第5話ゲーム

「だって、私たちはこの、よく分からないルートとか言う世界にいて、既に死んでいるんだから。ここはある種の『あの世』みたいなもので、還ることなんてできないんだから」

 亜十夢はキョトンとした顔になって、どういうわけか次にはあのヒステリックな笑い声を上げた。

「なんなのよ」

「覚えてないの? もう忘れた?」

「え?」

 ようやく笑い声が治まると、彼は、はぁと息を吐いた。

「言っただろ? ここはルート2。生き還るか、消えてなくなるのかを賭けた消失点を決めるゲームをする場所だって。つまり、まだあんたにチャンスはあるってこと」

 ハッとして彼を見た。言われて漸く気づいたの、と半ば呆れ顔で笑う亜十夢の姿には、もう小学生に見えたあの面影はなか

った。

「私たち戻れるの?」

「いーや? 誰も二人揃って還れるなんて言っちゃいないだろ。ゲームなんだから、勝敗があるのは目に見えてるだろう

が」

 ケラケラと笑う。そんな姿の彼を見ていると、やはりどことなく狂人めいて見えてーー少し怖かった。

「でも、ゲームって。何をするの? どうすればいいのよ」

「簡単だよ。相手をここから消すだけ。例えば、あんたが最初に押そうとしたあのボタン」

 ほら、と亜十夢は顎で示した。あの例の黒いボタンを。

「あれを押すと扉が開くんだってさ。そして、あの扉をくぐって出たら、たちまち闇に呑まれて苦しみ消える。少なくともボクはこの世界の案内人にそう聞いた」

 平坦な口調で話す彼からは、まるでそれが当たり前の事実のように考えていることが容易に知れた。つまりはあの時亜十夢が止めてくれなかったら、私は何も知らずにそんなところへ足を踏み出して、何が起きたのかも理解できないままに苦しみ消えるところだったのだ。少し考えただけでもゾッとした。そんな私の考えをよそに、亜十夢は話を続けていた。

「あのボタンを押して、ボクを外に押し出せばいい。それでおしまい。あんたは元の通り。還ってその友だちと仲直りできる。めでたしめでたし」

「ーーえ?」

 驚いて亜十夢を見た。気怠げなニヒルの笑みを浮かべて、思わず声を上げた私に不思議そうな目を向ける。理解が及ばない

のは私の方だった。

「どうして? あなたは、亜十夢は?」

「いや、ボクは別にロクでもないあんな世界に戻るなら、虚に還っても構わないし。それに忘れた?」

 彼はまた嘲るような調子で尋ねる。忘れた? と聞きながら、ピンと両方の腕をーー実際には伴わないその腕を伸ばし

た。

「ボクはどのみち、あのボタンを押せない」

「じゃあどうして最初に私がボタンを押そうとしたのを、押してここから出ようとしたのを止めたの? あんたには、亜十夢にはチャンスだったでしょ? あの時点でゲームだって知ってたんだから、私を放っておけば生き還れたのに」

 そう、きっと立場が逆だったら私はそうしていただろう。亜十夢の説明の中で唯一腑に落ちないところだった。

ピンと伸ばした亜十夢の腕の先、その長袖のシャツがゆらりと揺れた。

「言っただろ? ゲームなんだって。ルールも理解しないで参加した人に勝ったところで、勝者とは呼べないし、何も知らずに負けを決め込んだ相手だって敗者とは呼べない。ルールを把握してからがゲーム開始なら、あれはまだ始まってもなかった段階だろ?」

 先のない腕を下ろした亜十夢はふとこちらを見るとにっこり笑った。

「それにね、ボクはあんたと違って未練なんてないんだ。早く終わるならそれで構わないし、ボクを押し出したからと言って、あんたが気に病むことじゃない」

「そうかも知れないけど」

「それにお姉ちゃんが言ったんだよ、『名前を聞いたところで

当人自身のことを何も知らなかったら、結局のところ赤の他人にすぎない』って」

 思わず息を呑んだ。たしかに言った。数時間前に。そんなつもりなんてなかったのに。

 今になって失言を後悔する私に、亜十夢はふふっと微笑む。

「ボクは亜十夢。名前は伝えたけど、ボク自身のことは何も話

してない。逆にお姉ちゃんは名前は教えてくれなかったけど、自分自身ことを話してくれた。だから、ボクは扉も開けられない自分じゃなくて、友人をやっと持てそうだったお姉ちゃんに生き還ってほしい。ボクはお姉ちゃんにとって赤の他人だから」

