第1話



 アエリアはロムルスの皇女である。父は皇帝コルネリウスであり、優れた皇帝として知られている。家族の仲はとてもよく、妻との間には多くの男女を授かっていた。アエリアは末娘であり、兄や姉に大いにかわいがられている。

 アエリアはロムルスからすれば田舎としてやや下に見ている異国に関心があり、将来は世界中を飛び回る旅の詩人になりたいと思っていた。

 彼女は一見おてんばだが、ロムルス市民に対して常に敬意と慈しみを示しており、異国の人間に対しても公平な見方を取り続けている。

 ロムルス市民もまた、アエリアをかわいらしい花のように見ており、彼女には敬意を示しつつ、愛情をこめて接している。

 剣闘士けんとうしの間では、試合の前に花を掲げ「我らのアエリアよ、我が勝利を歌いたまえ」とうたう詩が流行しているらしい。


 そんなアエリアなのだが、唯一にして最大の欠点は「詩の才能が全然ない」ということだ。

 本人は詩を愛し、有名な詩人ウァレリウスに教わっているのだが、いかんせん彼女の詩は奇妙すぎて理解できないか、あまりにも平凡であるかのどちらかなのであった。

 もっとも本人は「余は今でこそ詩の神々の目に留まらないが、いずれ人々の心を震わせる時が来るのだ」とまったくめげる様子がない。



「はあ……さすがに疲れました」

「あはは、当然だな。何しろ余を連れ戻しに来たプブリウスの配下から逃げ回ったのだからな! よくぞ余を守り抜いてくれた。大儀たいぎであったぞ、セウェルス」


 既に朝ではなく、時刻は午前中だ。

 先ほどまでアエリアはセウェルスを連れてユーノーの丘で羊飼いたちを見た後、上機嫌で市場を見学していた。

 屋台に売られていたパンと、牧童からもらった山羊のチーズという朝食を食べ終わったところで、突然アエリアがセウェルスの手を引いて駆け出したのだ。


「ど、どうしたんですアエリア様!?」

「プブリウス一向だ! もう余を連れ戻しに来たのだな! まだ帰りたくはない、セウェルス! 一緒に逃げてくれ!」

「い、いや、ちょっと待ってください!」


 アエリアはセウェルスの腕をつかんだまま、人混みの中をまるで猫のようにすり抜けていく。

 セウェルスが振り返ると、確かに鎧を来た軍人の一団がこちらに気づいたらしい。一際目立つ長身の男性はプブリウス将軍だ。

 市場を横切り広場を抜け、水道の脇を駆けていく。路地の行き止まりにたどり着いた時、セウェルスは覚悟を決めた。


「アエリア様、申し訳ありません! お体に触ります!」


 目をつぶって、アエリアをセウェルスを抱きかかえた。膝の裏に手を通す。アエリアもぎゅっとセウェルスの首に手を回した。ほのかなラベンダーの香りがする。


「跳んで壁を乗り越えますから、しっかりつかまって下さいね!」

「うむ! そなたは余の守護者だ! 大船に乗ったつもりでいるぞ!」


 その言葉に苦笑しつつ、セウェルスは思い切って跳んだ。アエリアに怪我をさせないように細心の注意を払う。

 そして見事に彼は、アエリアを抱えたまま壁を乗り越えたのだ。


 こうして、二人はどうにかプブリウスとその配下の追跡を振り切った。

 今頃プブリウスは「……まったく。殿下はどうしてこんなにおてんばになられてしまったのだ。下々に優しいのは美徳なのだが、これでは……」とため息をついている頃だろう。


「アエリア様、ここまで来ればもう大丈夫ですよ」


 二人がたどり着いたのは、主神の神殿のすぐ近くだった。セウェルスはほっとして胸を撫で下ろしつつ、石段に腰かける。

 ロムルス市街を縦横無尽じゅうおうむじんに駆け抜けた二人だが、なんとか振り切ったのだ。

 ようやく息を整えたアエリアはにっこり笑って、セウェルスに礼を言った。


「うむ、礼を言うぞ! そなたのおかげで追っ手から逃げることができた!」


