でも楽しいと思ってる。色の世界が無限に広がってるから。
今日はハーフの大会だ。僕が裸足で走れるのは、二十一キロが限界。この大会、去年はワラーチで走ったから、路面の細かい状態は分からない。もっとも、去年とはコースが変更されている。
今日は他に裸足系ランナーがいるのかどうかは分からない。東北というのは裸足系ランナーが少ない。ざっと見渡す限り、皆シューズを履いている。裸足系ランナーというのは誰でもそうだと思うけど、会場入りすると、あらゆる場所でランナーの足元をチェックする。例えば人種や体形や性別など、普通の人が無意識に顔や体形で判別することを、僕たちは足でするようなものだ。
それは皆がどんなシューズを履いているかを確認するためではなく、仲間が、裸足系ランナーがいるかどうかを探すためだ。東北では裸足種族は滅多にお目にかかれないドラキュラ族のようなもの。この大会では、僕はまだ仲間を見つけられずにいる。
裸足系ランナーは大きく二系統に分かれる。一つは今日の僕のように完全に裸足の場合、もう一つがワラーチという草鞋に似たものや、五本指に分かれた足袋のようなものを履く場合。ちなにに僕が裸足で走るのは曇りか雨空のときだで、晴れているときはワラーチを履いて走る。太陽の日差しでアスファルトが焼けていると、熱くて裸足では走れない。それから、最初は曇っていて途中から晴れだした場も、大抵ワラーチを履く。もちろん路面が極端に荒く、足裏の痛みが続く場合もワラーチを履く。つまり、僕は裸足ランナーとしては腑抜けといってよく、どんな天候だろうと、どんな路面だろうと、フルマラソンでも山道でも裸足で駆け抜ける猛者達の足元にも及ばない。
そんなわけで、僕はいつでもワラーチが履けるように、ポケットにワラーチを忍ばせて走るのだ。裸足で走るのが好きと言いながら、軟弱な裸足ランナーであることは否定しない。
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