第10話
*
天井のシーリングファンが、うだるような暑さを蹴散らそうと一生懸命にぐるぐる回転をしていた。フル稼働しているエアコンが、それに合わせるかのように気合いの唸りをあげる。外の猛暑は早朝から厳しいものだったが、文明の利器によって店内は快適な風がそよいでいた。
「亮、開店前に外の掃除やってきて。バイトの子遅れるみたいやって」
「はい。それからオーナー、これ終わったら次どれに行ったらいいですか」
「プディングの仕上げに行って。こっちの方は終わらしとくから」
「分かりました」
クリームを絞る手を止めて篠原は答えた。オーナー、と呼んだ相手は、篠原の父親である。福井出身の父親は、半年間ここで暮らすうちにすっかり元の方言に戻っている。
自分が福井弁を話す姿を、篠原はイメージしてみた。しかしさっぱりそのイメージは湧いてこない。クラスメイトの真似をして「ほやってー」と呟いてみたが、どうやっても抑揚が微妙に違う。福井弁には独特の波があって、そのリズムが掴みきれないのだ。一生福井弁のマスターは無理だろうなとすぐに諦めた。半年ほど福井にいて、篠原は未だに標準語のままだ。
ドアを開けると、朝とは思えないほどの太陽の光が肌を刺してきた。暑さに顔をしかめてふり仰ぐと、青一色に塗られた晴天が広がっていた。
「あら亮くん、おはようさん」
「あ、
篠原に声を掛けた女性は白髪に農作業用の帽子をかぶり、背中を丸めて店の外で草むしりをしていた。篠原の祖父の知り合いらしく、週に二、三回、庭の手入れをお願いしている。
「亮くん、今日も仕事なんか。偉いのお」
「夏休みは稼ぎ時なんで、しっかり働かないと。定家さんも朝からお疲れさんです」
「私はええんや、趣味の延長みたいなもんやから。これが終わったら今日はもう帰るでの。亮くんもお仕事、無理せんと頑張っとっけね。若いからっていって無茶せんと、休みはちゃんと取るんやで」
「はい、大丈夫です」
定家は手早く草むしりを続けた。篠原も箒で砂埃を払う。
川のせせらぎに合わせて小鳥が軽やかな歌を披露していた。蝉が大合唱を始めてその歌を遮る。店の前を白い車が通り過ぎる。田園風景の向こう側には北陸新幹線の線路が伸びていて、風を切る音とともに新幹線「かがやき」が走っていった。朝の穏やかな時の流れが、頭の中で目まぐるしく組まれていた作業工程の流れをひとときの間忘れさせてくれた。
篠原にとって田舎暮らしは意外にも性に合っていて、田舎の安らぎが心に癒しの芽を育ませてくれた。平日は勉強、休日は仕事三昧で娯楽にも大して興味がないし、欲しいものがあればネットで買える。福井の生活というのもそれほど悪くない、と篠原は評価していた。欲を言えば、東京までの交通費を少しでも安くしてもらえれば言うことなしだ。
心地よい静けさに不快な暑さと仕事の疲れも和らぐようだ。鼻歌の一つでも歌いたくなるような気分だった。そんな気分をハサミでプチンと断ち切るかのように、背後で自転車の金切り音がした。と同時に、なぜか不吉な予感がして胸が騒めく。
「篠原先輩!」
この世で最も不愉快な声が彼の耳に飛び込んできた。そろそろと後ろを見ると、髪を振り乱し汗まみれになった丸美が自転車から降りて、道端で亡霊に出くわしたかのような凄まじい形相で仁王立ちをしていた。
「先輩、聞いてください。私――」
一目見てこれはまずいと直感した。面倒なことにはこれ以上巻き込まれたくない。篠原は丸美の声に気が付かないふりをして、さっさと引き上げようと箒を片付け始める。
「ちょ、待っ……お願いですから逃げんといてください、先輩。私、もう、もう……」
丸美はそれ以上言葉を続けることができずに、なりふり構わずえぐえぐと嗚咽しだした。怒ったり泣いたり、あまりにも目まぐるしい表情の変化で見ている方が混乱してくる。篠原の隣では、事情を理解できない定家が、目をまん丸にして作業の手を止めていた。そろりと篠原に視線をやって、これは何事かと目で責めていた。
「亮くん、モテるのは分かるけどのお。いくらなんでも、女の子を泣かすのはあかんさけえ……」
これ、絶対に勘違いをされている。篠原は帽子に手をやって舌打ちをした。
「違いますよ、この人が勝手に泣いているだけです。僕には関係ありません」
「関係あります! わた、私、もう……どうしたらいいのか……」
「分かった、分かったから、近所迷惑になるしやめて。店の裏に堤防があるからそこで待ってて。少しだけ店を抜けていいか、親父に聞いてくるから」
涙を拭きながら丸美は頷いた。篠原は青い空を再び仰いだ。定家の眼は疑いを持ったままだ。良からぬ噂が広がらぬよう、あとでちゃんと説明をしておかないと。全く、今日こそが人生最悪の日になりそうだと、空の向こうの誰かに向かって篠原は恨み節を泣く泣く吐いた。
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