  アエリアは屈託くったくのない笑顔で礼を言い、セウェルスの隣に腰を下ろした。


「でもアエリア様。あんまりこのようなおふざけはよくありませんからね。今日は私もご協力しましたが、次はきちんと宮殿にお戻りいただきますよ」

「むむ……固いことを言うな、セウェルス。そなただけは余の忠臣だ。その高潔な魂にいつも敬意を抱いているぞ」


 セウェルスはアエリアの隣に座りながら彼女の笑顔を眺める。

 アエリアは年齢相応の少女らしい恰好をしているが、時折はっとするような美しさを垣間見せることがある。

 特に、こんなふうに自然にほほ笑んだ時、セウェルスはアエリアについ見とれてしまうことさえある。

 いくら貴族の息子とは言え、皇帝の娘をじろじろ見るのは不敬だと自分でも気がつき、セウェルスは慌てて目をそらす。


 思えば、セウェルスはアエリアと同い年で、彼女の護衛としてその側にいることが多かった。

 アエリアの父である皇帝コルネリウスは、むしろ面白がってアエリアのそばにセウェルスを付けている気がする。身分の差というのをあまりコルネリウスは考えていない。

 皇帝自身も、かつて諸外国に遊学している身である。そういう破天荒なところがロムルス市民から慕われる理由の一つでもあるのだ。


「……どうした?余の顔に何かついているか?」

「あ……いえ、その」


 アエリアは無邪気な顔でセウェルスを見る。

 兵士の目を盗んで勝手に遊びに出てしまうやんちゃな皇帝の娘ではあるものの、こうして一緒にいるとアエリアはやはり美しく魅力的な少女であることを思い知らされる。


「今日のセウェルスは頼もしかったぞ。そなたはやはり少年ではあるが、男子であるとつくづく余は思った。そなたの腕で抱き上げられると、不思議と胸がどきどきするのだ」

「あ、ありがとうございます。でもアエリア様……あんまりこのような無茶はなさらないでくださいね」


 セウェルスは思わず頬を赤らめながらそう言った。するとアエリアは快活に笑いながら立ち上がる。


「セウェルスよ、そなたの余に対する忠心、変わってはいないか?」


 突然のアエリアの問いに、セウェルスは身の引き締まる思いがした。アエリアに続いて彼も立ち上がる。


「は、はい! もちろんです。私はアエリア様の護衛として、身も心もただあなた様だけに捧げております。それは決して変わりません!」


 セウェルスの言葉に、アエリアは嬉しそうにくるりと回る。

 決して、ただの少年が大人の真似をしていると思って侮ってはいない。それがセウェルスには嬉しかった。


「うむ、そなたの存在が余にはとても心強いのだ。そんなそなただからこそ、特別に相談したいことがある。聞いてくれるか?」

「心して聞かせていただきます」

「感謝する。実はな……」


 そして、アエリアは改めてセウェルスに話し始める。



 彼女の気がかりは、もうじき開かれる月桂樹祭げっけいじゅさいのことだ。

 この祭りは、ロムルスで数多く開催される芸術祭の一つだ。詩の祭典も開かれ、名だたる詩人がこの日のために作品を用意する。

 そしてアエリアもこの祭典に次作を発表するつもりだったのだが、ここで問題が発生したのだった。


「アエリア様を一位にするよう、圧力……ですか」


 セウェルスの言葉に、不満そうにアエリアはサンダルをはいた足で道路の石ころをけ飛ばす。

 無作法はおよし下さい、とセウェルスが注意する前に、アエリアは言葉を続ける。


「そうだ。貴族たちの出しゃばりにも困ったものだ。余が月桂樹祭に詩を捧げると聞いた途端、余計なおせっかいを焼きおって」

「あの方々は、一位になればアエリア様がお喜びになると思っておいででしょうね」

「それはもちろん、余は優勝を目指しておるぞ。だが、えこひいきで用意された玉座など何の価値もない。ふん、そんなものはこちらから願い下げだ。まったく、芸術の女神の祝福の何たるかも分からぬ俗物め」


