第3話



 ペトロニウス。

 ようやく最近ロムルスの議会に名を連ねることのできた人物の名前だ。

 彼はもちろんロムルスをよくすることを考えてはいるものの、何よりも見栄っ張りでお調子者である。


 朝、彼は自室で丁寧に髪に香油を塗りつつ、鏡の前で自分の太った姿を見る。


「ふむ、ようやく私も恰幅かっぷくが良くなってきたな。よしよし」


 満足げな表情をペトロニウスは浮かべる。やはりこれくらい肥えていないと、裕福であることは印象付けられないと思っている。


「さて、今日の予定は……」


 そんな彼のところに、突然召使が駆け込んできた。


「ご、ご主人様、大変です!」

「ん、どうしたのだ。朝から騒々しい」

「スポルトゥラの用意を! いえ、それよりも……」


 なんだそんなことか、と息をつく。

 スポルトゥラとは、貴族の元を訪れた平民が無料でもらうことのできる、朝食を入れた籠のことだ。

 貴族は平民にこれを与えることで、彼らを世話していることを示し、平民は世話になっている貴族を選挙で選ぶ。持ちつ持たれつの関係である。


「何かと思えば朝の挨拶か。随分と早いのだな。まあいい」


 いきなり平民が来たことで少しペトロニウスは驚いたものの、すぐに気を取り直す。ここは余裕たっぷりの態度を示し、自分の裕福さや優雅さを見せることができる。

 さりげなく今流行っている劇場の主役のような態度で、彼は部屋に入ってきた者を迎え入れた。


「やあ、おはよう。朝食を所望しょもうかね? いいとも、こちらに…………」


 そして――ペトロニウスは雷神の怒りを浴びたかのように絶句し、固まった。


「うむ。ありがたいぞ、ペトロニウスよ」


 そこにいたのは見間違えようもない。平民の格好をして変装しているが、どう見てもそれは皇女アエリアだったのだ。


「で……ででで殿下ぁ!?」


 そして、その隣には申し訳なさそうなセウェルスも控えている。


「おはようございます、ペトロニウス様。その、よければ……」


 ペトロニウスはアエリアの挨拶も、セウェルスの挨拶も聞こえていなかった。


「ひいっ!? も、申し訳ありませんでしたアエリア様! こ、このような粗末なものではなく、今すぐ正餐せいさんをご用意しますのでしばしお待ちを!」


文字通り飛び上がってから平伏する。

 まさか自分の家に、皇女自らが足を運ぶとは思わなかった。無礼にも彼女を頭を下げずに迎え入れてしまった。


「やだ」

「は?」


 しかし、アエリアはペトロニウスの申し出を一蹴いっしゅうする。


「余は今、ただのロムルス市民としてここに来ているのだ。豪勢な美食など必要ない」

「し、しかし……」

「くどいぞ、ペトロニウス。余の楽しみに水を差すつもりか?」


 じろりとアエリアににらまれ、ペトロニウスは大慌てで前言を撤回てっかいした。


「め、めっそうもございません。どうぞ、お受け取り下さい!」


 召使に命じてスポルトゥラになるべく質の良いパンや果物を詰め込ませながら、ペトロニウスは考えた。


(もしかしたら、このお方はこうしてロムルスの権力者一人一人を自分の目で見て評価しておられるのだろうか)


