第12話 間話

 りかの家は、裕福な家庭だった。両親ともに偏差値六十以上の大学を出ており、ともに理系。特に、母親の真澄は厳しい親元で育ち、人付き合いを選ぶような性質をもっていた。それは、他人に厳しいことを意味し、同時に彼女の内面に強い自己啓発の念とそれによる鉄のような規則を生み出していた。その規則の一つが、『アニメや漫画は成績を下げる』という考に基づく娯楽の制限だった。それ以外にも、朝は五時に起き、二二時に眠る、日記を毎日つける、家事を怠らない、食事は三食、栄養を考えたモノを食べるといった日常生活の習慣から、一日最低二十ページ本を読む、ヨガを十分行う、三十分の散歩をする、部屋は週に一度掃除をし、無駄な物を置かない、一週間の目標を掲げる、などの趣味の領域までを彼女は規則作っていた。ただ、そのような規則を人に強制することは不可能である、ということだけは彼女もよく知っていたから、人間関係を悪化させるようなことはこれまであまり多くなかった。夫である和樹も、そんな妻の一面に惹かれ、あるいはそこに己の理想を見出した人物だった。彼は、昔から規則正しい生活というものができなかった。例えば、休日は必ず起床が遅いし、昼夜逆転などはよくあることだ。誰かに命令されたことはきっちり出来たが、自発的な行動はなかなか続かなかった。そんな彼は、勉強がよく出来た。勉強は彼にとって、己の規律を形作る一本の軸のようなものだった。彼は高校に入学して以降、その自覚を徐々に強めていった。その反面、強制的に勉強しなければあらゆる分野に手を出し、飽き、堕落した生活をしてしまう性分でもあった。社会に出た今では学生時代の『勉強』を『働くこと』に置き換えているが、それでも家で自分が規則正しくあれるのは妻の真澄が規則正しいからだと彼は信じている。そんな一見して相性の良い二人には大きな思想の違いがあった。真澄が『学力主義の効率派』であり、和樹が『あらゆるジャンルに興味を持つ自由派』であることだ。

 二人のその思想は、まだ二人であるときはぶつかり合うことがなく正常に働いていた。だが、娘ができたとなるとそうは行かなくなった。一人娘のりかを欲しがったのは、妻の真澄の方だった。和樹も子供を欲しがったため、その提案にすぐに賛成した。しかし、りかを産み、育児をしていくに連れ、二人の思想の違いが表に出てくるようになった。真澄はりかに、第二の自分を見出そうとしていた。彼女は自身の人生でやっておいたほうが良いこと思ったこと、そのすべてをりかに与え、不要だと感じたものは排除していった。そのため、りかは幼い頃から三つの習い事に通い、それが年を重ねるごとに増えていった。五年生の今でこそ五つになったが、三年生のときは七つあったのだ。りかがやめたのは習字と水泳だった。それは、和樹の説得によってなくなったものだった。和樹はりかが習い事に通っているのを見て、そのすべてが真澄の命令のように思えてならなかった。和樹はりかの自発を望んだ。りかが幼少期のときまでは、まだ自発を求めるべきではなく、その時期の親の態度や親が子に何を強制させるかが重要であることを理解していたから、彼も最初のうちはあまり口を出さなかった。だが、小学二年にもなってくると、りかから習い事をやめたいとか、そういった文句が出てきた。そして、その文句はすでに和樹にしか言われなくなっていた。過去、りかは真澄に何度も幼きながらの文句を言ったのだが、どうしても取り扱ってはくれなかったのだ。その結果、りかは母親に抵抗しなくなっていた。和樹はこの状態はまずいと思い、教育方針について何度も真澄と対立した。子の意見を汲め、その上で命令ではなく、必要性を教えてやれ、と和樹は何度も説いた。しかし、ならそれはあなたがやればいい、と常に一蹴された。それでも、理屈で食いついた結果、習字と水泳の廃止だった。


 だが、夫である和樹がどれだけ反対しようが、真澄のりかへの命令的な態度は崩れなかった。和樹はすでにりかが真澄に対して心を開かなくなったのを知っているし、その影響でりかは口数が減り、人の目を気するようになってしまったことも知っていた。クラスで浮いてしまったことも知っているし、それを真澄がなんとも思っていないことも知っている。けれど、二年生の夏、ふとりかの口数が増え、満面の笑みを和樹に見せたことがあった。その日からりかは劇的に明るくなったのだ。何事にも前向きに取り組むようになったし、陸上部に入りたいと言ったのもその影響だろう。友人もできたと言っていた。一度、和樹はりかに、最近元気だな、と投げかけたことがある。その時、りかはこう答えた。『ともむのおかげなんだ』と。ともむはりかの同級生で、幼馴染の優しい男の子だった。


 そして今日。その、ともむから貰った大事な杖がなくなった、と帰宅してすぐ和樹はりかから相談された。それは、りかが自動車に轢かれそうになって、ころんで出来た怪我に包帯を巻いた次の日の出来事だった。彼はその日、臨時の仕事が入り、朝早くから外へと出ていた。

「おもちゃの杖なんだけど、多分、お母さんの部屋にあると思うの。探してくれない?」

 和樹が帰ってすぐ、りかは彼に言った。それは甘え声ではなく、命令に近い声だと和樹は思う。母に似たのか、和樹に対してはりかは強気な口調で言葉を発した。

 母親の真澄はまだ帰ってはいない。彼女もまた別の仕事をしていた。それはパートだったが、休日含めほとんどフルタイムで働いていた。そして、後数分もすれば帰宅するはずだった。