 アエリアの怒りの理由は簡単だ。要するにえこひいきである。

 貴族たちは月桂樹祭の開催者に、アエリアの詩を問答無用で一位にするよう働きかけているらしい。

 この状況は、アエリアにとっては実に面白くないようだ。


匿名とくめいで出すというのはどうでしょうか。無名の詩人というのも神秘的ではないかと思います」


 セウェルスの意見はありきたりだが、アエリアは馬鹿にはしない。


「そなたは賢いのだな」


 むしろさりげなくほめてくれる。その心遣いがセウェルスにはくすぐったい。


「だが、それは余も考えた。余はアエリアとしてたたえられたいのではない。ただこのあふれる詩情を形にして人々を感動させたいのだ。しかしだな……」


 心持ち――いや、ここでアエリアは得意満面な表情で胸を張る。


「余の詩には隠しようのない特別な薫香くんこうがただよっているのだ。たとえ偽名を使い、あるいは無名の詩人として発表したとて、余の詩とすぐに分かってしまうに違いない」

「まあ、やっぱりそうですよね」


 得意げなアエリアとは正反対に冷めていくセウェルス。

 自分で「匿名で詩を提出してみてはいかがでしょうか」とは言ったものの、それは不可能なことくらいセウェルス自身知っている。なぜなら……


「セウェルス。これを見よ。先ほど、朝ぼらけのロムルスの美しさをつづったのだ。拝覧はいらんを許す」


 アエリアが衣から取り出した四つ折りの羊皮紙を、セウェルスはまるで宝物のように敬意を込めて受け取る。


「つつしんで拝見させていただきます」


 そしてセウェルスはその詩に目を通した。最初の一文から、最後の一文字まで。


「どうだ? どうであった?」


 羊皮紙から目を上げたセウェルスに、期待に満ち満ちた顔のアエリアが飛びつく。


「ああ、余は己の才が怖くなる。このままではもしや、余は芸術の女神に類まれな詩才の持ち主と認められ、いつか天に取り上げられてしまうのではないかと……」

「それはないからご安心ください」


 どんどんと盛り上がっていくアエリアとは正反対に、どんどんと盛り下がっていくセウェルス。


「いえ、むしろ別の意味でアエリア様は神々の目に留まるかもしれません」

「むむ、それはどういう意味だ?」


 一度深々とため息をついてから、セウェルスは非常に珍しいことにアエリアに向かって叫んだ。


「なんなんですかこの奇妙奇天烈きみょうきてれつな詩は!? 私は詩に詳しくありませんし、自分で書いたこともありませんが、この詩が荒唐無稽こうとうむけい支離滅裂しりめつれつなのは分かりますよ!」


