第18話 嵐が来る

『こっちへおいで』


 振り向いても、誰もいない。

 空耳だろうと考えて、声の主を探すのをやめる。するとまた声が響いた。


『お嬢ちゃん、こっちへおいで』


 今度こそはっきりと聞こえた。

 ご本家の裏手にある雑木林の方だ。


 その雑木林はまだ小さかった椛の背丈をはるかに超えるほど鬱蒼と生い茂っていて、入口には色のはげ落ちた古ぼけた鳥居があった。


 その声音は優しく聞こえて、椛は雑木林に近づく。そして思い出す。「裏手の雑木林は近づいてはいけない」と言われていたことを。足を止めると、もう一度声が響いた。


『お嬢ちゃん、こっちにおいで。面白いものがあるんだ』


 思わず。そう、思わず幼い彼女は雑木林の方へ一歩を踏み出す。


 寂しさか、好奇心か。とにかく、その時の彼女にとってその不思議な声は、「雑木林に近づいてはいけない」という約束を破るのに十分なものだった。


 一歩、また一歩と雑木林の入り口である鳥居に近づく。

 一歩、古ぼけた鳥居の方へ。

 二歩、鳥居はもうすぐそこだ。

 三歩、鳥居の奥に積まれた石が見える。


『そうだよ、こっちにおいで。キュオオオン』


 そして彼女の身体が鳥居を越える――その瞬間だった。

 不意に椛の右手はぎゅっと握られ、ご本家の方へ、つまり鳥居とは反対方向へと力強く引っ張られた。見ると彼女の右手を握っていたのは、中学生くらいの男の子だった。


「だめじゃないか。ここに近づいてはだめだと言われなかったのか?」


 優しい口調だったが幼い椛は黙りこくってしまった。その姿を見てか、軽く彼女の頭をポンポンと撫でると、「遊ぶなら家の中にした方がいい」とだけ言って立ち去っていった。結局それ以来、椛はその年上の男の子とは再会してない。


 ただ、その日からだ。

 椛が人ならざる者の姿を見えるようになったのは――。



 ☆☆☆☆☆



「はーい、これで期末テストも無事に終わりね。でも台風来るから気をつけて。土日は遊びに出かけないように」

「えー、せっかくテスト終わったのにー」

「台風も来るなら学校の日に来いよなあ」


 先日発生した大型で猛烈な台風六号は、広い範囲を暴風域に巻き込みながら、毎時二十五キロの速さで南西諸島を北上していた。テレビでは警戒を促しており、被害がでることが予想されている。


 そんな学校の帰り道、椛はテスト期間中気になっていたことを口にした。


「ねえ蒼真」

「なんだ?」

「蒼真ってさ、昔私と会ったことある?」


 椛の言葉に、蒼真は歩みを止めた。


「どうした急に?」

「夢で見て思い出したのよ。昔ご本家に行ったときに不思議な事があって、その時お兄さんに助けられたなって」


 目の前の蒼真とあの年上のお兄さんが同一人物であるという不思議な確信が、今の椛にははっきりとあった。


「確かに、俺は君に昔会っている。黙っていてすまなかった」


 意外にも簡単に白状した蒼真は、再び歩き始めながら話を続ける。


「龍は不老なんだ。人の姿は多少調整できるが、まあ一定だ」

「へえ、じゃあいつから生きてるの?」

「どのくらいだろうな。奈良に大仏が建ったくらいか?」

「そうなんだ。じゃあすっごいお爺さんじゃん」

「老人扱いするな。不老ということは若いままだということだ」

「はーい、若ぶるならスマホ扱えるようになってから言ってくださーい」


 軽口を言い合う和やかな雰囲気だ。そんな雰囲気だからこそ、椛は抱えるのうちひとつを投下した。


「あの雑木林に封じられていたのって、鵺なんでしょ?」


 蒼真の足が再び止まった。

 まだ正午だが商店街の裏道は他に人通りなく、話を聞かれる心配はない。


「どこでそれを?」

「聞いたんじゃなくて思い出したのよ。あの日、あの場所で、あの特徴的な鳴き声を聞いたなって。私が狙われるのも、もしかしてそれが理由?」


 蒼真は考え込むような表情を見せると、言葉を選びながら話し始めた。


「椛の言う通り、あの場所にはかつて柳町家の陰陽師が倒した鵺が封印されていた」

「私が封印を解いちゃったの?」

「そうではない。長い年月で封印が緩んでいたんだろう。そして鵺は逃げ出した。君を怖がらせたくないから伝えなかったが、鵺は力を蓄えるためにもう何人もの霊力の高い人間を食っている。その中には討伐に赴いた陰陽師もいた」


 鵺に食べられて死亡、なんてニュースは表には出ないが、たいてい行方不明とか事故死として片づけられる。普通の人間に妖怪は見えないためだ。


「ご本家は鵺を討伐するために各地に陰陽師を派遣した。だがそういった事情もあって数が足りず、君の所には式神である俺が派遣されたのだ。面識もあったからな」

「なるほど。それこそ蒼真が私のところに来た理由」


 その一つだよね。椛の得た確信は、心の中でそう付け加えた。

 そして、もう一つのを投下する。


「ねえ蒼真、紅葉姫もみじひめって知ってる?」

「…………っ!?」


 今度ははっきりと、普段むっつりとした真顔の蒼真にしては珍しく動揺をみせた。


「どこでその名を?」

「郷土史よ。翠梅寺川の神様も載ってたわ。銀色の鱗の龍だった。あら、あなたの本当の髪色も銀色だったわね?」


 蒼真の目が泳ぐ。知られたくない過去――いや、現在の心の奥底に踏み入られた目だ。


「……その図はおそらく、俺の本当の姿だ」

「やっぱり。じゃあ当然紅葉姫のことも知っているわよね? 翠梅寺川に身を投げたって言うし」


 深く。深く深呼吸をして、蒼真は遠い目をして喋りだす。


「彼女は――紅葉姫は優しい人だった。人と妖を区別せず、誰に対しても優しかった。だのに……!」


 戦だった。その時の彼にはどうしようもなかった。彼女のか細い身体が彼に飛び込んできたとき、蒼真は受け入れることができなかった。


 だから人の姿をとって、柳町家の門を叩いた。

 式神として人の世に関わるために。


「そして、私に似ていたんでしょう?」

「ああ。初めて君を見た時、生き写しだと思った。生まれ変わりというものを信じたくなった」

「だから私を護ってくれるの? 紅葉姫に似ているから?」

「それは……!」


 気まずい沈黙が流れた。

 その永遠にも思える静寂を打ち破ったのは椛だった。


「ねえ、あなたは紅葉姫を護りたいの? それとも私を護りたいの?」


 台風を予感させる、強い風が二人の間を駆け抜けた。

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