 だとしたら、末恐ろしい方だ。

 そして同時に、自分もまたアエリアに注目されるに値する人物として見られているということだ。

 それが誇らしくもあり、同時にこれはまじめにロムルスの政治に取り組まなければ、とペトロニウスは改めて決意を新たにした。

 もっとも、アエリアはただ単に本当に市民に混ざって朝食をもらいに来ただけであり、彼はすっかりかん違いしているのだった。



「あの、アエリア様」


 各地の様々な食材が並ぶ市場のはずれで、セウェルスは隣に座るアエリアに申し出る。


「朝食も食べましたし、市場を見学したところで、今日はこれで宮殿に戻られてはいかがでしょうか?」


 今日もまた、朝からアエリアは宮殿を抜け出してセウェルスと市街に繰り出している。


「それはできない」

「え?」

「今日、宮殿には余の影法師を身代わりに置いてある。まあ、一日は大丈夫であろう」

「そ、そのような秘術を……」


 どうやら、アエリアは秘術を使って分身のようなものを宮殿に置いてきたらしい。以前呼び出されたシビュラのようなものだろう。

 秘術に長けた賢者ならアエリアの分身を見抜くかもしれないが、彼女の使う秘術は皇族のみが使えるものだ。普通の人間はみなだまされることだろう。


「いかんか? これは大変便利だぞ。今日一日、そなたと自由にいられるということだ。友よ」

「畏れ多いことです、私など……」


 友、とアエリアに親しげに呼ばれ、セウェルスは困ってしまう。

 アエリアと彼は同い年で、何かと彼女は自分を頼りにして一緒に行動することが多い。

 それはお付きの者として当然だとセウェルスは思っているし、どんなことがあっても彼女を守らなくてはいけないと心に誓っている。

 でも、お付きの者ではなく「友」として扱われるのはくすぐったくもあり、嬉しくもあり、そして何よりも畏れ多いことだと思う。


「余が欲しているのは、そなたのような率直な友なのだ。教師や側近が必要なのも分かる。しかし、そなたは何者にも勝って得難えがたい。これからも余の友でいてくれるな?」


 ちょっとアエリアが頼むと、セウェルスは一も二もなく同意してしまう。

 彼はとことんアエリアには弱いし、彼女の望むことはなんでも全力で叶えようと思ってしまう。

 なんだかんだ言っても、二人は同い年の少年少女なのだ。


「は、はい! 私セウェルスは神々に誓って、アエリア様の……」


 言っていいものだろうか、とセウェルスは少しためらう。


「ん?」


 しかし、無邪気にアエリアが首をかしげると、セウェルスは勇気を出して続きを口にする。


「もったいないことですが――友で、ありたいと思います」


 セウェルスの口からも「友」という言葉を聞き、アエリアは満足そうににっこりと笑う。


「よく言ってくれた、余は嬉しいぞ」


 その笑顔は、セウェルスにとってどんな名誉や栄光よりも価値があるものに感じるのだった。


「では、ここからは余とそなたの秘密だな」

「はい?」


 まるで言質げんちを取った、と言わんばかりのアエリアの態度に、打って変わってセウェルスは不穏なものを感じるのだった。



「アエリア様、ここはあまりよろしくありません。帰りましょう」

「やだ。余は会いたい者がいるのだ」

「こんなところにですか?」

「カニスの計らいでな」

「あの方にも困ったものです」


 セウェルスはため息をつく。

 腰の短剣はいつでも何かあったら抜けるようにしてある。

 アエリアがセウェルスを連れて訪れているのは、ロムルスのあまり治安のよくない場所だった。

 あちこちの物陰や建物の陰から鋭い視線を感じる。アエリアの身は秘術で守られているが、万が一はある。

 彼女に何かあったら、自分の命を引き換えにしても守らなければ、と改めてセウェルスは決意を新たにする。


「どうやら、ここのようだな」


 アエリアが足を止めたのは、使っていない食堂らしき建物の前だった。

 足でノックをすると、扉が開いた。


「誰だ?」


 顔に傷のある人相の悪い男が出てきて、セウェルスは身構えた。


「プルトンに来客と伝えよ」


 しかし、アエリアはまったく怖がる様子もなくそう言う。


「お前の名前は?」

「『このロムルスで最も優れ、最も繊細せんさいで優美で驚嘆すべき、天才完璧美麗詩人』が来たと伝えよ」


 アエリアは胸を張って堂々とそう告げた。案の定、男は目を丸くした。


「な、なんだって!?」

「一言一句間違えずに伝えるのだぞ、よいな?」


 呆れるセウェルスをよそに、男は困った顔をしながら扉を閉めた。

 しばらくしてから再び扉が開く。

 二人が中に入るとそこはがらんとしていた。男が後ろで扉を閉める。


(もしかすると――私たちはだまされたのか!?)