 詩を記した羊皮紙を突きつけるセウェルスに、ぷんぷんに怒った顔のアエリアが食ってかかる。


「な、なんだとセウェルス!? 余の詩のどこが奇妙奇天烈で荒唐無稽で支離滅裂なのだ!?」

「ほぼ最初から最後までです! 出だしが――


  美しきロムルスよ

  お前には幾千の顔がある

  その朝の顔を私は見た


  ――はいいですけど」


 素直にほめられるところはほめるセウェルスに、一瞬でアエリアは機嫌を直す。


「ふふん、そうであろう。我ながら気に入っておる」


 だが、セウェルスのダメ出しはここから始まる。


「その後どうしていきなり――


  その顔に助走をつけてパンチ

  大地の底から怪獣がよみがえり

  都市が合体して巨人の兵士となる

  始まる天地が鳴動する大決戦

  人生快晴 なんでも来い

  今日も寝るまで進め好奇心


 ――という意味不明の内容になるんですか!? どんな詩の教師もこんなゲテモノを認めるはずがありません!」


 セウェルスの説教ももっともだ。詩には形式があり、いんがある。アエリアの詩(?)はその全部を踏み越えている自由すぎる詩なのだ。おそらく彼女以外誰も理解できない。


「あはは……うむ、それはなんというか、筆が乗ってだな、つい」


 にこにこしながら照れくさそうにそう言うアエリアに、セウェルスはさじを投げた。


「申し訳ありませんアエリア様、子供の私には少しこの詩は理解に苦しむ内容です」

「うう……セウェルスも余の詩を分かってくれぬのか? そなたは余を守ると誓ったではないか」


 打って変わって泣き落としにかかるアエリアだが、セウェルスは心を鬼にしてきっぱりと言う。


「それとこれとは話は別です。私はアエリア様が望まれるように、えこひいきをしていないだけですので」

「ふん、言うようになったではないか、セウェルス」


 しばらく悔しそうにアエリアは詩を書いた羊皮紙を手でいじっていたが、やがて気を取り直したらしい。ぱっと上げた彼女の顔は、いつものように天真爛漫てんしんらんまんだった。


