第4話 異世界へ
それは、ルシファーが幼い頃から心の奥底でひそかに夢見ていたものだった。
見た目は優雅でダンスのようであり、腕に全体重を預けるその姿は、単なる抱擁とは違い、抱える側には相応の腕力が求められるため、力強さと繊細さが共存する魅惑的な儀式ともいえる。
王子様と姫様の王道。
「こっ……これがお姫様抱っこ! 」
ルシファーを抱えていた青年は、そのまま自分が乗ってきた船の甲板から飛び移ったようで、ルシファーは仰向けの状態でその青年の胸に抱えられている。
見上げると、厚くしっかりした胸、自分を見つめる琥珀の瞳に少しウェーブのかかった金髪、まさに王子様の様相の青年だ。
「なななー」
言葉が詰まり、心の奥底に封じ込めていた夢見る乙女感情が目覚め、魂がくすぐられるような感覚が全身を駆け巡る。胸の鼓動が高鳴り、息が詰まるような快感に身を震わせ、精神崩壊を起こす寸前だった。
そんなルシファーに、青年は優しく問いかける
「大丈夫ですか」
「あっ……はっ……はい」
ルシファーらしからぬ、初々しい少女のように、恥じらう声を漏らした。自分でも驚くほど声が震えている。
(私は……どうしたのだ……声がまともに出せない)
青年は揺らぐ船に軽やかに着地し、そっとルシファーを降ろすと
「申し訳ありません。秘宝を用いて人界と神海の時空をこじ開けて来たのですが、急にこのような状況になてしまいまして」
見ると青年の乗って来た船はかなり損傷している。戦闘ではなく嵐の中を進んで来たようで、帆は裂け、マストも折れ、全体がひどく損傷していた。
ルシファーは揺れる船上で
「お前は何者? どうして、ここへ」
青年は膝をつき、胸に手を当て、切実な表情で答えた。
「女神ルシファー様に助力を仰ぎに来たのです。先程の亡霊があなた様をルシファーと呼んだのが聞こえたのです」
「助力を? 」
「私の国は、邪教徒に内政を翻弄され、さらに西の蛮族アルカディアスの王、オーデルによる侵略の危機に瀕しているのです」
「オーデルだと! 」
思わぬ名前に、ルシファーは驚いた。
そのとき、揺れる船はさらに突然の大波を受けてほぼ横倒しになった。予期せぬ事態に対応できず、二人は投げ出されてしまった。
「ルシファー様! 」
声をあげて青年が手を伸ばすが、あっという間に二人は引き離される。離れる間際、ルシファーは叫ぶ
「貴殿の名は! 」
「エクセル! 」
かろうじて名前だけ名乗った青年は、船もろとも渦の中心にある白い大きな輪の中へと消え去った。
一方、海に投げ出されたルシファーは幽霊船の破片にしがみついたが、お姫様抱っこの余韻冷めやらぬまま、なぜか一緒にゲートの中に引きこまれていった。
「ルシファーさまーーー! 」
風雨の中、追いかけてきたスカーレット・ジャスティスのビーナスが叫んだ。
「なんてこと、ルシファー様が……」
前を見ると、大きな渦の中心に巨大なドーナッツ状の白い輪が浮かび上がっている。
ビーナスは睨みながら
「これは異世界へのゲート! このままだとこの船も引き込まれる」
ビーナスが躊躇したのは一瞬だった。すぐに、自分もスカーレット・ジャスティスで、ルシファーを追ってゲートに入って行った。
◇
ルシファーは一瞬気を失ったようだが、気がつくと穏やかな快晴の大海原に、船の破片に乗って漂っていた。
「ここはあの青年のいる異世界だろう」
広大な洋上を漂いながら、どうするか思案していると
「……ビーナスの気配がする。どうやら、追ってきたようだな」
ほっとして、水平線を見ると一艘の帆船の船影をみつけた。
しかしそれは、スカーレット・ジャスティスではなかった。
「軍船だな」ルシファーは少し考えたあと
「ビーナスも近づいているようだし、ここはあの船に拾ってもらい、エクセルとやらの手がかりを探すか」