 セウェルスが腰の短剣の柄を握ったその瞬間、暗がりからぬっと誰かが姿を現した。

 それは、劇場でよく使用される仮面をつけ、全身を黒衣で覆った見るからに怪しげな人物だった。


「何者だ!?」

「よせ、セウェルス。余たちは客人だぞ」


 前に出ようとするセウェルスを、アエリアは制した。


「そなたがプルトンか?」


 黒衣の人物はこちらに音もなく進み出る。仮面の奥から、男とも女ともつかない不思議な声がした。


「『このロムルスで最も優れ、最も繊細で優美で驚嘆すべき、天才完璧美麗詩人』だね」

「おお! 覚えてくれたのだな! そなたは信頼に値するぞ!」


 一瞬で長年の友に会ったかのような顔になるアエリア。

 嬉しそうに歩み寄ろうとするので、慌ててセウェルスは注意する。


「お、お待ち下さいアエリア様……あっ……!」


 慌ててセウェルスは口を閉じるが、もう遅い。ついアエリアの名前を口にしてしまった。


「それくらいは知ってるよ。僕は耳がいいからね」


 黒衣の人物は、仮面の奥でくすくすと笑っている。


「仮面を取って下さい。この方がどなたか知っているならなおさらです」


 セウェルスは当然のことを口にした。皇帝の娘を前にして、顔を見せないのは不敬だ。


「それは困る」


 黒衣の袖がひるがえって仮面を一瞬だけ隠し――次の瞬間、仮面の表情が変わっていた。困ったような顔に。


「これが僕の顔だからね」


 その早業にアエリアが拍手した。

「おお! 見事だな。さすがはロムルスの裏を知る男よ。いや、女か? まあ、どちらでもよい」


 アエリアは目の前の人物を知っているようだが、セウェルスは困惑する一方だ。


「アエリア様、この方は……?」

「プルトン。『黒衣の議会』の長だ」

「な……!?」


 黒衣の議会、という名を聞いてセウェルスは絶句した。

その正体は不明だが、一般には無法者の集団として知られている。ロムルスの法に従わず、何でもする連中らしい。

 時には密輸みつゆ窃盗せっとうなど、違法行為にも手を染めているらしい。


「そんなに怖がらなくてもいいよ。僕たちは貧者の法に従っている。ロムルスの法とは多少異なるけどね」

「でたらめです! あなたが盗人であり、悪人であることは周知の事実です」

「ではどうするんだい? ここを飛び出して兵士たちを呼びに行くかい?」


 再び黒衣がひるがえり、仮面が変わる。笑いの表情に。


「セウェルス。余は彼に頼みがあるのだ。捕らえに来たのではない」

「分かりました……」


 アエリアがそう言うので、いったんセウェルスは黙った。この状況では、自分にできることは少ない。


「で、これが欲しいのかい?」


 プルトンが黒衣のひだの中から巻いた羊皮紙を取り出して広げる。


「これは?」

「ロムルスの地下道の地図だよ」


 セウェルスの問いにプルトンがこたえる。そしてアエリアは、セウェルスに説明を始めた。

 アエリアの父コルネリウス帝は、近いうちに大々的にロムルスの上下水道の整備を行う予定だ。きっとそれは一大事業となるだろう。

 しかも、ロムルスの地下は元からある地下道に、様々な人間が勝手に作ったものが混じってかなり込み入っている。

 やみくもに掘り返していては時間と手間がかかる。そこで、ロムルスの裏に詳しいプルトンに協力を頼んだのである。


「なるほど。その年齢でロムルス全体のことを考えているのか。さすがはコルネリウス帝の娘。しかし、これを君に渡して僕になんの得があるんだい?」


 ひらひらと羊皮紙を手で振りながら、プルトンがふざけたような声を出す。


「失礼な。これはれっきとしたロムルスのためであり、アエリア様の命令なのですよ」


 皇帝の娘にまったく敬意を払わないプルトンに、セウェルスは腹立たしさを覚える。


「君はそう言うけど、僕は政治には関心がなくてね」

「では逆に聞こう。どうすればそれを手に入れられる?」


 アエリアが問うと、プルトンはそちらを向く。


「父上に頼んで国庫からお金を持ってくるかい? それとも……」

「金が欲しいのではないのだろう?」

「ご名答」


 自信たっぷりの回答に、プルトンは舞台の上の役者のように一礼した。