「まあよい! そなたの正直な感想は貴重だぞ。余はいつかそなたの口からハチミツのように甘い賛辞を勝ち取ってみせる!」

「ご立派です、アエリア様」


 すかさずそこで彼女をほめてしまうのが、セウェルスというまじめな少年である。


「ですが、当面の問題は月桂樹祭でのえこひいきをどうにかすることですね」

「そうだな。そなたもぜひ知恵を貸してもらいたい。頼むぞ」


 こうして二人の少年少女は、大人たちの余計なおせっかいをどうしようかと頭を悩ますのだった。



 次の日のことだった。皇帝コルネリウスをはじめとする皇族の住む宮殿にセウェルスはいた。

 柱廊ちゅうろうを歩く彼の耳に、二人の中年の貴族たちの会話が届いた。


「なあ、聞いたか? アエリア様のことだ」

「ああ、知ってるとも。月桂樹祭で自作の詩を発表なさるそうだな」


 セウェルスはさっと柱の陰に隠れて耳を澄ませた。少年のセウェルスが身を潜めれば、気づく大人はほとんどいない。


「なんと言うか……アエリア様はとても……その……」

「あのお方の詩は……ううむ」


 セウェルスは息を殺して二人の顔をじっと見つめる。

 確かに、アエリアの詩は奇想天外すぎる。

 でも、だからと言って二人がアエリアの詩を笑いものにしたら、セウェルスは到底二人を許すことはできない。

 しかし、幸い二人の貴族はアエリアの詩をあざけることはなかった。


「こ、個性的であらせられる。そうだな?」

「ああ、なんとも不思議な詩だと思うだろう?」


 世渡りの上手な二人である。あたりさわりのない表現はお手のものだろう。

 二人の微妙な評価にセウェルスは同情しつつ共感するしかなかった。


「しかし、ここで私もアエリア様にお近づきになりたいものだ」

「少なくとも、アエリア様こそ一位にふさわしい。内容はどうあれ、な」

「なあに、神託でもなければどうとでもなる。要は金だ」


 二人のその後の会話に、セウェルスは顔をしかめた。

 しかし、自分が何か言ってもあの二人が聞く耳を持たないことは分かっている。子供の戯言ざれごとで終わってしまうに違いない。

 どうすれば、アエリアに強引に一位が与えられることをやめさせられるだろうか。



 貴族たちが含み笑いをしながら立ち去った後、セウェルスが考え込みながら歩いていた時だった。


「おい、小僧。相変わらず年寄りのように渋い顔をしているな。辛気臭いぞ」


 乱暴な口調で声がかけられ、セウェルスはそちらを見た。薄汚れた老人が中庭に寝そべっていた。クズ拾いをして日銭を稼いでは、たまにここにやってくる哲学者だ。


「カニス様……」

「『様』はいらんと言ってるだろう。こんなろくでなしに敬意など払うな」


 カニスという老人はうるさそうにそう言ってあくびをした。まるで人間の姿をした野良犬のような老人だ。しかし、カニスはただのクズ拾いではない。


「ですが、カニス様は陛下の相談役であられますし、アエリア様も心を許しておいでです。敬意を払うのは当然ですので」


 彼が皇帝コルネリウスとほぼ対等に話すのをセウェルスは見たことがある。

 なんという無礼者だ、と思う反面、皇帝がまったく怒ることなく、むしろ楽しそうに話していたのは衝撃だった。

 以来、カニスは勝手に宮殿にやってきては、野良犬のようにその辺をぶらついている。


「どうでもいい。皇帝がなんだ? 飯を食って糞をするという点では俺たちと何も変わらん。馬鹿馬鹿しい」


 あんまりな物言いに、さすがにセウェルスもむっとする。


「アエリア様のことも、カニス様は侮っておられるのですか?」

「いや、あの小娘はなかなか面白い。特に奴の詩はいいぞ」


 アエリアを小娘呼ばわりする不敬に怒る前に、セウェルスはカニスの言葉にびっくりした。


「アエリア様の詩がお分かりになるのですか!?」

「いや。奴の詩を読むと酔ったように頭がくらくらする。おかげで酒代が浮いて倹約できるからな。はははははっ!」


 歯の抜けた口でげらげらと笑うカニスに、セウェルスはため息をつく。


「まったく、カニス様はひどい方です……」

「俺のことなどどうでもいいだろうが。何やら貴族どもが企んでいるようだな」


 カニスが一見するとただのへんくつな老人だが、頭はよく回る。

 おまけに、こうしてその辺りにいても、みすぼらしい外見のせいで大人たちは気にもかけない。

 だからこそ、実は彼は宮殿のひそひそ話に詳しいのだ。


「そうなんです。私もアエリア様に相談されたのですが、どうしていいのか分かりません」

「ふん、話してみろ、小僧。お前はともかく、あの小娘には借りがあるからな」


 カニスに促され、セウェルスは口を開いた。


「月桂樹祭のことなのですが……」



 セウェルスの話に、カニスはしばらく考えてから一言こう言った。


「お前はバカだな」

率直そっちょくですね」


 あんまりな言い方に、セウェルスは逆に腹が立たなかった。


「そういうところがバカなんだ。いいか、お前の年を考えろ。あの小娘もお前と同じ年だろう? 面倒だからはっきり言ってやる。大人を頼れ」


 確かに、セウェルスが何を言っても貴族は聞く耳をもたないだろう。

