第19話 戦神の力

 大きな帆をはためかせ、客船が大海原を行く。

 甲板では青年が潮風に当たっていた。


「エリクなにをしているの?」

「海を眺めていたんだ。見渡す限り水しかない世界なんて、こうして見てもまだ信じられないよ」


 青年の名前はエリク、背後から声をかけてきた女性はリディアという。


 二人は同じ大手冒険者ギルドに所属していたが、結婚を機に危険な冒険稼業から引退することを決意。


 貯めていた資金を使って、新大陸で羊飼いとして暮らす道を選んだのだ。

 現在客船に乗っているのはそのためである。


「穏やかなところだね。ずっと船の上で暮らしてもいいくらいだ」

「船酔いしなくていいわよね。わたしは薬に頼りっきりよ」


 リディアは陸のときより、少し青くなった顔で言う。

 それからこう続けた。


「あなたはまだ海の怖さを知らないのよ。時化のときなんて大変なんだから」

「そうなのかい?」

「波は甲板にかかるくらい荒れるし、風だってマストが折れそうなほど吹くの。そうなったら船なんて小さな落ち葉みたい翻弄されるの。あのときは死ぬかと思ったわ」


 もう二度と遭いたくないと言わんばかりに、リディアが嘆息する。


「それは怖いな。怒ったときの君みたいだ」

「ちょっとどういう意味よ!」


「冗談だよ」と笑うエリクの胸板を、リディアがポカポカと叩く。

 絵にかいたように幸せな光景。


 それは鋭い笛の音によって破られた。


 ピイイイイイイイィーーーーッッ!!


「ど、どうしたんだ!?」

「なにが起こったの!?」

「魔物だ! クラーケンが出たんだよ!」


 船員が二人に向かって大声で叫ぶ。

 他の乗客たちも急いで階段を降り、船室へ逃げ込もうとしていた。


「クラーケンって……あれか!」


 エリクの目にクラーケンの姿が飛び込んでくる。


 飛沫をまき散らしながら甲板に足を乗せるそれは、圧倒的な大きさを誇るイカの魔物だった。


 体長は客船以上で、十本の足は一本の太さだけでもマストを超えている。

 掴まれでもしたら、人間などひとたまりもないだろう。


「ほ、砲撃開始! 撃て撃て!」

「ダメです船長! 弾が効きません!」

「や、やべえぞこれ! サーベルの刃が入っていかねえ!」

「いやだ! 死にたくないいいいいいいい!」


 大砲の砲撃をまったく意に介さないクラーケン。

 船員たちは恐怖に狩られ、あちこちから悲鳴が上がる。


「そんな……エリクどうしよう!」

「落ち着いて。こういうときこそ冷静にならないと」


 顔面蒼白のリディアを抱き寄せてなだめる。

 冒険者だったエリクにはわかっていた。


 クラーケンの大きさはA級クエストで出現する魔物に匹敵する。

 普通なら上級冒険者複数人でパーティーを組んで対処する相手だ。


 船室に隠れたところで、船ごと海の藻屑になるのがオチだろう。


「わたしたち死ぬの? 結婚式だって挙げたばかりなのに……ギルドマスターやみんなだって祝福してくれたのに……」

「そんなことはさせない。君は僕が守る」

「でも! あんな化け物とどう戦うのよ! 砲弾だって効かないのよ!」

「リディア、僕を信じてくれ」


 エリクは腰の皮袋から一本の瓶を取り出した。

 それは『戦神の強壮薬』。


 冒険者をやめるときに、ギルドマスターから選別でもらったものだ。

 絶対に負けられない戦いで使えと言われていたが、いまがそのときだろう。


「戦神よ、僕に力を与えたまえ」


 エリクは瓶の蓋を開け、エメラルドグリーンの中身を一気に飲み干した。


「──ッ! これは……!」


 エリクの瞳がカッと見開かれる。

 身体に力が漲っていくのがわかる。


 まるでトロールの腕力とケンタウロスの脚力を、同時に手に入れたような気分だ。

 いまならなんだって出来そうな気がした。


「おお……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 甲板に転がっていたサーベルを拾い、エリクはクラーケン目掛けて駆ける。


 吸盤を蠢かせる巨大な足に向けて、銀色の刃が水平に振るわれる。


 ザンッッッッと空気が震えた。


「なっ、なんだよいまの音!?」

「どうなってんだよこれ!?」

「え? せ、船長?」

「おらぁ、夢でも見てんのか?」


 船員たちが驚きの声を上げ目を丸くする。


「エリク、すごい……」

「言っただろう? 僕を信じてくれって」


 リディアは口元に手を当て感涙する。

 彼女の視線の先には、勇者のように微笑む最愛の人の姿があった。


 その後ろでは、横一文字に真っ二つになったクラーケンが骸を晒していた。






 ◇ ◇ ◇ ◇






 辺境貴族のアーサーは悩んでいた。


 それは妻と夜の営みができないことである。


「おれももう歳なのか……」


 一回り以上年下の妻だが、大恋愛の末に周囲の反対を押し切って結婚した女性だった。


 これから幸せな家庭を築き、四十前でようやく子供を持てると思ったときに、ようやく気づいたのだ。


 自分の分身が一向に屹立しないということに。


「あいつに勧められて購入してみたが、本当に効果があるのだろうな」


 手に持った瓶、『戦神の強壮薬』に目をやる。


『この精力剤は本物です。使えば娼館の女すべてを抱くこともできるでしょう」『そ、それは真か!? どこで売っている!』

『ドロシー魔法薬店というそうです』


 三日前の会話を思い出す。


 アーサーには上級冒険者の友人おり、戦神の強壮薬は彼から精力剤として紹介されたものだった。


「これで効果がなければ、あの店を潰すほかあるまい」


 金貨二十枚という金額は、辺境貴族であるアーサーでも安くはない。

 そもそも大切な私財を精力剤に使うことが馬鹿げている。


 それでもアーサーは自らドロシー魔法薬店に赴いて、戦神の強壮薬を購入したのだった。


 すべては男としての自信を取り戻すために。


「さあ、頼むぞ。戦神よ、おれに昔の力を与えたまえ!」


 アーサーは瓶の蓋を開け、一気に中身をあおった。


 マンドレイクを中心に、様々な薬効成分が身体の隅々まで行きわたる。

 全身の毛穴が湯気がでるような熱が湧きあがってきた。


「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!! なっ、なんだこの力は!?  身体が燃えるようだ!」


 十代の頃、いやそれ以上の精力が股間から漲ってくる。

 いまなら千人の美女を相手にすることも可能だと思えた。


「アーサーどうしたの?」」


 寝室の扉の前で咆哮する夫に、妻のクラリスが心配そうな声をかける。


「クラリス、ベットに行こう。今夜はキミを寝かさない」

「あ、あなた……!」


 その夜、アーサーの寝室からは男女が獣のように吼える声が聞こえたという。








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