「まず一つ。これは簡単にあげられるものじゃない」


 黒衣から短剣が抜かれると、その羊皮紙を四つに切り裂いてしまった。どうやら地図は写しらしい。


「あげられるのは、この中の一枚だけだ。どれがいい?」


 考えた末、アエリアは一枚を選んだ。


「なるほど……」


 何を思ったのか、プルトンはじっとその一枚を見ている。

 仮面の後ろには顔があるはずだが、まったくセウェルスには見えない。まるで、仮面の後ろは空っぽであるかのようだ。


「ついておいで」


 プルトンは四枚になった地図を黒衣の中にしまい、くるりときびすを返した。さっきの男がうやうやしい動作で扉を開く。

 慌ててセウェルスたちはプルトンの後に続いた。

 外に出てプルトンはすたすたと歩いていく。

 黒衣に仮面という目立つ外見なのに、通りを行く人々は誰もプルトンに気づいている様子がない。


「秘術か何かで姿を消しておるのか?」


 それを不思議に思ったらしく、アエリアが問いかける。


「いや、違うよ。人目につかない歩き方があるんだ」


 こともなげにプルトンは答えた。


「大手を振って余の宮殿にも入れるということか」


 アエリアの言葉にセウェルスは息をのんだ。やはりこのプルトンは危険な人物だ。

 噂では、黒衣の議会は義賊でもあるという。でも、セウェルスにはロムルスの法に背いて盗みを行うことが「義」だとはとても思えない。


「ああ、あそこは難しいね。人間の目ならともかく、それ以外がある」


 プルトンはそう言って、それ以上何か言うことはなかった。



 プルトンが立ち止まったのは、市場の近くの小さな空き地だった。そこには荷車があった。

 プルトンがなにやら合図すると、周りにいた人々がそれに市場の商品を乗せていく。


「では次の条件。この荷車に乗せたものを、全部売ってきて欲しい。そうしたらさっきの地図をあげよう」

「無礼者!」


 思わずセウェルスは叫んだ。


「アエリア様に売り子をしろと言うのですか!?」


 いくらなんでも論外だ。

 皇帝の娘がお付きの自分だけを連れて市場を見て回るのは、おてんばだがまだ許せる。でも、さすがに物売りは許せるはずがない。


「いや、余はやるぞ」


 しかし、セウェルスの怒りをよそにアエリアは即答した。


「アエリア様ぁ!? そのような卑しいことは私がしますので……」

「やだ」

「は?」


 まさかアエリアにそんなことを言われるとは思わず、セウェルスは目を丸くした。


「考えてもみよ。これはまたとない好機こうきであるぞ。市井の人々の暮らしを見て回るのではなく、そこに飛び込めるのだ。実に貴重である!」


 大まじめにそう宣言するアエリアに、プルトンが笑い出した。仮面の奥からくぐもった笑い声が聞こえる。


「あははは、君は面白いね。普通断るでしょ」

「まさか。余はアエリア。皇帝コルネリウスの娘である。父上のように未知に飛び込むのは望むところ」


 たしかに、皇帝コルネリウスは若いころから諸外国を飛び回っていた。その血を引く娘のアエリアが好奇心旺盛こうきしんおうせいなのもうなずける。

 うなずけるのだが……セウェルスとしては困ってしまう。

 一方、笑い終えたプルトンは上機嫌でこう言ってきた。


「ではおまけだ。今日一日が期限、と言いたいけど二人とも子供だからね。期限はないよ。ああ、でも生物は早く売らないと傷んでしまうからね」

「うむ。任せておけ。見事売り切ってみせよう」


 アエリアがそうけ合うと、するりとプルトンは後退した。


「では、僕は見ているよ。どこかで」


 それだけ言って、プルトンはその場から去っていった。

 たちまち普通なら目立つはずの黒衣と仮面の姿は、通りを行く人々の間に紛れて消えていく。


「よし、出発だ」


 それを見届けてから、アエリアは気合いを入れて荷車に向かう。


「お待ち下さい、これを引くのは私が」


 慌ててセウェルスは彼女を止める。

いくら何でも皇女がロバやウシのように荷車を引くなど、あってはならないことだ。

 一人で荷車を引き始めると、アエリアは心配そうな顔でセウェルスを見る。


「重そうだな」

「いえ、これくらい……」

「では、二人で引こう」