 一方、アエリアの言葉には力がある。彼女が一言「余へのえこひいきを止めよ」と言えば貴族たちはいちおう従うだろう。

 でも、本当にえこひいきを止めるかどうかは分からないし、アエリアとしても事を荒立てるのは好かないだろう。


「しかし、大人と言っても私たちの悩みをまじめに聞いてくださる方は、なかなかいないのでは……」


 セウェルスが頭を悩ませる隣で、カニスは面倒くさそうに立ち上がった。


「さっきの貴族の話は俺も聞いていたぞ。奴ら、神託には従うそうだ。どうだ、お前たちには知り合いがいただろう?」

「詳しいですね」

「以前、小娘が俺に話して聞かせたからな。物語の英雄のような大冒険ができた、と目を輝かせておった」


 ぼりぼりと尻をかきながら、カニスはそれだけ言って去っていった。後に残されたセウェルスは、一人の大人がいたことを思い出す。

 神殿で神々に仕える一人の巫女だ。

 あの酒飲みならば、確かに今回の悩みを話すにはうってつけかもしれない。



 次の日の夜。

 宮殿の各所にいる見張りの目をかすめて、セウェルスは中庭に出る。

 息をひそめてアエリアの待つ一室の下にまでたどり着くと、いつも合図に使っている木の実を投げた。

 しばらくして、上から縄が静かに下りてきた。

 二、三度引っぱって強度を確かめてから、セウェルスは縄を伝って壁を上り、彼女の待つ部屋へと入っていく。

 バルコニーの手すりを目立たないよう注意しながら乗り越えた時、いきなりぐいっと引っ張られた。


「わあっ!?」


 思わず声が出てしまう。転がりかけたセウェルスを、待っていたアエリアが両手を広げて抱き留めた。

 そのまま重なり合ってごろごろと絨毯の上を転がる。


「ア、アエリア様、いたずらはおやめください」


 セウェルスは大声を出したくなるのをこらえてそう言う。皇女に触るどころか抱きしめられるなど、自分の身分では不敬すぎる。


「ふふっ、そなたは軽いのだな。もっと食べたほうが良いぞ」


 一方で、くすくす笑るアエリアは無邪気そのものだ。

 明かりに照らされた顔は昼間とは違った美しさで、慌ててセウェルスは彼女の下から抜け出した。本当に心臓に悪い。

 ここは二人がこっそり会うための部屋だ。

 アエリアが何度も周囲を確認し、宮殿の図面を見て、一番警備が手薄な場所を見つけたのだ。


「どうかされましたか?」

「いや、こういう密会はとても胸が躍ると思ってな」

「私としては寿命が縮む思いです。もし見つかったらと思うと……」


 まじめなセウェルスは、このように毎回アエリアとこっそり会うたびに心臓が痛くなる。本来はこのようなことは許されないはずなのだ。


「その時は、余が責任を取る故安心せよ。そなたには何の罰も与えぬと神々に誓うぞ」


 しかし、当のアエリアは胸を張ってそう言う。


「そのようなことはおそれ多いです」


 アエリアにそう言われて、嬉しいような誇らしいような、でも困るような複雑なセウェルスだった。


「それよりも、持ってきてくれたのだな」

「はい。倉庫から持ってきました。新しいワインです」


 セウェルスは肩から下げていた革袋を見せる。


「うむ。頼もしいぞ、セウェルス。余も持ってきておる」


 アエリアがそばのテーブルから持ってきたのは、複雑な紋様が描かれた杯だ。普通の食器には見えない。


「確かに、何かあったら助けになる、とあの巫女は言っていましたが……」

「物は試しよ。やってみようぞ」


 アエリアに目で促され、セウェルスは杯にワインと、そばにあった水差しから水を注ぐ。


 アエリアがそれを絨毯じゅうたんの上に置くと、目を閉じた。

 周囲の雰囲気が変わっていく。二人はその前に座り、お互いの手を取る。


「――ウェンティよ。四方より来たれ。四方の神々よ。オリエーンスよ、オッキデーンスよ、メリーディエースよ、セプテントリオーよ。アニムスを届けよ。この声を届けよ」


 静かにアエリアが唱える。これは秘術だ。

 アエリアはたくさんの秘術によって守られている。神々の祝福を神殿の神官たちが授け、死してなお皇帝の一族に仕える勇士たちもいる。

 アエリアの言葉と共に、部屋の明かりがひとりでに消え、月明かりだけが周囲を照らす。

 霧のようなもやののようなものが、部屋に立ち込める。そして、その杯を手に取る者がいた。


「あら、呼んでくれて嬉しいわ。二人とも元気そうね」


 そこにいたのは、一人の女性だった。さっきまで寝ていたのか、あくびをしている。


「シビュラよ、久しいな」


 アエリアは当然のように彼女の名前を呼んだ。

 本来はここにいない彼女は、言わば分身になって二人の前に姿を現していた。



 シビュラはロムルスで一番有名な神殿で働く巫女である。

 本名は別にあるのだが「仕事中は名乗らないのよ。私たちはみなシビュラなの」ということだ。

 本物の巫女で、神々と意志を通わせることができる。

 二人は一度、彼女に頼まれて神殿の問題を解決したことがある。

 ロムルスの皇族にしか開けない封印を解き、神殿の奥底にわだかまる遺物をしかるべき方法で清めるというものだったが、それは冥界の一歩手前にまで踏み込むというものでもあった。

