第6話


 嫌な顔を隠そうともしなかった篠原だが、さすがに営業中はまずいと思ったのか、表情を一変して「いらっしゃいませ」とにこやかに挨拶をし、二人を店へと招いた。このあたりの切り替えの早さはさすが職人だなと妙に感心し、丸美と笑美は顔を見合わせた。


 篠原は二人を接客の子に任すと、世間話のひと言もなくすぐに奥へ引っ込んでしまう。


 ケーキが並べられたショーケースの奥には、テーブル席が五つにカウンター席が少し。ダウンライトの柔らかな光の影で、重圧感のある薪ストーブが炎を潜めて店の隅に鎮座していた。大きく開かれた窓から初夏の日差しがテーブルの上に届けられ、ガラスの花瓶から放射状の光の線が伸びていた。


 運よくテーブルが一つ空いていたので、丸美と笑美がそこに座る。すぐ後に家族連れが一組やってきて、玄関で順番待ちをしていた。


 メニューを決めた後、丸美はテーブルに肘をのせて両手を合わせ、店内のあらゆるところに視線を這わせた。壁にかかったアンティーク雑貨に、誰が読むのか分からない古い洋書、シマトネリコのテラコッタの鉢、そしてテーブルの上の可愛らしい小花と、それぞれ順繰りに目を泳がせていった。


「丸美、落ち着かんねえ。大丈夫?」

 そわそわと首と目を動かしている丸美に、笑美が苦笑した。

「え? 緊張なんかしてないよ。店作りを研究してるだけやで」


 研究、とはいうものの、自分の店との明らかなレベルの違いに、さすがの丸美も少々気後れしてしまったのは否めない。店の雰囲気もさることながら、客の笑顔を見るだけで、いかにこの店が満足度の高いもてなしを提供しているかが伝わってくる。悔しいけれど、負けた、と思った。喉の渇きに気が付いて水を飲んだ。爽やかなレモンの香りが、苦い感情を喉の奥へと流していった。


 フードメニューはガレットをチョイス。クレープ生地の中にクリームソース、キノコとベーコン、黄卵が入り、野菜が添えられていた。野菜は地元産のリーフ、越のルビーというトマト、生地には福井県産のそば粉が使われていた。パリッとした風味が香ばしくて美味しかった。自家焙煎されたグアテマラミラドールとかいうコーヒーも頼んだ。コーヒーはシトラス系の酸味がありながらチョコの風味があるとか様々な情報がメニューに書いてあったけれど、他のコーヒーとの違いはいまいちよく分からない。ただ風味が抜群に良いのだけは分かった。ぽってりとしたカップが愛らしくて、見ているだけで気分が浮き立ってきた。陶器は越前焼で揃えているらしい。


 ここへ来た一番の目的は、食後のチョコレートケーキだった。篠原がコンテストのときに紹介していたものである。運ばれてきたケーキを見て、一瞬目を疑った。真っ赤なクリームとベリーの果実がケーキの上に乗っていて、頼んだものを間違えて運ばれてきたのかと疑ったのだ。フォークで切ってみると、鮮やかな赤いゼリーとチョコのムース、黒いスポンジが何層かに分かれて出てきた。一口ぱくりと食べてみる。チョコの風味の中にさっぱりとしたベリーと紅茶の爽やかさがあって、複雑な甘い香りがすうっと鼻腔に抜けていった。とろけるような食感と程よい酸味が口いっぱいに広がっていった。


「美味しい……」

「うん……」


 丸美も笑美も、ケーキを食べるときには口数がぐんと減った。本当に美味しいものを食べるときには声を失うものだと、生まれて初めて体験した気分だった。


「篠原先輩って、平日の夕方とか、土日も一日中働いてるらしいよ」

 コーヒーを飲みながら笑美が教えてくれた。

「え、ほんとに? 休みないやん」

「うん、なんか、ここで修業して本格的なプロのパティシエ目指してるんやって。ほかの子から教えてもらった」

「へえー……」


 ミスコンのときの篠原を、丸美は思い出した。お店やケーキ、円周率といった場違いなことばかり喋っていたけど、ふざけていたわけではなかったのか。


「ただのバイトが宣伝してるだけやって思っていたけど、意外に真面目なんやな、あいつ」

「真面目どころか真剣なんかもしれんよ」

 笑美はコーヒーを飲み終えてテーブルに置いた。


「それこそ八重園先輩がかるたに真剣なのと同じくらい。だから自分のお店のことでいろいろ言われて、カチンときたんやないかな。篠原先輩のことは私もちょっとだけ怖くて近寄りがたいけど、あんとき怒ってた気持ちがなんとなく分からんでもないよ。うちらだって、かるたはこっちの高校の方が強いなんていきなり言われたら、やっぱ腹立つやん」

「んー……」


 丸美は視線をテーブルに落とした。八重園先輩というのは競技かるた部の部長である。競技かるたの名人を目指すほどに腕は強く、和歌とかるたにかけての真摯さでは誰にも負けない。あの八重園先輩と目標の高さが同じならば、一方的に言い過ぎたのはあるかもしれない。


「それに丸美、篠原先輩って東京から来たばっかりやって知ってた?」

「え、ほうなん?」

「うん、だからザウザウルスのこと、知らないんやないかなあ?」

「あ」


 冷たい空気がヒュッと喉に流れ込んできた。


『ザウザウなんとかって、いったい何?』という篠原の声が耳元で聞こえたような気がした。彼のイントネーションは福井弁とは全く違う。


 福井ではメジャーな存在、ザウザウルス。だから今まで失念していた。ザウザウルスは、大阪発の関西限定ゆるキャラだ。

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