 止める間もなく、アエリアはセウェルスと並んで荷車を引き始める。


「そんな……」

「急ぐぞ。さあ、今日一日で全部売って奴の驚く仮面を見てみたい!」

「は、はい……!」


 アエリアの意気込みに、セウェルスはうなずいて足腰に力を込めるのだった。



 荷車に乗せられた商品のうち、熟した果物はまず売ってしまいたかった。

 幸い、通りを荷車を引きつつ声を上げれば、すぐに売れていく。

 荷車を引く子供二人というのが目立ったのだろう。

 まして、アエリアは変装しているとはいえ輝くような美しい少女だ。彼女が皆に笑顔で愛想あいそを振りまけば、人々は集まってくる。


「ふう、売り切れましたね。よかった……」

「うむ。ロムルスの人々には新鮮な良いものを食べてもらいたいものだ。次は?」


 セウェルスは荷台に乗った箱の中身を見る。


「卵です」

「これも楽だな。欲しがる者は多い」


 果物も卵も、ロムルスの食卓に欠かせない。こちらも需要があるため、たちまち箱は空になる。


「次はこれか。……これは?」


 アエリアとセウェルスは、二人で荷台の上に会った壺をのぞき込む。


「ガルムの香りがするが……?」


 ロムルスの料理でふんだんに使われる、魚を発酵させてつくるガルムという調味料。アエリアが宮殿で食べる食事にはこれの最高級品が使われている。

 しかし、壺に入っているのはガルムの香りはするが、液体ではない。


「ガルムを作った後のしぼりかすのようですね。少し私の知っているものとは違いますが」


 セウェルスもその中身を少し手に持って口に運んでみる。


「貧しい者たちは麦のかゆに入れてこれを食べるのでしょう」

「これもれっきとした食事ということか」


 二人は続いて、貧しい人たちが住む地区に荷車を引くことにした。


「あ、少しお待ちください」


 しかし、セウェルスはいったん荷車から離れる。彼が向かったのは小さな食堂だ。

 そこでセウェルスはブドウの酢を薄めた水を買い、杯に入れてアエリアに渡した。


「喉が渇かれたことと思います。お飲み下さい、どうぞ」

「ふふふ、そなたは気が利くのだな。嬉しいぞ」


 アエリアはそれを半分飲むと、杯をセウェルスに向ける。


「残りは飲むとよい。そなたも喉が渇いたことだろう」

「いえ、私は大丈夫です。アエリア様が……」

「そう言うな。余の好意を受け取れぬのか?」


 そう言われれば、セウェルスとしてもそれ以上無理強いはできない。

 恐縮しながらセウェルスも杯の中身を飲み干す。

 大人たちは、同じ杯からワインを回し飲みして宴会を楽しむ。それと同じようなことを今、自分がアエリアとしている。

 それを自覚すると猛烈に恥ずかしくなってくるので、慌ててそれ以上セウェルスは考えないことにした。

 こんなことは本来、許されないことだから。


「アエリア様はお疲れでしょう。荷車に乗ってお休み下さい。後は私が引きますので」

「それは困る。余とそなたは友であろう? 友ならば労苦を分かち合うのが当然ではないか」


 自分を対等に扱ってくれるアエリアの気持ちはありがたいが、セウェルスは首を左右に振る。


「ですが、私とアエリア様は主従の関係でもあります。アエリア様にご苦労をかけるなど、許されないことでは……」

「そう言うがな、セウェルス」


 いきなりアエリアが顔を近づける。吐息が肌に触れるほどの距離で、セウェルスは心臓が跳ね上がった。


「――プルトンが見ておるぞ」

「え……」


 アエリアがそうささやき、横目でどこかを見る。


「あやつめ、余とそなたを品定めしておるのだ」


 アエリアの鋭い観察かんさつ力が、プルトンの姿を見つけたのか。それとも、アエリアを守るたくさんの秘術が何か反応したのだろうか。それは分からない。

 セウェルスが分かるのは、プルトンがアエリアの一挙一動をじろじろと見ているということだ。


「な、なんと無礼な……」


 声を荒げてしまうセウェルスとは対照的に、面白そうにアエリアは続ける。


「そう思うなら、なおさら余と一緒に働こうぞ。それともセウェルスは、余がプルトンに『アエリアも大したことはないな。お付きの者に仕事を任せて自分は怠けている』と思われたいわけではないだろう?」