 セウェルスが心配で死にそうなのに対し、アエリアは別世界の冒険ということで大喜びだったのだ。


「ふ~ん、面倒なことになったわね」


 セウェルスの隣で、アエリアはシビュラに今自分たちの問題を説明し終えた。シビュラはきちんとまじめに聞いてから、そう言って考える様子を見せる。


「そうなのだ。余はありのままの自分で詩を披露ひろうし評価してほしいだけなのだ。それなのに、困ったものよ」

「ふふ、私のところも似たようなものよ。本当に神々の声を聴きたいのではなくて、自分の願いの後押しが欲しいだけって人も多くいるわ。そういうものよ」


 アエリアは皇女とはいえまだ少女であり、セウェルスもまた同様に少年だ。子供たち二人と違い、シビュラは余裕のある笑みを見せる。

 巫女とは神殿で神々に仕えるのと同時に、多くの人たちの悩みを相談される立場らしい、とセウェルスは思う。


「シビュラ様、私ではアエリア様へのえこひいきをどうにかできません。神々の声を借りて、彼らを制していただけないでしょうか」


 改めてセウェルスはシビュラにそう言って頭を下げた。

 神殿での一件を解決した後、シビュラは二人に「何か助けてほしいことがあったら呼んでね。力になるから」と言ってくれたのだ。

 実際、月桂樹祭で行われようとしているアエリアへのえこひいきは、二人がどうこうできるものではない。

 しかし、シビュラという巫女が「月桂樹祭は芸術の女神も照覧しょうらんなさる詩の祭。えこひいきはしてはならない」とかなんとか言ってくれれば、少しは牽制けんせいになるかもしれない。