「ああ、またなにか取り上げられたのか」

 和樹は呑気そうに言って、居間を抜けた階段を見つめた。その先を登ればすぐに真澄の部屋につく。ついでに時計を見ると、十八時過ぎだ。本来、りかはこの時間塾か習い事をしているはずだった。しかし、その管理のすべてを真澄が行っているから、何日に何が入っているかは和樹はあまり把握していない。

「今日は、塾はないんだったか」

「今日の午後だけ休みなの。というか、この怪我だからもう大半の習い事には行かないけどね。野外活動にもいけなくなったんだし」

「そうだったそうだった。まぁ、この期にゆっくり休め」

 怪我した状態での野外活動の参加停止は、和樹も真澄の意思だった。流石に、怪我した状態でキャンプなどさせるわけには行かない。

「杖のことだけど、取ってくれない?」

「部屋かぁ、あの部屋のどこにあるんだろうな…」和樹はつぶやく。

 和樹はだいぶ前に見た真澄の部屋の中をイメージした。彼女は己の部屋に勝手に入られることを嫌い、扉もいつもきっちり閉まっているから和樹でも彼女の部屋を見たのはずっと昔のことだった。あの部屋に物を置くスペース自体、和樹にはないように思われた。

「クローゼット、あるじゃない?多分、あの中」

「部屋に入ったのか?」

「ううん。扉開けただけ。クローゼットに、鍵がかかってたから」

「鍵が?…鍵…」

 和樹は頭を捻る。

「鍵か…ああ、あれか」彼は少し経って頷いた。「鍵な」

 彼ははるか昔のことを思い出した。結婚式を上げた翌日のことだっただろうか。記憶は曖昧だが、その数字だけは覚えていた。『1111』。それはなんの意味もない数字だ。彼女は確か、絶対にクローゼットは開けてはいけないと言っていいただろうか…。記憶が曖昧だ。真澄のことだ、その言葉には深い意味があるのだろう。ここは慎重にならねば、と彼は気が引き締まる。

 だが、

「外せる?」

 とりかに問いかけられ、彼のそんな気はすぐに引っ込んでしまった。

「ああ、できるぞ」

 それは子に尊敬されたいという父の欲求だった。

「じゃあ、お願い。お母さんが帰ってくるまでに…」

「ああ、そうだな。急ごうか」

 和樹は壁にかけられた時計を見る。そして、その横の階段に視線を移す。そこを登れば、すぐに真澄の部屋にたどり着く。一体、何年ぶりだっただろうか。真澄の部屋に行こうと思うだなんて。和樹は無造作に食卓の上に仕事カバンを置き、りかを背に階段を登った。


 二人は、まるで牢獄のように鎮座する真澄の部屋までたどり着いた。扉は頑丈に閉じ、それは自分の部屋の扉と同じ作りなのに、まるで鉄の壁に見えた。和樹はドアノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。冷たい空気が開いた隙間から入ってくる。狭い部屋だ。ただ、ものはとても少ない。部屋の内装は、十三年前のあの日から、一切替わっていなかった。

「あのクローゼットだな」

 和樹はほとんど部屋の内装を見ず、クローゼットに飛びついた。部屋に入った時のしんみりとした寂しさが、彼をそうさせたのだ。この部屋は孤独の空気を纏っている。まるで他人の部屋のようで息苦しかった。

 和樹はクローゼットにロックされた鍵の数字を、慎重にずらしていった。四箇所全て、1とはバラバラの数字だった。数字が揃った時、かちり、と錠が鳴った。

「開いた」和樹の隣でりかがつぶやいた。

「開くぞ」

 クローゼットの中には、ハンガーにかけられた洋服や外套が数着だけあった。和樹は一歩後ろに下がり、全体を見渡す。下に引き出しがついている。

「これか」

 和樹は屈み、引き出しのくぼみを手前に引く。

 引き出しの中は書類の束重ねられており、その上に杖はあった。おもちゃやさんにあるような杖だ。スカイブルーで、柄は握りやすいように軽いくぼみが出来ている。杖の先端にはピンク色のリボンがデカデカとついていた。

 和樹は苦笑いをしてしまう。それは、本当にこの部屋に似つかわしいものだったから。

 和樹が杖を取り出そうとすると、その前にりかがトビのような早さで掴んだ。和樹の手がりかの手に触れそうになり、そこで彼はりかの方を向いた。りかは頬を少し赤らめ、「もういこ。ありがとう」と早口でいい、和樹から数歩後ろに離れ、早足で部屋から出ていった。和樹はりかになにか声をかけようと思ったが、その言葉がなかなか見つからない。

 りかの足音が聞こえなくなった時、彼はため息を吐いた。自分も退散しようとその引き出しを見た時、その表紙がデカデカと目に入った。

【りかを東大へ行かせる計画】

 何を考えているんだか。

 彼はもう一度、今度は深くため息を吐く。

「そんなのは野蛮じゃないか」

 和樹はもう、りかの好きにさせたいと思っている。りかが持っていった杖に、どのような意味があるのかはわからない。けれど、きっとそれはりかの大切なものなのだ。

 彼は引き出しを閉じ、クローゼットの扉を閉める。手際よくロックをし、数字を最初のものと同じにした。立ち上がり、腕を伸ばした時、彼は天井の角に黒い物体を見た。

 それは、監視カメラだった。

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