こうして、ルシファーは近づいた軍船に救助され、自身は記憶喪失のフリをして船に乗せてもらった。
◇
軍船に乗せられて航海している途中、夜の甲板に一人出てきたルシファー。
船の乗員には眠りの魔法をかけている。
「ビーナス! 」
闇の海原に叫ぶと、一艘の帆船が、闇の中に姿を現した。
「ルシファー様! 」
船首にビーナスが立っている。
「どうしたのです、人間の船などに乗って」
「あのあと、海を漂っていたら拾われたのだ」
「それでは、このまま私の船に乗って帰りましょう」
すると、ルシファーは
「いやー。実はあの嵐で私を救ってくれた青年を探そうと思うのだ」
意外な発言にビーナスは驚き
「はぁーー! 人間界にいくのですか! 」
急に口調が豹変したビーナスに、少したじろいたルシファーは
「か……かりにも、私を救ってくれた恩人だ」
「救ってくれたって。あの程度の嵐、ルシファー様なら、なんとでもできたでしょう。それに、この嵐や渦の中であのボロ船では生きていないですよ。もしかして、お姫様抱っこですかぁー」
語尾を伸ばすビーナスに、図星を突かれたルシファーは焦った表情で
「違う! 神たるもの、なんだぁー……救いを求めた者には手をさしのべないとな」
歯切れ悪く言うルシファーにビーナスはジト目で詰め寄る
「知ってますよー。ルシファー様が密かにお姫様抱っこに憧れているのを。この歳になっても絵本でいつもその場面ばかり見ているでしょ」
「どこでそれを…………」
ルシファーは言い返せず、ガラにもなく小さくなっている。
ビーナスはため息をついて
「……はいはい、行きましょう。私も、ルシファー様がいないと実態を保っていられませんから」仕方なく同意するが、そのあと真顔になり
「それに、気になることがあるのでしょ」
それにはルシファーも表情を曇らせ
「ビーナスも気づいたか。この世界に、なにか異変がある。あの青年はオーデルが攻めてくると言っていたが」
「オーデルは以前、オリンポスを侵略しようとしたことがありましたよね」
「あの時はボコボコに返り討ちにして追い返したが、この人間界にいたとは……ただ、この違和感はそれだけではない、もっと邪悪で混沌とした
ビーナスも一瞬、考えたあと
「そうですね、あの青年といい………わかりました。もう、知りませんよ。とりあえず、私は船影を消してついていきます」
「うむ、そうしてくれ。とりあえずエクセルとか言う青年を探すため、素性を隠してこの軍船に乗っておく。あいつも軍船に乗っていたから、手がかりが掴めるやもしれぬ。この異変の正体がわかるまで、目立たないようにしておこう」
「私そうですね。ところで、どこに向かっているのですか」
「この船の母港のパリスと言う街に行くらしい。それと、この軍船の艦長でハルゼーとかいう侯爵に、メイドとして雇ってもらうことにした」
「メイド! ルシファー様ができるのですか! 」
「で……できるわい! 私は万能の神だぞ! 」
「万能ねぇ~ 私がいないと部屋の片付けもできないのに。でもまあ、よい経験にもなるでしょう。この際、しっかり他人への心遣いや、作法を勉強してきてください」
説教されるように言われたルシファーは、少しふてくされ
「しかし。ビーナスは他に人がいないと、口が悪いな」
あざとい猫かぶりのビーナスに、ルシファーが愚痴っぽく言うと
「ルシファー様を思ってのことですよ! 」
口をとんがらせるビーナスに、ルシファーが「はい、はい」とうなずくと、この後のことを示し合わせ、ビーナスは船影とともに姿を消し、ルシファーは眠りの術を解いてあてがわれた船室に戻る。
数日後……
ルシファーを乗せた軍船は、無事に母港のパリスに着港した。
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