 アエリアとセウェルスがシビュラを呼んだのは、そのためだ。


「う〜ん、ちょっと待ってね。あ、これいただくわ」


 あっさりとシビュラは、セウェルスの頼みを承諾しょうだくしてくれた。

 杯を手に取って中身を一息で飲み干すと同時に、彼女の姿が消えた。

 しばらくして、再び姿を現したシビュラは笑顔で二人に言う。


「いいって。よかったわね」

「は?」


 あまりにも気楽な物言いに、思わずセウェルスの口から間抜けな声がもれる。


「だから、神様よ。別にいいよって許可が降りたから、手伝ってあげるわ」


 安請け合いどころの話ではない。

 天界で人知を超えた存在として世界を支配している神々が「別にいいよ」などと言うはずがない。

 しかし、そう思ったのはセウェルスだけだった。


「さすがはシビュラ。隣人の家に赴くように神々の住まいに行くとは」


 彼の隣でアエリアは感心している。


「ちょ、ちょっと待って下さい。神がそうおっしゃっているのですか?」

「どうしたセウェルスよ。シビュラは巫女だぞ。神と会話できて当然ではないか」

「まあ、だいたい神様の言ってることってそんな感じよ。普段の神託みたいに難しくて大仰おおぎょうに言う必要はないでしょ?」


 アエリアとシビュラは当然のような顔をしているが、セウェルスは空いた口が塞がらなかった。



 月桂樹祭の数日前。とある神託がロムルス中を駆け巡った。

 それは「月桂樹祭で一位となった者は呪われる。神々の呪いを受ける。とにかく優勝すると呪われるから忘れないように」というものだった。

 作り話か、と笑う者もわずかにいたが、あのシビュラがそう言うものだから、多くの者は納得せざるを得なかった。


 もちろん、これはアエリア達三人の企みである。神々の言葉ではなくただの作り話だ。

 シビュラが言うには、自分たちには「神々の名を使っていい」という許可が下りただけだ。

 つまり、一位になったところで神々に呪われはしない。けれども貴族たちは殊更ことさら体面を気にする。

 当然この祭でアエリアを一位にするよう圧力をかけることはなくなった。

 かくしてアエリアは自信満々で月桂樹祭に新作を発表したのだったが…………



 後日。皇帝に献上するワインを作るブドウ畑を見学に来ていたアエリアだが、その顔は浮かない。


「アエリア様、機嫌きげんを直されて下さい」

「余は別に不機嫌ではないっ」


 セウェルスがそう言うと、アエリアはそっぽを向いてしまう。誰がどう見ても、機嫌が悪い。


「今回は、その……残念でした。でも次回があります」


 月桂樹祭に向けて、アエリアが作った渾身こんしんの力作。それは残念ながら――あるいは当然だが――予選の段階で落選していたのだった。


「分かっておる。だが……予選落ちとはなんなのだ? 余の詩のどこがいけなかったのだ? ああもう、余は悔しい!」


 散々な結果に、アエリアはいつものように明るくふるまうことはできないらしい。珍しく不満を顔と態度に表している。

 セウェルスはどう慰めていいのか分からない。

 一方アエリアは、だんだん顔色が悪くなってきた。


「こ、こんなはずではなかった。余は……まさか……自分一人でえつに入っていたのか? ただの自己陶酔じことうすいだったのか? もしそうなら……余は……」


 自信を喪失そうしつしておろおろしているアエリアを見て、セウェルスはさすがにかわいそうになってきた。


「アエリア様……」


 自分はどうするべきか。

 アエリアのお付きであり、彼女を支え守ることが務めのセウェルスは、本来自分がするべきことを思い出す。


(確かに、真にアエリア様のためを思うならば、はっきりと申し上げるべきでしょう)


 時には厳しいことを言わなければならないこともある。

 そもそも、あの自由すぎるアエリアの詩では予選落ちは致し方ない。

 これを機に、しっかりと体裁ていさいの整った普通の詩を書くように注意するのが、本来のセウェルスの務めなのだろう。

 それは分かっている。


(でも、すみません、私には……できないのです)


 アエリアは心の中で、アエリアの両親に、ロムルスを守護する神々に謝る。

 自分の考えは、きっとお付きの者として失格だろう。注意するべき時に注意しないのだから。


「アエリア様」

「セウェルス……?」


 セウェルスは落ち込むアエリアの顔をまともに見る。その手を伸ばして、アエリアの手を取った。


「私は、アエリア様の詩が好きです」


 それはセウェルスの本心だ。

 確かにアエリアの詩は自由すぎるし、意味不明だし、一般的な詩とはかけ離れためちゃくちゃなものだ。

 でも、そこにはアエリアの自由な心と、優しさと、好奇心が余すところなく表現されている。


「確かに、世間にアエリア様の詩を認めさせることはかないませんでした。でも、私は心を動かされました。本当です」


 とはいえ、セウェルスはわずかに良心が痛んだ。

 「心を動かされた」とは言ったものの、それは一と、アエリアの望む「心が動く」ことではないのだから。

 アエリアは感動や賛美を望んでいる。残念ながら、セウェルスはアエリアの詩に驚くことはあっても、心を打たれることはない。

 でもそれを隠して、セウェルスはアエリアに言う。


「私一人では、ご満足いただけませんか?」


 しばらくアエリアは無言だった。そして――彼女はほほ笑む。


「そなたは――優しいのだな」


 セウェルスは一瞬どきっととした。アエリアの目は、全てを見通したような目だった。それは彼女の父、コルネリウス帝の目に似ていた。

 しかしそれはすぐに彼女本来の目、楽しげで快活なものに変わる。


「はっはっは! そなた一人の心を動かせたこと、不満なわけがあるものか。余は大いに嬉しいぞ!」


 大笑いをするアエリアは、もう落ち込んではいなかった。


「そうであった。詩人は失敗と落胆を重ねて芸術の女神の心を震わせるもの。これぞ詩作のかて。余としたことが忘れていたぞ!」

「アエリア様、ご立派です」

「うむ! 感謝するぞセウェルス! そなたこそ、余の忠臣である!」


 アエリアはセウェルスの手を握ったまま、軽やかにブドウ畑を歩きだした。


「手、手をお離しください! このようなところを誰かに見られては……」


 自分からついアエリアの手を取ってしまったものの、離すことができなくてセウェルスは焦る。

 こんなところをブドウ畑で働く者たちに見られたら、アエリアがなんと言われるか。


「遠慮するな、セウェルス。何よりもそなたは余の友なのだからな!」


 アエリアはそう言って、ようやく心底楽しそうに笑った。

 彼女の身分の差を気にしないおおらかさに困惑しつつも、それを心地よく感じてしまうセウェルスであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る