「はい、もちろんです。アエリア様が悪く言われることなど我慢できません」


 本心からセウェルスは言う。

 まだ自分は子供だが、アエリアに忠誠を誓っている。その気持ちは本物だ。

 だから、どんなことがあってもセウェルスはアエリアの味方でありたいと思っている。

 裏表のないその言葉を聞き、嬉しそうにアエリアはセウェルスの肩に手を置く。


「では、休憩したら出発だ。さあ、まだ日は高い。がんばろう、セウェルスよ」



 貧しい人たちの住む地区に入ると、二人を待っていたのはとんでもない人ごみだった。


「これは……すごい数だな」


 これでは荷車を引くのも一苦労だ。


「よそう。これから先は荷を手で持って売りに行くぞ」


 商品が残り少なくなってきたので、二人はとうとう荷車を道の端に置き、徒歩で売りに行くことにした。


「アエリア様、お下がり下さい。私が前に出ますので」

「うむ、頼んだぞ」


 人ごみの中を、二人ははぐれないようにぴったりとくっついて進む。

 セウェルスが先を行き、アエリアが大人たちにもみくちゃにされないように細心の注意を払う。

 そのかいあって、何とか二人は前に進むことができていた。


「今日は祭か何かがあるのか?」


ガルムの搾りかすを売りつつ、アエリアは近くで質素なパンを売る男に声をかけた。


「あ? まさか。毎日こんな感じだよ」

「しかし、これはあまりにも……」


 アエリアの言葉ももっともだ。この人の数は、とうていこの地区が許容できる人数を越えている。


「ほら、あっちを見ろ」


 パン屋の男は少し離れた場所を指さす。そこにはぼろぼろの衣を着た一団がいる。服装が一般的なロムルス人とは異なる。


「半年前の災害でこっちに流れてきた異国人さ」

「不法にやってきた者ですね」


 セウェルスが口を挟むと、パン屋の男は嫌な顔をした。


「じゃあなんだ。お前、あいつらがロムルスの外で飢え死にするのを黙って見てろって言うのか。お貴族様だな」

「そんなことは言っていません。しかし、誰も彼もが法を破れば、混乱しかありません」


 セウェルスももちろん、貧民はほったらかしにしてもいいとは思っていない。

 しかし、ロムルスの法に従わずに不法に移民が押し寄せてきたら、法をまともに守る者がいなくなってしまう。

 それは避けたいと思うのは当然だろう。


「だからこそここには、ロムルスの法じゃなくて貧者の法があるんだよ」

「貧者の法……ですか」

「ああ。ロムルスも一枚岩じゃないってことだ」


 そう言ってパン屋の男は、やってきた客の相手をしはじめた。


「複雑なのだな。余はまた一つ新たなことを知った」


 アエリアは改めて考え込む様子を見せる。


「しかし、ロムルスは法によって守られています。プルトンの言う貧者の法など法ではありません」

「セウェルスよ。このロムルスが安全に開かれているのは確かに法あってのこと。しかし、異国の法も重んじなければならぬ」


 そう言うアエリアの横顔は、ただの少女ではなかった。

 そこにいたのは、皇帝の娘としてロムルスのすべてを見守らなければならない一人の皇女だった。


「例えば、今まで信じていた神をいきなり捨て、ロムルスの神々のみを崇めよと皇帝が命じれば、たちまち反乱がおこることだろう。しかし、皇帝とはロムルスの神々に認められた者である。では、ロムルスの元に集う異国人も、皇帝への敬意は即ちロムルスの神々への崇拝であると徹底すべきか?」