 すくっと立ち上がると、亜十夢はあの扉の前に立った。

「ほら、押してよ。ボクには押せないし、このゲームは実質お姉ちゃんの勝ちだよ」

 ほら早く、とまるで時間に追われるように亜十夢は急いた。

「それとも戻りたくないの?」

「そんなことないけど」

「だったらほら、さっさとしてよ。ゲームって言うくらいだから制限時間もあるんだし。急がないとボクら二人とも消えちゃうかも知れないでしょ? お姉ちゃんは還れるのに急がないと勿体無いよ」

 さあ、早く。彼の言葉に従うように、私はその扉の前に立って、その禁断のボタンを押した。


『扉は二十秒後、自動的に閉鎖する』

 扉がスライドする低く重い音が聞こえると同時に、どこからともなく機会音が聞こえた。間も無く、二十、十九、とカウントダウンを開始する冷たい音が静かな空間に響いた。

扉が開いて見えた世界はーー何もなかった。真っ暗な闇が広がっているだけ。凍えてしまいそうな冷たい冷気をはらんで、少しピリピリとするような痛みさえも、戸口に立っているだけで感じる。

『十五、十四ーー』

「ほら、何してるの。早くしてよ」

 躊躇してしまう私に対して、亜十夢は熱に浮かされたように必死だった。

「ボクが自分で出たら勝負にならないんだよ。ボクが負けないとお姉ちゃんは戻れない。だから早くボクを押し出して、お姉ちゃんが勝ってよ!」

『八ーー』

「でもーー」

 ドアの向こうに見えるブラックホールのような暗闇。あんなところへ締め出して、存在を消えさせるだなんて。

『六ーー』

「さっさとしてよ!」

 それはもう生きるなと締め出すのと同じこと。永久にこの子を殺すことになる。

『三ーー』

「押すのが嫌なら蹴ればいいだろ!? 早くーー」

 私はたとえ戻れたとしても、そんなことをしたらーー。

『二ーー』

「早く殺せよ!」

「私にはできない!」


『タイムオーバー』

 それだけ残して、機会音はもう聞こえなくなった。ギシギシとひしめくような音を立てて、扉は再び閉まった。

 いつの間に力が入っていたのか、疲れ果てて地面に、床に座り込んだ。死んでいるのだから動かないはずなのに、心臓はまだドクドクと鋼のように脈を打つ。切迫詰まったあの緊張感に耐えかねたのか、身体中が震えていた。

「どうして……どうして、ボクを出さなかったの」

 閉まったばかりの扉にもたれた亜十夢が呟くように聞いた。さっきまで興奮状態だった彼は、その正反対の沈んだ様子だった。

「どうしてさ!」

 声を荒げた彼の表情は、扉を開ける前とは打って変わり、怒りで溢れている。その瞳には涙が潜んでいた。

「赤の他人だよ! 要らないヤツだよ! ボクなんか見捨てて、自分だけ生きれば良かったのに! そしたら生き還れたのにさ! 消滅させればよかったのに!」

 亜十夢の瞳から涙が溢れ出た。そんな彼がやはりどこか恐ろしく思える。その姿は中学生ではなくて、最初に見たあの小学生の姿だった。

「たとえ生き還れたとしても、私はきっと後悔する。あの場所に亜十夢を置き去りにしたことを。私には、あなたを永久に殺すなんて、そんなことできない」

 やっと、そう言った。

「残念だね。チャンスはあげたのに」

 亜十夢の顔に暗い影が差した。疲れ切った私の視界は既に霞みがかっていた。

「あなたはもう、生き還れない。消えるしかない。それもこれもすべて、そのくだらない正義感のせいで」

 亜十夢声が次第に遠のいていく。視界は暗闇に包まれて、感覚も失っていく。

 薄らいでいく意識の中、口元が微かに綻んだのを感じた。不思議なことで、久しぶりに心の底から安堵していた。

あぁ、ようやく私もこれで、私に戻れるのかもしれない。

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