 アエリアがセウェルスに問いかける。

 とても難しい問題への問いだ。

 ロムルスに集う数多くの異国人にとって、自分たちの崇拝する神々を捨てることは絶対にできない。

 しかし、ロムルスの法を細かい点まで徹底てっていするということは、あるいは彼らから信じる神を奪うことにもつながりかねないのだ。


「それは……」


 とてもセウェルスは「ぜひそうするべきです。私たちロムルスこそ絶対なのです」とは言えなかった。

 口ごもるセウェルスを見て、アエリアはほのかに笑った。


「そのようなことを、父上も母上も兄上も姉上も、そして余も一生をかけて考えていくのであろう」


 確かにこの方は皇女なのだ、とセウェルスは思う。

 彼女の一生はロムルスと共にある。そして――彼女に従う自分もまた。



 ガルムの残りかすも無事売り終わり、二人は最後に残った小さな壺を開けた。


「これは油だな。さて、なるべく早く売ってしまいたいが、どうやろうか」

「アエリア様、私に一つ考えがあります」


 セウェルスは自分の案を出して、アエリアはそれを受け入れた。

 二人は一軒一軒を回って戸を叩き、油を売ることにした。

 ただ油を売るだけはない。それぞれの家のランプの中に自分たちが入れたり、ついでにランプの芯掃除なども行った。

 売り込むだけでなくもうひと手間をかけることによって、二人はなんとか油の壺が空っぽになるまで売ることができたのだった。


「はあ……何とか終わったな」

「ええ……疲れました」


 空っぽになった荷車を背もたれに、セウェルスとアエリアはその場に座って大きく息をついた。既に日は沈みつつある。

 二人ともくたくたに疲れた上に空腹だ。その二人の前に影が差した。

 セウェルスが見上げると、そこにプルトンが立っている。いつの間に現れたのだろうか。


「いやはや、驚いたね。まさか一日で全部売ってしまうとは」


 また仮面が変わる。無表情から驚きの顔へと。


「ふふん、余のセウェルスは優秀であるからな。貧しき者の守護者にして、影と共に歩む盗人――プルトンよ。余たちはそなたの試練に合格したぞ」


 心持ち胸を張るアエリアに対して、プルトンは顔を近づけた。

 黒衣で完全に体が隠れているけれども、人間の動きとは思えない。

 もしかすると――この中身は子供のように小柄なのかもしれない、とセウェルスは思う。


「そうだね。しかし一つ聞こう、君が選んだ地図は本当にこれでいいのかい? 取り替えるなら今のうちだよ」


 彼の指に四枚になった地図の内の一枚が挟まれている。アエリアはうなずいた。


「うむ、それでいい」

「そうか。では受け取ってくれ」


 プルトンが差し出したそれを、アエリアは受け取った。


「これは今日、君たちが半日いた貧しい人たちが住む地区の地下だ。これが必要なんだね」

「そうだ。今日実際にこの足で歩いたことで確信したぞ。下水道はあのような者たちのために必要であり、工事は大規模なものとなるだろう。道路を塞ぎ、日々の生活を大きく変える。貧しい者たちにとっては、なるべく早く終えてもらいたいだろう。故に、余はこの地図が欲しいのだ」


 迷いなくそう言うアエリアを、プルトンはじっと見つめていた。少なくとも、見つめているようにセウェルスには見えた。

 やがて……


「いやはや、お見それしたよ」


 プルトンの手は黒衣の中にもぐり、続いて残りの三枚を取り出すとアエリアに差し出した。


「これは、君にこそふさわしい。上手に使ってくれたまえ」

「承知した。このロムルスのために使うとしよう」


 それはきっと、プルトンというロムルスの影が持ちかけた試練に対して、アエリアが完璧な回答を見せた瞬間だったのだろう。


「また会おう。アエリア、そしてセウェルス」


 黒衣がひるがえり、プルトンは向こうを向いた。ゆっくりと歩み去っていくその背中に、ついセウェルスはこう言った。


「その時は、仮面を取って私たちの前に出てきて下さい」


 仮面がセウェルスの方を向いた。その顔は無表情だ。


「ははは。果たして、仮面の下が本当に僕の素顔だと誰が断言できるだろうね」


 それだけ言って、プルトンは人ごみの中に消えていった。

 あれほど目立つ姿なのに、一瞬でもうどこにも姿が見えない。


「面白い奴だったな」


 アエリアが楽し気にそう言うが、セウェルスは首を左右に振る。


「私としては、危険人物だと思います」


 アエリアのお付きであるセウェルスからすれば、どう控えめに見てもプルトンは危険だ。


「まあよい。感謝するぞ、セウェルス。そなたのおかげで一日でこれを売りきった」


 地図を大事そうに衣にしまうアエリアにほめられ、セウェルスは困ってしまう。


「もったいないお言葉です。私は当然のことをしたに過ぎません」

謙遜けんそんな奴め。そんなに無欲では余は困ってしまうぞ」


 アエリアがたしなめるように言う。少し考えた末、セウェルスはアエリアと共に、荷車に寄りかかったまま暮れていく空を眺める。


「では――もう少し、こうしていましょう」


 本当に、セウェルスはアエリアに仕えることができればそれだけで何もいらない。

 このおてんばで活発で、それでいて確かに皇族としての誇りを持つ美しい少女のそばにいられる。

 それは、セウェルスにとって身に余る光栄だった。

 でも、時には少しだけよくばってもいいのかもしれない。

 もう少しだけ、アエリアと共にこの時間を共有したかった。


「うん。そうだな……」


 アエリアもまた、セウェルスの求めに素直に応じた。

 寄り添って疲れをいやす二人は、まるで本当の友のようだった。



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